第三章第一話 王都、準備は整う
王都は、雪を知らない。
正確には、雪は降る。冬の空は時折、白い粉を落とす。けれど王都に積もる白は、夜明け前に消える。踏み固められ、湯をかけられ、溝へ流され、最後は布で拭われる。白が残ると困るからだ。
白巫家の白が、唯一の白でなければならない。
雪の白は、勝手に降る。勝手な白は、秩序に似合わない。
だから、都は雪を知らないことにする。
まだ空が灰色のままの刻、城下の路地に男たちが出る。名もない下役。白衣ではない。袖の擦れた作業着。指は赤く割れ、息は白い。息の白だけは止めようがなく、彼らはそれを吐きながら、白を消していく。
「溝へ」
短い号令。溝の蓋が外され、湯が運ばれ、雪が崩される。
白が溶けて水になる。水は流れる。流れたものは記録に残らない。
残らないものは、都では起きていないのと同じだ。
朝、城下の通りに香が焚かれた。
市場の匂い──魚の生臭さ、獣の脂、濡れた藁──その上に、ほんの少し甘く、ほんの少し苦い香が薄く広がる。薄い香は、気づかれにくい。気づかれにくいものほど、人を動かす。
息を吸えば、肺が清くなった気がする。
清くなった気がすれば、心は正しくなる。
正しい心は、疑いを生みにくい。
疑いが減れば、玉座は揺れない。
白巫王国の玉座は、城の最奥に置かれている。
金でも鉄でもない。木でも石でもない。白い漆で塗り固めた「形」だけの椅子だ。座る者の体温を拒むように冷たく、座る者の汗を嫌うように滑らかで、座る者の痕跡を残さない。
痕跡を残さない椅子は、いつでも新しい。
新しいものは正しい。正しいものは疑われない。
だから王は、そこに座る。
王が座っている限り、玉座は空いていない。
空いていない限り、世界は続く。
──続く、はずだった。
城内では、大儀式の準備が進んでいた。
回廊は白く磨かれ、灯明は増やされ、香は層をなすように焚き足される。白巫家の神官たちが歩くたび、白衣の裾が床を撫でる。撫でる音は小さい。小さい音が重なると、城の中に薄い波が生まれる。
波は祈りに似ている。
祈りに似ているから、誰も不安にならない。
不安は、外で起きるものだ。
内側には要らない。
「香は、これでよい」
上位神官アキラが言った。
王都の空気の中心に立つ女。声が低い。低い声は揺れない。揺れない声は正しい。
傍らで巫女セイラが頷く。
澄んだ目。澄んだ声。澄んだ頷き。澄んだものは「器」として美しい。美しい器は飾りになる。飾りは秩序を示す。秩序が示されれば、秩序は実在することになる。
「鈴は、すべて新調しました」
神官が木箱を開ける。中には小さな鈴が整列していた。金色ではない。鈍い銀色。反射を抑えるために磨かれ、磨かれすぎて光が死んでいる。余計な光は揺らぎを呼ぶ。揺らぎは、ここでは存在してはならない。
セイラが鈴をひとつ取り上げる。
指の腹で、ほんの一瞬だけ確かめる。冷たさ。重さ。縁の滑らかさ。新しいものの正しさ。
軽く振った。
澄んだ音が鳴る。
よく鳴る音。耳が安心する音。
安心する音は、折れた音を隠す。
──隠せると思わせる。
作業は淡々と進む。淡々と進むから恐ろしい。
書板が並べられる。
香の配合──甘を一、苦を半、煙を薄く。
祝詞の拍──四拍で吸い、四拍で吐き、間を作らない。
巫女の配置──第一環、第二環、第三環。角度まで指定。
灯明の数──増。影が増える分、祝詞を詰めて覆う。
見物席──増。貴族席、文官席、武門席。視線の流れを整える。
整える。整える。整える。
整えるほど、揃わないものが目立つ。
目立つものは、消す。
城の外では、祭りの準備が始まっていた。
露店の布が張られ、紙垂が結ばれ、提灯が吊られる。子どもたちが走り回り、商人たちが声を張り、侍たちが警備の位置を決める。
白巫家の大儀式は、信仰であり、政治であり、見世物だ。
見世物は成功しなければならない。成功しなければ、誰かが座り直そうとする。座り直しは血を呼ぶ。
血は、都に似合わない。
だから都は、血を遠ざける。
遠ざけるために、血を流す。
回廊の奥、格子戸の向こうで短い咳が聞こえた。
短い咳は病ではない。緊張だ。緊張は選ばれる場に集まる。
格子戸が開き、若い巫女たちが列をなして出てきた。
みな白い衣。みな同じ髪型。みな同じ歩幅。
同じであることは安心だ。安心は秩序だ。
その列の中に、ほんの一人だけ歩幅のずれる巫女がいた。
セイラの視線が、僅かにそこへ寄る。
寄った瞬間、戻す。
見ない。
見なければ、揺れはない。
それでも目は、見たがる。
見たがる目を、止めるのが優秀だ。
「配置を」
アキラが言うと、神官が書板を読み上げる。
「第一環はセイラ様。第二環にユウナ。第三環に──」
名前が並ぶ。並ぶ名前は、物の配置と同じだ。
巫女の配置。器の配置。
器は人の形をしていても、器だ。
セイラは淡々と問うた。
「……欠けは?」
欠け。
祈殿では禁句に近い。だが王都では禁句の壁が薄い。政治は禁句を必要とする。禁句を持つ者が、禁句を管理できると示すために。
神官が一瞬だけ口を閉じ、答える。
「欠けは、埋めました」
埋めた。
何で埋めたのかは言わない。言えば現実になるからだ。
書板の端に、削り跡があった。
墨の上から、爪でこすったような傷。名を消すときの手つきだ。
消された名は、欠けではない。最初から置かれなかったことになる。
セイラはその傷を見た瞬間、舌の裏に鉄の味を感じた。
香の甘さが、急に薄くなる。
薄くなったと感じたこと自体が、揺れだった。
セイラの指先が袖の中で僅かに震えた。
震えは祈りのせいにできる。祈りが濃いから震える。器が感じるのは神意。神意は正しい。だから震えは正しい。
──そうしておけば、崩れない。
なのに。
回廊の窓から見える王都の空は、どこまでも淡い。
冬の淡さ。粉雪の淡さ。
淡さの中に、ほんの一線だけ黒い煙が立っている。
煙は城下の外れから上がっていた。
炭焼きか、火事か。どちらでもいい。都の外れで起きる黒は、都の白には届かない。届かないように、都は設計されている。
だが──その煙を見た瞬間、セイラの胸の奥が、ひくりと動いた。
最初は耳だった。
鈴の音が、耳の奥で一拍遅れた気がした。
気がしただけ、と言い聞かせる。
言い聞かせれば、気のせいになる。
次に喉が乾いた。
乾きは香のせいにできる。香は濃い。濃い香は喉を乾かす。乾けば声が揺れる。揺れないように、息を整える。
息を整えるために、息を止めてしまう。
止めた瞬間、心臓の音が大きくなる。
大きい音は不安を呼ぶ。呼んではならない。
セイラは袖の中で指を組み直す。
組み直した指先が冷たい。冷たさは鈴の冷たさに似ている。似ているから、思い出してしまう。
──折れ。
折れた音を、隠したはずの鈴。
よく鳴るほど、折れが鮮明になる鈴。
思考がそこへ行く前に、セイラは自分の視線を床へ落とした。
床は白い。磨かれ、拭われ、揃っている。
揃っていれば、正しい。
正しければ、神意は失敗しない。
「……セイラ様?」
神官が呼ぶ。
セイラは澄んだ声で答えた。
「続けてください」
澄んだ声は、揺れを隠す。
隠せば、秩序は保たれる。
秩序が保たれれば、玉座は空かない。
玉座が空かない限り、
誰も、血を流さずに済む。
その夜、城の最奥で、玉座の前に新しい鈴が置かれた。
よく鳴る鈴。正しい音の鈴。
アキラがそれを一度だけ鳴らし、頷いた。
「神意は、失敗しない」
セイラも頷いた。
頷きながら、彼女の目はどこか遠くの煙を追っていた。
煙の立つ方角。都の外れ。
「外」という言葉の中に、なぜか一つの名が浮かぶ。
──ミサキ。
浮かんだ名を、セイラは心の中で消した。
消せば、存在しないことになる。
存在しなければ、揺れは起きない。
だが、消した瞬間に。
新しい鈴の音の終わり際で、ほんの一拍、音が折れた。
誰もそれを口にしない。
口にしなければ、玉座はまだ空いていない。
そう信じられる者だけが、
明日の準備を続けられる。
網の内側は、静かだ。
静かだからこそ、壊れるときの音は大きい。
そしてその音は、もう──
都の白の中で、鳴り始めていた。




