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第一章第二話 器として不適


 判定の場は、祈殿ではなく診殿だった。


 同じ白い石で造られているのに、空気が違う。祈殿の白は「清らかさ」を装うための白で、診殿の白は汚れを見つけやすい白だ。どちらも人のためではない。神のためでもない。制度のためだ。


 戸をくぐった瞬間、薬草と消毒酒の匂いが鼻を刺した。香の甘さとは正反対の匂い。喉の奥が渇き、さっきまで正しいはずだった呼吸が、急に自分のものに戻る。


「座りなさい」


 声をかけたのは医師だった。白巫家の神官ではない。だが、彼も白い衣を着ている。白はここでは権限の色だ。白を着ている者は命令でき、白を着ていない者は従う。


 私は、低い木椅子に腰を下ろした。


 向かいの机には紙束が積まれている。紙の角が揃っているのが不気味だった。祈殿の言葉は曖昧で、解釈の余地が残るのに、ここにあるものは余地を許さない。文字は細く、規則正しく、最初から答えが用意されている。


「名」


「……白巫ミサキです」


「年」


「十七」


 医師はうなずき、紙に何かを書きつける。


「神意、未受信。既往の異常なし。頭痛、耳鳴り、吐き気」


「……」


 私は何も言わなかった。言うべき言葉がない。否定するのは傲慢で、肯定するのは自己否定だ。自己否定は美徳として教わってきた。だから沈黙が一番正しい。


 机の奥に、もう一人いた。


 背の高い女。白衣の上に、薄い羽織をかけている。目は細く、まばたきが少ない。視線は温度を持たない。あの視線は祈殿にもあった。神官の視線より冷たく、医師の視線より正確なやつだ。


 私は彼女の名を知らない。

 知らないままでも、分かる。判定する側だ。


「進めて」


 女は短く言った。


 医師が立ち上がり、衝立(ついたて)の向こうを指示する。


「衣を。こちらへ」


 衝立の向こうはさらに白かった。布の白、床の白、器具の白。白が重なりすぎると、目が痛くなる。白巫家の白は、目に優しいように作られている。ここは違う。白で責めてくる。


 私は衣の紐を解いた。手が震えないよう、呼吸の数を数える。呼吸を数えるのは、祈りと似ている。祈りは数えないと教わったのに、私は数えた。数えることでしか自分を保てないことが、すでに「器として不適」なのだと、どこかで理解していた。


 肌に冷気が触れる。

 寒い、という感覚が遅れて来る。先に鳥肌が立ち、後から寒さが追いつく。昨日まで「神意に近い冷え」と呼んでいた感覚は、今日はただの冷気だった。近いのではない。晒されているだけだ。


 医師は淡々と器具を用意した。金属の冷たい音がする。音が小さいのに、やけに刺さる。祈殿の鈴よりはっきりしている。あの鈴は、時々曖昧になる。ここは曖昧にならない。


「手を」


 指示に従い、手を差し出す。指先を触られる。爪の形、皮膚の厚み、細かな傷。私は自分の手をこんなに見つめたことがない。


「……血の巡りが良い」


 医師が独り言のように言う。良い、という言葉は褒め言葉ではない。数値が平均から外れているという意味だ。


 次に、首筋。鎖骨。背中。


「痣はない」


「……」


 痣、と聞いて、私は息を止めそうになった。

 痣は、巫女たちが最も怖れるものだ。神託に耐えられなかった器に出る印。医師は事務的に言っただけなのに、言葉だけで胸が痛む。


「痛むか」


「……わかりません」


 答えは正確だった。痛むのか、怖いのか、恥ずかしいのか、私は判別が苦手だ。判別が苦手だから、巫女として便利だった。便利な器は、何でも受け入れる。何でも受け入れる器は、いつか割れる。


 女の視線が、私の腹のあたりで止まった。


「……そのあたり、冷えてる」


 女が言う。


 医師が触れる。指が触れた瞬間、肌の上だけではなく、内側まで冷たくなる。冷気が移ったように感じた。移るはずがない。触れただけで温度が変わるはずがない。


 私は思わず、衝立の向こう──神像のある方角を見た。見えないのに、そちらを見る癖が残っている。


「目を逸らさない」


 女が言った。


 声が低い。怒ってはいない。ただ、逸らすことが許されていないと告げている。


「……はい」


 私は視線を戻した。


 医師が紙に書き込む。

 文字が増えるほど、私は薄くなる。


「検査、終わり」


 医師が言う。終わりのはずなのに、私は終わった気がしなかった。終わったのは検査で、判定はこれからだ。判定は私の外側で行われ、私はそれを受け取るだけ。受け取れない器に、受け取れない判定が下る。矛盾なのに、制度は矛盾を嫌わない。矛盾は人の心の問題にされる。


 衣を戻し、椅子へ戻る。


 机の前で、女が紙束をめくった。

 一枚一枚が軽いのに、めくる音は重かった。


「白巫ミサキ」


 名を呼ばれた。

 あの時の名呼びは冷たかった。今の名呼びは、さらに冷たい。温度というより、重力だ。名を呼ぶことで、私が「判定可能な対象」に固定される。


「あなたは、祈殿に入るとき、息が浅くなる」


 女が言う。


「……」


 私は答えなかった。否定する術がない。祈殿に入ると息が浅くなるのは、神意に近づくからだと教わってきた。それを今、異常として言われている。


「神託が降りないのに、身体が反応している」


 女は紙を閉じる。


「つまり、受信できないのではない。受信する必要がない」


 その言葉は、意味が分からないのに、体に理解された。

 胃の奥が沈む。冷たいものが落ちていく。


「……どういう」


 私は、そこで言葉を切った。

 問いは傲慢だ。傲慢は裁かれる。裁かれるのは怖い。怖いのに──怖いと自覚することが、すでに祈りから外れている。


 女は、初めて少しだけ表情を動かした。

 笑みではない。上手く言葉を選ぶ顔だ。


「あなたは、器として不適」


 告げられた言葉は、短い。


 短いのに、体の中で反響した。

 祈殿の鈴より、長く響く。


「……神意を受け取れない、ということですか」


 私は、なんとか口にした。


「受け取れない、ではなく──受け取らせられない」


 女は訂正する。


「白巫家にとって、ね」


 最後の一言が、遅れて刺さった。


 白巫家にとって。


 神にとって、ではない。

 神意にとって、でもない。

 白巫家にとって、だ。


 私は、笑いそうになった。

 笑える状況ではないのに。笑いは失礼なのに。なのに、胸の奥で、第一話で感じたあの確信が、形になりかけた。


 神意は揺らがない。

 揺らいでいるのは人の心。


 ──なら、今揺らいでいるのは、白巫家の方だ。


 女は椅子から立ち上がり、机の横を通り過ぎる。


「判定は後日、正式に下る」


 形式が必要なのだ。

 形式があれば、正しいふりができる。


 戸口で、女が一度だけ振り返った。


「情があるから、あなたは向いていない」


 それは、慰めの形をした切断だった。


 情がある。

 向いていない。

 器として不適。


 私は、深く頭を下げた。頭を下げるのが正しい。頭を下げれば、見なくていい。見なければ、揺らがないふりができる。


 女が去り、医師が器具を片付ける音がする。

 白い部屋は、何も起きなかったかのように整えられていく。


 私は、自分の手のひらを見た。

 さっき触られた場所に、まだ冷たさが残っている。気のせいではない。冷たさは確かに残っていて、残っているという事実が、私の中に小さな怒りを作った。


 怒りはここでは禁忌だ。

 禁忌を抱えたまま祈ると、器が割れる。


 私はゆっくり息を吸った。

 祈殿より深く吸えた。


 衝立の向こう、どこかで鈴が鳴った。

 祈殿の鈴ではない。診殿の金属音だ。


 なのに私は、一瞬だけ身構えた。

 音が途中で途切れる気がしたからだ。


 途切れなかった。


 途切れないはずの音を、途切れると思ってしまう。


 それが、人の心の揺らぎだと言うなら。

 私は、ますます巫女に向いていない。


 机の上に、医師が新しい紙を置いた。


「署名を」


 紙には、私の名が書かれていた。

 名がある。名があるだけで、私はまだ「人」だ。名が消えたら、私は器になる。器は捨てられる。捨てられる器は、記録から消える。


 私は筆を取った。


 筆先が紙に触れた瞬間、指先がわずかに痺れた。

 冷えではない。違う感覚。細い針が、皮膚の内側から立ち上がるみたいな。


 私は、名を書いた。


 白巫ミサキ。


 書き終えた瞬間、紙の端に、医師が小さな印を押した。

 赤い印。白い紙の上で、それだけがやけに生々しい。


「これで手続きは完了です」


 完了。

 完了という言葉は、終わりを意味しない。終わりの準備が整った、という意味だ。


 私は立ち上がった。


 診殿の扉を出る前に、一度だけ振り返る。

 白い部屋はもう、私がいなかったみたいに整えられていた。


 私も、そうなれるだろうか。

 いなかったみたいに、消える。


 ──嫌だ。


 その嫌だ、という感情を持つこと自体が、私を巫女から遠ざける。遠ざけるなら、もう戻れない。戻れないのなら、せめて──自分の足で歩きたい。


 廊下の先に、祈殿の白が見えた。

 あの白は、私を受け入れない。


 受け入れない白に向かって、私は歩く。

 判定の場へ。追放の場へ。


 その前に、ひとつだけ確認したいことがあった。


 祈殿の壁龕(へきがん)

 神像の影。


 私は、ほんの一瞬だけ目を向けた。


 影は、灯明の揺れに合わせて動いた。

 ──遅れは、なかった。


 なかったはずなのに、胸の奥の痛みだけは、遅れて来た。


 まるで、私の体が先に知っていて、心が後から追いつくみたいに。


 それが神意だと言うなら。

 神意は、やっぱり少しだけ乱暴だ。


 そして、その乱暴さを「清らか」と呼ぶ人たちが、白巫家だ。


 私は息を吐いた。

 深く、静かに。


 判定の場では、きっとこう言われるだろう。


 ──情けとしての追放。


 情け。

 その言葉が、今はもう、刃にしか聞こえなかった。

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