第三章第二話 祈りは配置される
配置は、祈りだ。
白巫家の教えでは、物は正しい場所に置かれるべきで、人も正しい場所に置かれるべきで、言葉も正しい順で並べられるべきだ。
順と場所が揃えば、世界は揃う。世界が揃えば、神意は揺らがない。
──揺らぐのは、常に人の心だ。
王都の祈殿は、里の祈殿よりも広い。
広いのに、息が詰まる。天井が高いほど祈りが抜けるはずなのに、ここでは祈りが下へ溜まる。白い空気が床の上に薄く積もり、歩くたびに裾がそれを撫でる。
セイラは、祈殿中央の円壇の前に立ち、巫女たちの列を見ていた。
列は整っている。髪の高さ、視線の角度、足の開き。整いは美しい。美しいから正しい。
しかし──整いの中に、微細なずれがある。
ずれは、目で見て分かるほどではない。
ずれは、鈴の音の終わり際にだけ出る。
ずれは、影の遅れとしてしか現れない。
セイラはそれを見ないことができる。
見ないことができるから、上位巫女に選ばれてきた。
見ないことができる者が、白巫家の秩序を守る。
円壇の脇で神官が書板を広げ、淡々と読み上げる。
「第一環:セイラ様。第二環:ユウナ。第三環:──ナギ」
名が呼ばれるたび、巫女たちが一歩前へ出て、所定の位置に立つ。
所定、という言葉が好きだった。所定は救いだ。所定がある限り、迷わずに済む。
ただ一つ──所定が誰かの不在を示すときは別だ。
セイラは、列の端を見た。
本来なら、そこにいるはずの影がない。影がないのに、列は揃っている。揃っているからこそ、欠けが際立つ。
欠け。
その単語が喉まで上がり、セイラは唇の奥で噛み殺した。
欠けは禁句ではない。だが口にした瞬間、世界に「欠け」が生まれる。生まれた欠けは、記録に残る。
記録に残れば、揃わない。
「第四環:──」
神官が続けようとした瞬間、円壇の脇の灯明が揺れた。
風はない。窓は閉じてある。
揺れる理由がないのに揺れる。
灯明の影が、一拍遅れて壁を撫でた。
セイラは視線を滑らせ、揺れを見なかったことにした。
見なかったことにすれば、揺れは存在しない。
存在しなければ、神意は正しい。
「第四環:補助巫女。配置は変更ありません」
神官が読み上げた。
変更なし。変更なしは安心だ。変更があると人は不安になる。
不安が増えると、揺らぎが表へ出る。表へ出れば、秩序が崩れる。
秩序が崩れると、玉座が空く。
玉座が空けば、血が流れる。
──血を流さないために、誰かの血を流す。
セイラは円壇を降り、控えの間へ向かった。
廊下には香が満ちている。香は濃い。濃い香は、里では神意の満ちを意味した。
王都では違う。王都の濃さは調整の濃さだ。濃くすれば、人は安心する。安心すれば疑問が減る。
控えの間では、若い巫女ナギが白衣の紐を結び直していた。
ナギは新しく選ばれた。選ばれた理由は単純だ。器が強い。声が澄んでいる。祈りを受け取る速度が速い。
速い器は、優秀に見える。
優秀に見える器は、代替になる。
──そう思いたい。
「ナギ」
セイラが呼ぶと、ナギは背筋を伸ばして振り向いた。
「はい、セイラ様」
声が澄んでいる。澄みすぎて、薄い。
薄い声は、折れたときに鋭い音を立てる。
円壇の縁には、白い粉で細い線が引かれていた。
足の置き場を示す線だ。線は祈りのためではない。
人を迷わせないためだ。
迷わなければ、疑問は生まれない。
その線が一本だけ、余っている。余っている線は消されず、最初から存在しなかったように扱われている。
セイラの目はそこを避ける。
避けられる目こそが、上位に残る。
「配置を確認します。あなたは第三環。ユウナの後。私の外側です」
「はい。承知しております」
ナギは即答した。即答は良い。迷いがない。迷いがない者は正しい。
正しい者は、疑問を持たない。
セイラは、そこで一つだけ確かめた。
「香が濃いと、気分は?」
ナギがきょとんとした顔をする。
問いの意図が分からない。分からないのに、答えなければならない。
「……少し、頭が熱くなります」
熱くなる。
それは良い兆候ではない。祈りが体に乗っている証拠だ。体に乗る祈りは、いつか体を壊す。
セイラは穏やかに頷き、言葉を整えた。
「神意が近いのです。よいことです」
言いながら、セイラは自分の喉が乾くのを感じた。
乾きは不安だ。不安は揺らぎだ。揺らぎは口にしない。
「鈴は新しいものを使います。音の終わり際まで、意識を保って」
意識を保って。
それは祈殿では言わない指示だ。
神託は意識で受けるものではない。受けるのは器だ。器が受け取れないのは器が足りないからだ。
だが今、足りないのは器ではない。
足りないのは──穴を塞ぐものだ。
セイラは、その穴の名を心の中でだけ呼んだ。
ミサキ。
呼んだ瞬間、胸の奥がひくりと動いた。
鈴の音が耳の奥で一拍遅れた気がした。
影が遅れた気がした。
ナギが不安そうに言った。
「……セイラ様。大丈夫ですか」
大丈夫、という言葉を、セイラは嫌った。
大丈夫かと問われること自体が、揺れの証拠になる。
「大丈夫です」
セイラは即答した。
即答は焦りの証拠だ。だが彼女は焦りを見ない。見なければ存在しない。
廊下の向こうから、神官が呼びに来た。
「セイラ様。リハーサルを」
リハーサル。
儀式にリハーサルが必要だという事実が、すでに揺らぎだ。神意は練習を必要としない。必要とするのは人の都合だ。
セイラは白衣の袖を整え、歩いた。
袖が床を撫でる。撫でた影が、一拍遅れて付いてくる。
祈殿に入ると、円壇の中央に鈴が並べられていた。
新しい鈴。よく鳴る鈴。正しい音の鈴。
正しい音は、折れた音を隠す。
神官が祝詞を上げ、巫女たちが配置につく。
第一環にセイラ。第二環にユウナ。第三環にナギ。
輪ができる。輪ができれば、世界が閉じる。閉じれば揺らぎは外へ追い出される──はずだ。
「では」
神官が言う。
「神託を」
鈴が鳴る。
よく鳴る。澄んでいる。安心する。
安心した瞬間、ナギの肩が僅かに跳ねた。
セイラは見ないふりをした。
見ない。見ない。見ない。
見ないことで、秩序を守る。
だが、鈴の音の終わり際で──音が折れた。
折れた音は、今までよりもはっきりしていた。
新しい鈴ほど、折れが鮮明になる。
隠すために新しくしたのに、逆に露わになる。
ナギの喉が鳴り、唇の端に白い泡が浮いた。
セイラの胸の奥が冷える。
冷えは恐怖だ。恐怖は不安だ。不安は揺らぎだ。揺らぎは口にしない。
セイラは穏やかな声で言った。
「続けなさい」
続ければ正しい。
正しければ、失敗は存在しない。
存在しない失敗は、記録に残らない。
ナギの瞳が揺れ、揺れを殺して、口が動く。
「……南。……煙……外……」
言葉が出た。
出たのに、整っていない。
整っていない言葉は、神託ではない。
セイラは一歩前に出て、その言葉を整える。
「南の外縁に穢れがあります」
穢れ。
便利な言葉。穢れは何にでも使える。穢れと言えば、原因は外に押し出せる。外に押し出せば、内側は正しいままだ。
神官が頷き、書板に記す。
「穢れ。外縁」
記録が揃う。
揃った瞬間、ナギが崩れ落ちた。
倒れた白衣のまわりへ、神官が二人、音のない歩幅で寄った。布を持ち上げ、顔を隠し、息の音を覆う。
これは救助ではない。処理の段取りだ。
誰も大丈夫かと言わない。
言えば、大丈夫ではない現実が生まれる。
生まれた現実は、記録に残る。記録に残れば、揃わない。
白衣が床に広がる。
白が白の上に倒れる。
美しい。美しいから、誰も悲鳴を上げない。
神官が淡々と告げる。
「器が足りなかっただけです。配置を入れ替えます」
入れ替え。
人が物のように入れ替えられる。
入れ替えられることで秩序が守られる。
セイラは頷いた。頷かなければならない。
頷けば、崩れたナギは失敗ではなく器の不足になる。
器の不足は個人の問題だ。個人の問題なら、秩序は正しい。
秩序が正しいなら、ミサキは必要ない。
──そう言い聞かせるために。
セイラは床に倒れたナギを見なかった。
見れば、泡の白さが現実になる。
現実になれば、鈴の折れが確定する。
確定した瞬間、玉座は空く。
玉座が空けば、血が流れる。
血を避けるために、今日も白巫家は配置を正す。
正すたび、何かが確実に折れていく。
折れる音は、もう隠せない。




