第二章第九話 神意は、失敗しない
神意は、失敗しない。
失敗するのは、人だけだ。
人が失敗するから、神意は常に正しいままでいられる。
正しいままでいられるから、世界は揺れない。
──揺れているのは、常に人の心だ。
白巫の祈殿は、今日も整えられていた。
香は濃く、灯明は増やされ、鈴は新しいものに替えられている。新しい鈴はよく鳴る。よく鳴る鈴は正しい音を作る。正しい音が鳴れば、折れた音は聞こえなくなる。
折れた音があったことすら、記録から消える。
上位神官アキラは、円壇の中央に立ち、報告書板を束ねていた。
束ねるたびに、紙が擦れる。擦れる音が、祈殿の静けさに傷をつける。傷は増える。増える傷は、いつか割れる。
だが割れてはならない。
「捜索の結果を」
アキラの声は低く、丁寧だった。丁寧な声は刃だ。切り口が綺麗で、血が目立たない。
控えていた神官が一歩前に出る。
顔色が悪い。顔色が悪いのは睡眠不足のせいではない。祈りが濃くなると、人は薄くなる。薄くなるほど、息が浅くなる。
「……追跡は継続中です」
継続中。
その一言の中に、無数の失敗が押し込まれている。
アキラは頷かなかった。頷けば継続中を肯定することになる。肯定した瞬間、失敗が記録になる。記録になれば揃わない。
「具体的に」
言葉を求める。
求めれば、誰かの舌が折れる。折れた舌は、捨て谷へ行く。
「祠の点検は全て完了しました。結界の張り直しも。赤刀衆を動かし、抜け道も──」
神官は言葉を並べ、整え、正しさの形にする。
だが、正しさの形はいつも同じ形だ。形が同じなら、内容が違っていても、同じに見える。
アキラは、そこで初めて頷いた。
「よろしい」
頷いたのは、報告が成功したからではない。
報告が成功した形になったからだ。
巫女セイラが円壇の端で静かに手を組んでいた。
彼女は優秀だ。神託を安定して受け取れる。受け取れるから、選ばれていると思っている。選ばれていると思える者は、組織にとって便利だ。
だが便利なものほど、壊れたときに大きい音を立てる。
「ミサキは、どこへ向かっているのですか」
セイラが問うた。
問う声は澄んでいる。澄んでいるのに、どこかで焦っている。焦りは、自分が選ばれているという前提が揺れるときに出る。
神官が口を開きかけ、閉じた。
答えは分からない。分からないことは言えない。言えないから、代わりに神託を呼ぶ。
アキラは、静かに言った。
「神託を」
空気が一段、薄くなる。
薄くなるのに重くなる。祈殿が息を止める。
巫女が前へ出た。名を呼ばれない巫女。器として薄い巫女。
膝をつき、掌を合わせ、鈴を鳴らす。
鈴は新しい。よく鳴る。
──よく鳴りすぎた。
音が、必要以上に長く伸びる。伸びる音は美しい。美しいからこそ、異常に見えにくい。
伸びた音の終わり際で、ほんの一瞬、音が折れた。
折れたのに、すぐに続く。
続くから、折れていないことになる。
巫女の喉が鳴り、言葉が出る。
「……南。……石段。……谷……」
途切れ途切れの言葉。
途切れは器の弱さにされる。器が弱いから途切れる。神託は正しい。だから世界は正しい。
セイラが一歩前に出て、巫女の言葉を整えた。
「南の石段から、谷へ。捨て谷に近づいています」
捨て谷。
その単語が祈殿で発音されたこと自体が、異常だった。
本来なら存在しない場所。記録にない場所。存在しないはずの穴。
祈殿の空気が、ひくりと痙攣したように揺れる。
灯明の影が一拍遅れて動いた。
セイラの目が、僅かに揺れた。
揺れた目を、アキラは見ないふりをした。見れば、揺れを認めることになる。
「……捨て谷という言葉は、不要です」
アキラは穏やかに言った。
穏やかな声ほど、命令の刃が深く入る。
セイラは一瞬だけ口を閉じた。
閉じて、やがて頷いた。
「失礼しました。……南の谷筋、と」
言い換え。
言い換えは、世界を揃える行為だ。揃えれば正しい。
だが──揃えれば揃えるほど、揃えられないものが増える。
奥の影から、長老カンエンがゆっくり出てきた。
穏やかな目。穏やかな声。穏やかな言葉。
「アキラ。焦りすぎてはならぬ」
「焦っておりません」
アキラは即答した。
即答は焦りの証拠だ。だがカンエンはそれを指摘しない。指摘すれば揺れるからだ。
「追放は慈悲だった。慈悲は揺らがぬ」
カンエンは言う。
慈悲が揺らがぬ、というのは美しい言葉だ。美しい言葉は、人を安心させる。安心すれば疑問が消える。
しかし、アキラの腹の底は知っている。
追放は慈悲ではない。追放は処分の先延ばしだ。先延ばしが利かなくなったから、いま捜索している。
そして追いつけない。
アキラは、書板を裏返し、別の板を取り出した。
そこには王都の大儀式の予定が記されている。日付。参列者。段取り。鈴の種類。香の銘柄。灯明の数。
整いすぎた段取りは、怖い。
段取りが整うほど、想定外の一滴が致命傷になる。
「大儀式の日程を前倒しします」
祈殿の空気が、目に見えない波を打った。
神官たちが息を呑む。
「前倒し、ですか」
セイラが問う。
問う声が、わずかに高い。
高い声は不安の証拠。だが彼女は不安を認めない。認めれば選ばれている前提が揺れる。
「はい」
アキラは淡々と言った。
「網を締めるなら、締め切る。
揺らぎが表へ出る前に、正しさを確定させます」
確定。
その言葉が、祈殿の奥に落ちた瞬間、誰かの肩がぴくりと動いた。確定は危険だ。確定は、壊れた神託を正しい神託と宣言することになる。
カンエンが静かに首を振る。
「無理をするな。揺らぎは、人の心だ」
「揺らぎは、人の心です」
アキラは同じ言葉を繰り返した。
繰り返しは祈りに似ている。祈りに似ているから正しい。
「だから、人の心を整えればよい」
整える。
整えるために、祭りが要る。儀式が要る。神託が要る。
要る、要る、要る。
要ると言えば言うほど、要らないものが増える。増えた要らないものは捨て谷へ行く。
「追放巫女は」
カンエンが問うた。
アキラは答えた。
「大儀式までに戻します」
戻す、と言って、戻す場所を言わない。
祈殿か、牢か、捨て谷か。
どこであれ、記録には残らない。
セイラが、そこで初めてはっきりと口にした。
「……ミサキが、必要なのですか」
必要。
その単語が、祈殿を切った。
アキラは一瞬だけ沈黙し、やがて言った。
「必要ではありません」
否定。
否定は強い。強い否定ほど、真実に触れている。
「必要なのは、秩序です」
秩序。
秩序のためなら、器は要らない。器の代わりはいくらでもいる。
そう言い切ることで、ミサキの存在を「無」にする。無にすれば、追放は正しかったことになる。
だが──無にできないから、捜索している。
アキラは鈴を取り上げ、巫女の前から遠ざけた。
鈴が鳴りそうになるのを、止める仕草。止めるのは音ではない。疑問だ。
「セイラ」
アキラは、澄んだ声の巫女を呼んだ。
「あなたは、王都の準備に専念しなさい。
神託の調律を。香の選定を。鈴の交換を。──巫女の配置を」
巫女の配置。
人を物として扱う言い方。
セイラはそれを当然と受け取る。受け取れる者は、白巫家では強い。
「はい」
セイラは頭を下げた。
下げた瞬間、袖が灯明の影を覆い、影が一拍遅れて動いた。
セイラの視線が、ほんの僅かにそこへ吸い寄せられる。
──見てしまった。
見たのに、見なかったことにする。
見なかったことにできる者が、白巫家で生き残る。
セイラは視線を戻し、澄んだ声で言った。
「神意は、失敗しません」
アキラは頷いた。
頷いたのは同意ではない。命令の完了だ。
その日、祈殿から命が放たれた。
捜索の拡大。結界の強化。赤刀衆の追加投入。
そして、王都大儀式の前倒し。
白巫家は、自分で自分の首を締める。
締めれば締めるほど、息は苦しくなる。
苦しくなればなるほど、祈りは濃くなる。
濃くなればなるほど、壊れる。
壊れる音は、まだ聞こえない。
聞こえないのは、鈴を新しくしたからだ。
新しい鈴の音はよく鳴る。よく鳴る音は、折れた音を隠す。
隠せると思い込む。
アキラは円壇を降り、祈殿の外へ出た。
冬の空気が肺に刺さる。刺さる痛みは、祈りではない。
ただの現実だ。
現実は、揃わない。
アキラは空を見上げ、誰にも聞こえない声で言った。
「……神意は、失敗しない」
言い聞かせるように。
祈るように。
命令するように。
その瞬間、祈殿の奥で新しい鈴が鳴った。
よく鳴る音の終わり際で、ほんの一拍──音が折れた。
誰もそれを口にしない。
口にしなければ、世界は正しいままでいられる。
──そう信じる者から、先に崩れる。




