第三章第三話 観客席
王都には、席がある。
前列。中段。最後列。
誰がどこに座るかは、祈殿の配置と同じくらい厳密だ。間違えれば、肩が触れる。触れれば、格が混ざる。混ざれば、秩序が曖昧になる。
曖昧さは、王都では罪に近い。
白巫家の大儀式を前に、貴族たちは城の大広間に集められていた。
広間は白く、冷たく、磨き上げられている。床は滑らかで、歩くたびに足音が消える。音が消えるのは良い。音は意思を持つ。意思は時に反抗する。
反抗は、玉座の敵だ。
最前列に座るのは王族。
そのころ城下では、別の準備が進んでいた。
徴用の札が増え、祠の鍵が外され、外縁へ向かう道が整えられる。
この広間の誰も、それを見ない。見ない者が、決める者だからだ。
王はまだ現れない。現れないこと自体が演出だ。待たせる者は、支配している。支配は見せるものだ。見せなければ、信じられない。
中段に、名門貴族が並ぶ。
衣装は控えめだが、糸は上等。金糸は使わない。金は目立つ。目立つ者は、標的になる。標的は、いつか落ちる。
最後列に、成り上がりが座る。
席は同じでも、空気が違う。視線が違う。呼吸が違う。
成り上がりは、見られていることを意識する。意識する者は、自然ではない。自然でない者は、儀式に向かない。
儀式は、自然でなければならない。
「神託が降りる、そうだな」
中段の男が囁いた。
囁きは、声を持たない声だ。責任がない。責任がない言葉は、よく回る。
「降りるとも。白巫家が準備している」
「準備、か」
笑いが、衣の陰で揺れた。
準備という言葉には、安心と不安が同居する。準備が必要という事実が、神託を人の都合に引き寄せるからだ。
だが、引き寄せられた神託ほど、使いやすい。
広間の奥、半ば隠れるように設えられた観覧席がある。
そこは見るための席だ。祈殿の配置とは別に、王都が用意した席。
見る者は、触れない。触れない者は、責任を負わない。
観覧席の外側には、もう一つの区切りがある。
祈殿へ続く回廊だ。
そこを通る者は、香を吸い、音を浴び、床の冷たさを踏む。
儀式に参加する者は、見るのではない。受ける。
受けた結果、倒れる者も、声を失う者もいる。
だが観覧席には、その気配が届かない。
香は薄められ、音は整えられ、床は温められている。
ここで震えるのは、感動だけだ。
誰かが、当然のように言った。
「神意に触れるのは、役目を持つ者だけでいい」
役目、という言葉が、線を引く。
触れる者と、触れずに決める者の線だ。
責任を負わない者ほど、声が大きい。
「今回の神託で、正統は固まる」
別の貴族が言った。
正統、という言葉が好きだった。正統は血を洗う。過去を洗う。奪ったものを、奪われたものに変える。
変える、では足りない。
正統は、最初からそうだったことにする。
「固まる、というのは」
「座る、ということだ」
視線が、玉座のある方向へ向く。
白い漆の椅子。冷たく、痕跡を残さない椅子。
誰が座るかは、すでに決まっている。
決まっているから、確認が要る。確認が、儀式だ。
確認は、同意に似ている。
広間の空気が、微かに甘くなった。
香が焚かれたのだ。白巫家の香。祈殿と同じ配合。
香は肺に入り、血に混じり、思考を柔らかくする。
柔らかい思考は、抵抗しない。
「……噂は?」
誰かが聞いた。
噂は、都で最も安価な通貨だ。
噂は自然には生まれない。
流す者がいて、拾う者がいて、最後に使える形へ整える者がいる。
都に残る噂は、いつも必要とされたものだけだ。
「追放巫女のことか」
「名は、ミサキ」
名が出た瞬間、何人かが眉を動かした。
名は力を持つ。力を持つ名は、呼びすぎてはいけない。
「器が足りなかった、と」
「足りなかった、で済むなら楽だな」
笑いが、また衣の陰で揺れた。
足りないのは、器ではない。だが、そう言ってしまえば話が終わる。
終わらせないために、都は噂を残す。
「器が足りない者は、座れない」
「座れない者は、見られる側だ」
誰かが言った。
見られる側。
それは、観客ではない。対象だ。
対象は、意味を与えられる。
意味を与えられる者は、所有される。
広間の奥、幕の向こうで、足音がした。
王が来る。
来る前の沈黙は、最も甘美だ。甘美は期待を生む。期待は服従を生む。
王が姿を現すと、全員が立った。
立ち方に差はない。差があってはいけない。
差は、序列を乱す。
王は玉座の前に立ち、まだ座らない。
座らない時間が、権威だ。
「大儀式は、予定通りだ」
王の声は、広間に均等に落ちた。
均等な声は、平等を装う。装いは、支配を隠す。
「白巫家の神託が、正統を示す」
正統。
その言葉に、貴族たちの背が、わずかに伸びた。
伸びる背は、欲望だ。欲望は、見せない。見せないから、深くなる。
「正統が示されれば、異論は消える」
消える、という言い方が良かった。
消す、ではない。消える。
消えるなら、誰も手を汚さない。
広間の隅で、若い貴族が囁いた。
「……神託は、誰のものだ」
隣の年長者が、答えた。
「玉座のものだ」
その言い方が、答えそのものだった。
神は所有できない。だが神託は所有できる。
所有できるものだけが、政治になる。
「白巫家のものでは」
「白巫家は、玉座に奉仕する」
奉仕。
その言葉が、滑らかに空気を撫でた。
奉仕は、上下を明確にする。明確にするから、安心できる。
安心は、所有に似ている。
香が、さらに濃くなった。
濃さに耐えられない者は、咳をした。
咳は目立つ。目立つ者は、適性が疑われる。
疑われるのは、いつも下からだ。
王が、ようやく玉座に座った。
座る瞬間、広間の空気が一段、沈んだ。
沈む空気は、服従だ。
「神託は、失敗しない」
王が言った。
断言は、命令だ。
貴族たちは頷いた。
頷きは、同意であり、契約だ。
契約は、身体を縛る。
縛られることを、彼らは嫌わない。
縛られることで、他者を縛れるからだ。
広間の奥、観覧席の影で、誰かが小さく息を吸った。
吸った息が、どこか甘く、どこか苦い。
香のせいだ。
誰も、その息の主を見ない。
見ないことで、席は守られる。
王が立ち上がり、儀式の開始を告げた。
「明日、神意が確認される」
確認。
確認されるのは、神ではない。
確認されるのは、誰が正しく所有するかだ。
玉座は、まだ空いていない。
空いていないから、奪う必要はない。
奪う必要がないから、誰も血を流さない。
──今は。
香が消え、広間がざわめきに戻る。
貴族たちは席を立ち、衣を整え、笑顔を作った。
笑顔は、最も安定した仮面だ。
その仮面の裏で、誰もが同じものを思っていた。
神託が示すのは、神の意思ではない。
誰が座り、誰が見られるか。
それだけだ。




