第二章第八話 白巫家、追いつけず
祈りは、道を示す。
示す──はずだった。
白巫の祈殿は朝から煙っていた。香を焚きすぎた煙ではない。灯明を増やしすぎた油煙でもない。湿り気を帯びた白が、石の隙間から立ち上ってくる。まるで建物そのものが吐息をしている。
上位神官アキラは、祈殿中央の円壇に立ち、書板を見下ろした。
そこには捜索の報告が並んでいる。整っている。整っているのに、腹の底が冷える。
「……境界は締めましたか」
問う声は静かで、揺れがない。揺れがない声は、祈殿では正しさに見える。
「はい。祠の点検も」
答えたのは若い神官だった。声が少し上ずっている。上ずりは誠実さに見えるが、アキラにとっては無駄な音だ。無駄な音が増えると、記録が揃わない。
巫女セイラが円壇の端に控え、白衣の袖を整えた。重い袖が石に擦れる音が、妙に大きく聞こえる。音が大きいのは、祈殿が静かすぎるからだ。静かすぎるのは──祈殿が息を止めているからだ。
「神託は」
アキラが問うと、セイラは即座に頷いた。
「降ります。……降りています」
降ります、と言ったあとに降りています、と言い直した。
言い直しは小さい。だが、アキラの耳には刺さる。言い直しは揺らぎだ。揺らぎは、ここでは穢れだ。
「では示してください。追放巫女の位置を」
アキラは、祈殿の柱の影に立つ別の巫女へ目を向けた。
名を呼ばれない巫女。器として薄い巫女。目が乾いている。乾いているのに、唇が青い。
巫女はゆっくりと膝をつき、掌を合わせた。
鈴が鳴る。鳴るはずだった。
音が、途中で折れた。
折れた音は小さく、しかし確実に、空気の奥に刺さった。
その瞬間、祈殿の灯明が一つ、僅かに揺れた。風などない。揺れる理由がないのに揺れる。
巫女の喉が鳴り、泡が唇の端に浮いた。
白い泡。白衣の上に落ちる泡。白に白が落ちているのに、それは汚れにしか見えない。
アキラは眉ひとつ動かさず、ただ言った。
「続けなさい」
続けることで正しさを維持する。
維持しないと、壊れる。壊れたら、白巫家は終わる。終われば、王国が終わる。終わるなら、ここで誰かが壊れる方がまだいい。
巫女が口を開く。
「……南。……石段。……苔の──」
言葉が一つひとつ、引きちぎられるように出てくる。
繋がらない言葉は、神託ではない。だが、神託であることにしなければならない。
セイラが一歩前に出て、巫女の肩に手を置いた。
支える手。慈悲の手。だが支えるのは体ではない。言葉だ。言葉を正しい形に整えるための手。
「南の石段。苔の多い祠。──境界の抜け道です」
セイラが言い切った瞬間、巫女の身体がぐらりと揺れ、崩れ落ちた。
崩れ落ちる姿は祈りの姿勢に似ていて、美しくすらある。美しいから、誰も異常と言わない。
アキラは淡々と告げた。
「赤刀衆を」
控えの神官が頷き、祈殿を出ていく。足音が遠ざかる。遠ざかる足音が、祈殿の静けさを際立たせる。
静けさの中で、アキラは内心で数えた。
折れた鈴の回数。泡の出た巫女の数。言い直しの回数。
記録は揃えている。揃えているのに、揃っていない。
──追放巫女が外にいるせいだ。
そう結論づけるのは簡単だ。
簡単な結論は、制度を守る。制度を守れば、世界は正しい。
しかし、アキラの腹の底は知っている。
追放巫女が外にいるのは原因ではなく、結果だ。
その結果を見ないために、白巫家は原因に仕立てる。
原因に仕立てるために、捜索を始める。
そして、追いつけない。
──実地の捜索班。
山道。苔むした石段。崩れかけた祠。
兵は三十。赤刀衆の残党が二。神官が一。巫女が一。
巫女セイラは祈殿に残り、実地には別の巫女──ユウナが出ていた。ユウナは若く、目が真っ直ぐで、怖がり方がまだ綺麗だ。綺麗な怖がり方は長続きしない。
「ここです」
ユウナが石段の前で言った。
息が浅い。香が濃い。祠がある。祠は点検済みのはずだ。点検済みなら、ここから先は締まっているはずだ。
神官が頷く。
「神意は示されました。ここを越えれば──」
言いかけて、神官は言葉を止めた。
止めた理由は一つ。
石段の影が、一拍遅れて動いた。
ユウナの肩が跳ねる。
赤刀衆の残党が眉をひそめる。
兵の一人が、何もない空気に槍を向ける。
「……風か?」
兵が言った。
風ではない。風なら木が揺れる。草が鳴る。
影だけが遅れるのは、風ではない。
神官が笑顔を作る。
「心が揺れているのです。神意は揺らぎません」
言い切る声は丁寧だ。丁寧だから怖い。丁寧な声は、疑問を飲み込ませる。
ユウナは唇を噛み、祠の前に膝をついた。
鈴を鳴らす。鳴らすはずだった。
音が折れた。
祠の鈴は錆びているはずだ。
錆びている鈴は、鈍く鳴る。
だが折れる音は、錆の音ではない。錆は鈍い。折れは鋭い。
「……神託を」
神官が促す。
ユウナが目を閉じ、口を開く。
「……南。……抜け……道……」
言葉が途切れ途切れになる。
途切れるのに、指は同じ方角を指してしまう。
指が指す先は、祠の裏の岩場。岩の隙間。暗い穴。
赤刀衆の残党が鼻で笑った。
「穴かよ」
その笑いは侮りではない。
嫌悪だ。祈りで穴を示されることへの嫌悪。かつて自分たちが、こういう穴に人を落としてきたことへの嫌悪。
兵が岩の隙間へ近づく。
槍先で草を払い、穴の入口を確かめる。
──そこに、何もない。
足跡がない。
草が倒れていない。
泥の匂いが薄い。
いるはずのものが、いない。
「通っていない?」
兵が言うと、赤刀衆が首を振る。
「通ってる」
赤刀衆は地面を見ていた。
土の微かな崩れ。苔の擦れ。匂いの変化。
足跡は消されている。消された足跡は、消した痕が残る。残る痕は、訓練された刃の痕だ。
「……焔だ」
赤刀衆の残党が低く言った。
名を出した瞬間、神官の顔色が僅かに変わる。焔は「過去の汚れ」だ。汚れの名は口にしたくない。だが口にすると現実になる。
ユウナが、ふいに吐きそうな顔をした。
喉が鳴り、目が潤む。吐き気。だが吐く前に、彼女は言った。
「……おかしい。追いかけているのに、追いつけない」
神官が作った笑顔が、少しだけ固くなる。
「追いつけます。神意が示している」
「示してるのに……」
ユウナは言いかけて、口を閉じた。
口を閉じるように、視線で命じられたからだ。
白巫家では、疑問は口にしない。口にすると記録が揃わない。
赤刀衆が、穴の縁にしゃがみ込み、土を指で弄んだ。
そして言った。
「……この先、結界が薄い」
薄い。
白巫家の人間が使わない言葉。
薄いという言葉は、祈りが道具であることを示す。
神官は、聞こえなかったことにした。
「進みなさい。追いつきます」
命令。
祈りではなく、命令で進ませる。
命令で進めば、事故が起きても神意にできる。
──祈殿に戻って。
アキラのもとへ、実地からの報告が届いた。
『抜け道を確認。追跡継続』
その短い文の裏に、無数の揺らぎが隠れている。
アキラは書板に新しい線を引き、記録を揃えた。
揃えながら、腹の底で理解していた。
追いつけないのは、足が遅いからではない。
情報が足りないからでもない。
追いつけないのは──神意が、もう「道」を示していないからだ。
示していないのに、示していることにする。
それを続けるために、捜索は拡大する。
拡大するほど、失敗が増える。
失敗が増えるほど、捨て谷が増える。
その循環の中心に、追放巫女ミサキがいる。
彼女を戻せば、循環は止まるのか。
止まるなら、もう止まっているはずだ。
アキラは、誰にも聞こえないように息を吐いた。
息は祈りではない。ただの体の動きだ。
そのただの動きが、祈殿の白い空気を僅かに揺らした。
揺れた灯明の影が、一拍遅れて動いた。
アキラはそれを見ないふりをした。
見れば、追いつけない理由が確定してしまう。
確定した瞬間、白巫家は神意ではなく、ただの制度になる。
制度になった神は、玉座に座れない。
だからアキラは命じる。
「捜索を続けなさい」
続けることで、まだ座っていられると思い込むために。
追いつけないままでも、追っているふりをするために。




