第三章第四話 調律
調律とは、音を整えることではない。
音に意味を与えることだ。
王都祈殿の裏手には、観客席から見えない回廊がある。白い壁、白い床、白い扉。白は清浄の色であり、同時に何も残さない色でもあった。汚れは拭ける。血も拭ける。拭けば正しい。
廊下の端、普段は使われない控室の扉が開くと、熱い香が漏れた。香は甘い。甘い匂いは安心に似ている。似ているだけで、安心ではない。
控室にいるのは巫女たちではなかった。
巫女を扱う側──神官と、調律官と、赤刀衆。
この控室のさらに奥には、もう一枚、厚い壁がある。
壁の向こうは祈殿だ。だが、音は届かないように作られている。
観客席に流れるのは、整えられた鈴の音だけだ。
拍は揃い、間は詰められ、揺れは祝詞に吸われる。
誰かが息を詰めていることも、膝を折ることも。
その壁の外では「想定」にすら入らない。
調律官の一人が、小さく言った。
「客には、良いところだけ聞かせればいい」
良いところ。
その言葉が、手順として扱われる。
神官が書板を一枚めくる。
そこには観客席用の進行表がある。
何拍目で鈴が鳴り、何拍目で神託が降りたことになるか。
失敗した場合の記載はない。
失敗は起きない前提だからだ。
起きるのは、常に過剰反応。
調律官が、ユウナの方を見ないまま言う。
「音が揃えば、成功です」
揃わなかったものが、何であったかは問われない。
問わなければ、存在しない。
床に敷かれた白い布の上に、代替巫女ユウナが座らされていた。
座っているのではない。座らされている。背筋の角度、膝の向き、手の位置。すべてが正しい配置だ。
正しく配置されれば、心も正しくなる──そう教わってきた。
「息を四拍」
調律官が言う。声は静かで、命令は鋭い。
ユウナは吸い、吐く。四拍。規定通り。規定通りの呼吸は、心臓の不規則を拾い上げる。拾い上げた不規則は、恐怖になる。
調律官の視線は、ユウナではなく、数値板に向いていた。
呼吸数、脈拍、発声反応。
刻まれるのは名前ではない。反応だ。
書板に刻まれる記号は簡潔で、感情を含まない。
揺れ一、遅延二、許容範囲内。
許容、という言葉は救済に似ているが、実際には切り捨ての線を示す。
線の内側にいれば続行。
外に出れば、処理。
人がそこにいるかどうかは、問題ではなかった。
恐怖は、揺らぎ。
揺らぎは、人の心。
「香を足して」
別の調律官が言う。陶器の器に香が追加され、煙が一段濃くなる。
濃い香は、恐怖を溶かす。溶けた恐怖は鈍くなる。鈍い恐怖は、抵抗できない。
壁際で、神官が書板を広げている。
そこには「成功」の文字がまだない。だが、空欄はすでに成功の形をしていた。
空欄は後で埋まる。埋まる予定だから空欄なのだ。
アキラが入ってきた。
足音がしない。足音がしない者は、どこにでもいる。どこにでもいる者は、責任を持たない。
「状態は」
アキラが問うと、調律官が即答する。
「香は深い。拍も入っている。鈴の反応だけが──」
「反応は『器』の問題です」
アキラは言い切った。言い切りは、揺らぎを切る。
揺らぎを切れば、道は一本になる。一本になれば迷わない。
ユウナは、自分の名前が『器』に置き換わるのを聞きながら、何も言えなかった。
言えば、配置が乱れる。乱れれば向いていないと判定される。判定されれば、戻される。戻される場所は言われない。
言われない場所の名前が、喉の奥に引っかかった。
捨て谷。
口にしてはいけない言葉。口にした瞬間、存在するものになるから。
「鈴を」
調律官が鈴を差し出す。新しい鈴。よく鳴る鈴。
よく鳴る音は、折れを隠す──はずだった。
最近は逆だ。よく鳴るほど、折れが鮮明になる。鮮明な折れは、聞こえてしまう。
ユウナは鈴を握る。掌が汗で滑る。
握力が落ちる前に、鳴らさなければならない。鳴らせば足りている。足りていれば選ばれる。選ばれれば、救われる──と信じたい。
「合図の後」
調律官が言う。
合図。神託に合図があるという異常。
だが異常を異常として扱わなければ、正常になる。
壁の向こう、祈殿の中央で鳴るはずの鈴の音が、試験的に響いた。
一つ。二つ。
拍が揃う。
合図が来た。
ユウナは鈴を振った。
音が──鳴った。
澄んだ音。長い音。正しい音。
ユウナの胸に、ほんの一瞬、安堵が差す。
差した瞬間、音の終わり際で、わずかな沈みが生まれた。
沈み。
折れ。
折れは、存在してはいけない。
ユウナの喉が熱くなる。熱は上がり、声になろうとする。
声になれば、神託に似る。
似たものは、出る。出てしまう。
「……み……」
音にならない。
音にならない言葉を、調律官が祝詞で覆う。覆えば意味は消える。意味が消えれば、なかったことになる。
だが、ユウナの影が──遅れた。
ユウナが腕を下ろした後に、影が腕を下ろす。
影は嘘をつかない。
嘘をつくのは、整えた側だ。
ユウナの視界が狭くなる。
灯明の火が滲む。
香の甘さが、急に鉄の匂いに変わる。
膝が折れた。
床にぶつかる前に、赤刀衆の腕がユウナの肩を掴んだ。掴みは優しくない。優しくする必要がない掴みだ。
引きずられるように、ユウナは部屋の奥へ運ばれる。
「過剰反応です」
調律官が淡々と報告する。過剰反応。便利な言葉。個体に押し込める。
「記録は」
神官が問う。記録。紙に残るもの。紙は現実より強い。
「器の問題として処理。調律は続行可能」
続行。続行という言葉が、床に落ちた瞬間、ユウナの存在は薄くなる。
薄くなる者は、名前を失う。
アキラが短く頷いた。頷きは同意ではなく、命令の完了。
「良い。次へ」
次。
次があるということは、ユウナは過程に過ぎない。
奥の小部屋に寝かされる。
天井が低い。空気が薄い。香が少ない。
香が少ないと、恐怖が戻る。戻った恐怖は鋭い。
ユウナは自分の掌を見た。鈴の紐が食い込み、赤い跡が残っている。
その赤は血ではない。だが、血に似ている。似ているものは、すぐに本物になる。
扉の向こうで鈴が鳴った。
今度は別の巫女の鈴。音が揃う。揃った音が正しさを作る。
ユウナの喉が震えた。声が出そうになる。
声が出る前に、赤刀衆の一人が小さく言った。
「名は」
ユウナが息を呑む。
「……呼ぶな」
その一言で、ユウナの世界が小さくなる。
名を呼ばれない者は、記録に残らない。
記録に残らない者は、居なかったことになる。
扉の外、祈殿の中央へ向けて、整えられた命令が飛ぶ。
「拍を詰めろ。間を作るな。意味の隙間を消せ」
隙間が消えれば、疑問が入らない。
疑問が入らなければ、神意は失敗しない。
失敗しない神意の裏側で、ユウナの呼吸だけが乱れていた。
乱れた呼吸は、やがて静まる。静まれば、処理が完了する。
調律とは、音を整えることではない。
音が折れた事実を、人の方から折って消すことだ。
そして折られるのは、いつだって──人だった。




