第二章第七話 白巫家、捜索開始
白巫の白は、夜明けと一緒に動く。
夜が灰色のまま終わらないうちに、祈殿の灯明は増やされ、香は焚き足され、鈴の音は正しい間隔に調律される。人が整えるほど、神は整って見える。整って見えるほど、疑う者は減る。疑う者が減れば、揺らぎは「なかったこと」になる。
──なるはずだった。
祈殿の奥、石畳の冷たさが骨に染みる場所で、上位神官アキラは書板を置いた。
筆が止まる。止まるだけで、周囲の神官たちの呼吸が浅くなる。
「……器が外にいる」
その言葉は、祝詞より重かった。
白巫家の者は皆、同じようにうなずく。
うなずくのは賛同ではない。世界の前提を確認しているだけだ。前提が揺らげば、彼らは崩れる。崩れないために、うなずく。
「追放巫女、ミサキ」
アキラは名前を言った。
名を言うことは、記憶することだ。記憶は疑問を生む。だから本当は言いたくない。だが言わないと、動かせない。
「外にいる理由は一つ。──外にいると困るからです」
若い神官が唾を飲む音がした。
困る、とアキラは言った。神意ではなく、都合の言葉だ。白巫家の頂にいる者ほど、神意と都合を同じ棚に置く。
隣に控える巫女──セイラが静かに口を開く。
白衣は重く、歩くたびに音が出る。音が出るように作られている。音が出れば正しいからだ。
「追放は慈悲でした。戻せばよろしいのでは」
セイラの声は澄んでいる。
澄んでいるが、薄い。薄いから折れやすい。折れやすいのに、彼女は折れないふりが上手い。上手い者ほど、白巫家では出世する。
アキラは頷かなかった。頷けば「戻せば済む」と確定してしまう。確定は危険だ。確定は壊れた神託の上で踊ることになる。
「戻す」
アキラは言った。
「ただし、戻したという記録が残らない形で」
空気が一段冷えた。
神官たちの背筋が伸びる。伸びるのは信仰ではない。理解だ。理解したから怖い。
記録が残らない、ということは。
戻した後、消すということだ。
長老カンエンが、奥の影からゆっくり出てきた。
老いた顔。柔らかな目。柔らかな目が「疑いは人を壊す」と言ってきた目だ。
「争いは避けねばならぬ」
カンエンは穏やかに言う。
穏やかさは祈りの仮面だ。仮面の下で、何を切るかを決める。
「外の者が嗅ぎつければ、玉座が揺れる」
玉座、と言った瞬間、何人かの神官の指が僅かに震えた。
神の席と王の席を混同してはいけない。混同してはいけないのに、混同しているのが白巫王国だ。混同しているから強い。混同が剥げれば弱い。
アキラは書板を裏返し、淡々と命じた。
「捜索を開始します」
言葉は丁寧だが、内容は刃だった。
命令が落ちた瞬間、会議室の空気が動いた。
紙が運ばれ、封が切られ、印が押される。
地図に赤い線が引かれる。線は境界だ。境界は祈りだ。祈りは──縄になる。
巫女たちは祠の名を呼ばれ、神官たちは記録簿の束を抱え、兵は外縁の門を開ける段取りを始めた。
「点検」という言葉が飛び交う。点検とは、神を確かめることではない。人を揃えることだ。揃わない者を、揃ったものから外すことだ。
「祈りの網を張り直しなさい。境界を締めます。
巫女は各地の祠へ──点検に。神官は記録を揃え直す。兵は動かす。
そして──赤刀衆を呼ぶ」
セイラが眉をひそめた。
「赤刀衆は、過去の汚れです」
「汚れは、汚れで拭くのが早い」
アキラの声は揺れない。揺れない声ほど恐ろしい。揺れない声は正しいに見えるからだ。
カンエンが小さく目を伏せる。
伏せた目の奥で、彼は祈っているのかもしれない。祈りが届かないことを知りながら。
「……ミサキは、どこへ」
若い神官が言った。
アキラは答えなかった。
答えられるはずがない。神託が正しく示してくれないからだ。示してくれないのに、示されたことにしなければならない。
アキラは、代わりに鈴を一つ取り出した。
小さな鈴。祈殿の鈴。
だが、その鈴の音は、どこかで折れていた。鳴るはずの音が途中で欠ける。
その欠けた音に、セイラが一瞬だけ顔をしかめた。
──反応。
優秀な巫女ほど、壊れ始めた神託の音に体が先に気づく。気づいた者から壊れる。
「……鈴が」
セイラが言いかけたのを、アキラは視線で止めた。
言うな。口にすれば現実になる。現実になれば、記録が揃わない。
「捜索は、神意のためです」
アキラは言った。
神意、という言葉で全部を包む。包めば正しい。正しければ殺せる。
その頃──外縁の山道。
クロが先を急ぎ、ミサキが真ん中で呼吸を整え、俺が最後に残って後ろを切っていた。
切る、と言っても人を斬るためじゃない。足跡を消し、枝を戻し、空気の「糸」を切るためだ。
ミサキの顔色は白い。
白巫の白ではない。吐き気に耐える白だ。
「……増えた」
ミサキが呟いた。
「何が」
クロが問うと、ミサキは目を閉じ、息を吸って吐く。
吐き気を押し殺してから言った。
「祈りの糸。……張り直された。網が、締まってる」
締まっている。
つまり、白巫家が本気で動いた。
俺は舌打ちした。
追ってくるのは兵だけじゃない。祈りそのものが追ってくる。祈りが追えば、距離の概念が薄くなる。どこででも呼ばれる。どこででも「戻れ」と言われる。
クロが短く言った。
「予定通りだ。第七段の抜け道へ行く」
「抜け道?」
ミサキが問う。
赤刀クロは一度だけ振り返り、俺の目を見た。
追跡ではなく、封鎖が来る、と言いたい顔だった。
白巫家の捜索は足で追うんじゃない。祈りで塞ぐ。祠を点検し、結界を張り直し、道そのものを正しい形に戻していく。
正しい形に戻された山道では、俺たちの足跡は異物になる。異物は、すぐに弾かれる。
だから、正しさの外──記録に残らない道へ行くしかない。
そこは地図にない。地図にない場所は、追われても助けを呼べない。
助けを呼べない場所ほど、白巫家は「存在しない」と言える。
「衆が昔、血を捨てた道だ」
クロは淡々と言った。
血を捨てた道。言葉に温度がない。温度がない言葉は、現実だ。
山道を折れ、古い石段へ入る。石段は苔で滑る。
石段の脇に、崩れかけた祠があった。土が盛られ、紙垂が風で裂け、鈴が錆びている。
ミサキの肩がびくりと跳ねた。
吐き気が喉元まで上がる。
「見るな」
俺が言うと、ミサキは頷き、目を伏せたまま石段を上った。
だが、上り切る直前、足がふらつく。
クロが腕を掴み、引き上げた。
ミサキが息を呑む。掴まれることに慣れていない。それでも、拒まない。拒まないのは成長だ。拒む余裕がないだけでも、前に進めるなら十分だ。
頂上に出た瞬間、風が変わった。
甘い香が混じる。祈殿の香。遠いのに、近い。距離が折りたたまれている。
ミサキが、震えない声で言った。
「……呼ばれてる」
呼ばれてる。
白巫家の呼び声。名前を鎖にする声。
俺は息を吐き、欠けた刃の柄を握る。
跪けば楽だ。戻れば楽だ。白い世界に戻れば、疑問が消える。
だが──あの地獄は、続いてしまう。
クロが言った。
「聞くな。呼び声は、穴の入口だ」
入口。
穴へ落ちれば、もう戻れない。
ミサキは目を閉じ、短く頷いた。
「……聞きません」
言い切った瞬間、風の中の香が一段濃くなった。
白巫家が網を締めたのだろう。締めるほど、揺らぎが押し込まれる。押し込まれるほど、壊れる。
その壊れる音を、ミサキの体だけが先に聞く。
遠くで、鈴の音が折れた。
折れた音が、骨に刺さる。
ミサキが、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「……壊れます」
誰が、と言わない。
何が、とも言わない。
言わないままでも、俺たちは分かった。
白巫家が捜索を始めた、ということは──
白巫家の正しさが、もう隠しきれないほど揺れているということだ。
俺は欠けた刃を抜かずに、前へ出た。
「行くぞ」
網が締まるなら、縫い目を探す。
縫い目は必ずある。必ずあると信じられるのは、神意じゃない。
生き残るための、ただの確信だ。




