第二章第六話 追放巫女の価値
王都の方角は、まだ見えないのに──空気だけが先に白くなった。
白巫の祈りは、距離を持たない。
山を越え、川を越え、人の暮らしを越えて、都合のいい場所へだけ届く。届いた場所の空気は薄くなる。薄いのに重い。重いのに軽い。矛盾した圧が、胸の内側を撫でてくる。
ミサキが歩みを止めかけ、喉を押さえた。
「……濃い」
その一語が、祈殿の祝詞よりずっと現実だった。
クロが振り返る。
「王都の大儀式が始まった、ってことか」
翠狐は谷底で笑っていた。あの笑いが嘘じゃないことを、ミサキの顔色が証明している。嘘を売る狐ですら、損をする嘘はつかない。なら、始まっている。
俺は欠けた刃の柄を握り直し、息を吐いた。
「……押し込んでる」
「何を」
クロが問う。
「揺らぎを。神託の破綻を。全部まとめて正しさの布で縫い付けてる」
言ってから、俺は舌の裏が苦いのを感じた。
縫い付ける、という比喩は本来、ミサキの言葉だ。いつの間にか俺も同じ言い方をしている。近づくと移る。祈りも、恐怖も、視点も。
ミサキが、唇を噛んだ。
「……吐きそうです」
「吐くな」
俺が言うと、ミサキは頷いた。頷き方が速い。従う癖がまだ抜けていない。従う癖は便利だが、便利なものはすぐに壊れる。
クロが短く言った。
「止まるな。吐くなら歩きながら吐け」
優しさの欠片もない。だが正しい。
赤刀衆の残党は、優しさで死ぬほど余裕がない。
林を抜け、獣道を使って南へ落ちる。ここから先は「白巫家の目」が濃くなる。祈りの網が張られた領域に入る。入れば、ミサキの体が反応する。反応すれば、こちらの位置も割れる。
それでも進むしかない。
白巫家が動いた以上、外縁でうろつけば狩られるだけだ。狩りはじわじわ締める。じわじわ締めるほど、逃げる者は戻りたくなる。戻れば器だ。器になれば、疑問が消える。疑問が消えれば、世界は正しいまま終わる。
──それが、白巫家の勝ちだ。
俺は勝たせない。
枝を払い、乾いた斜面を下ると、崩れかけた炭焼き小屋の跡があった。屋根は落ち、柱だけが残っている。中は空っぽに見えるが、床の一部が不自然に盛り上がっている。
クロがそこへ近づき、指先で土を払った。
「ここだ」
板が外れ、狭い空洞が現れた。隠し倉。赤刀衆が使っていた古い「逃げと備え」の穴だ。生活を捨てた刃が、生活の痕をこうして残す。矛盾は嫌いじゃない。矛盾の方が人間だからだ。
中には、水と干し肉、それから紙束があった。
紙は薄く、文字は雑だ。白巫家の記録とは違う。整っていない。整っていないから、嘘が混じりやすい。だが嘘が混じる分、現実が残る。
クロが紙束を開き、舌打ちした。
「……増えてるな」
紙には、地名と数が並んでいる。
捨ての印。
死体の投棄が増えた場所。日付。向き。痣の有無。
向き──その欄が、最近のものほど乱れていた。
ミサキが覗き込み、眉をひそめる。
「この……向きって」
「死体の向きだ」
クロが淡々と言った。
「白巫家が処理した死体の向きが揃わない。だから記録に残せず、捨てる。捨てる場所が増える。増えると拾われる。拾われると売られる。──翠狐みたいにな」
ミサキが小さく息を呑んだ。
白巫家の外側に、こんな循環があると知ってしまった顔だ。祈殿の外にも制度がある。しかもそれは、白巫家が作った歪みで回っている。
俺は紙束の端に、見覚えのある地名を見つけた。
「境界の葦原……」
あの死体の場所。
『首の角度:不自然』
『痣:線状』
記録されている。つまり、偶然じゃない。観測されている。
クロが紙を指で叩き、ミサキを見た。
「お前の価値は、これだ」
価値。
白巫家が人を測る言葉。器の向き不向き。価値。
クロの口から出ると、ただの冷たい計算になる。
ミサキは反射的に身を硬くした。
怒るでも泣くでもなく、固まる。固まるのは、白巫で躾けられた反応だ。価値と呼ばれると、器に戻る。
俺は短く言った。
「違う」
クロが眉を動かす。
「何が」
「こいつは道具じゃない」
クロが鼻で笑った。
「道具じゃないなら、何だ。白巫の姫か?」
ミサキが口を開きかけ、閉じた。
姫と呼ばれても嬉しくない。白巫の白は、褒め言葉じゃない。鎖だ。
俺は言い直す。
「こいつは「鍵」だ」
クロの目が細くなる。
「鍵?」
「白巫家の祈りの網は、こいつの体に反応する。反応するなら、網の目が見える。網の目が見えるなら、抜けられる。抜けられるなら──」
俺は紙束を指した。
「死体の向きの意味も追える」
ミサキが、喉の奥で小さく息を吸った。
自分が役に立つと告げられて、戸惑っている。白巫家の役に立つことは、死ぬことと同じだった。だが今の役立ちは、生き延びる方向へ向いている。
クロはしばらく黙り、やがて短く言った。
「じゃあ、値を付ける」
「……値?」
ミサキが問い返す。
「お前の条件だ。お前がここに居続ける条件」
クロのやり方は乱暴だ。
だが乱暴なやり方ほど、自由を与えることがある。白巫家は条件を与えない。与えないことで縛る。クロは条件を与える。与えることで契約にする。契約なら破れる。破れない鎖よりは、ずっとマシだ。
ミサキはゆっくり息を吐き、言った。
「……私を、売らないでください」
翠狐への釘を、こいつ自身が打った。
それだけで、俺の胸の奥が少し熱くなった。熱は情じゃない。火種が火になりかける熱だ。
クロが頷く。
「売らねえ。売ったら俺が損する」
損。
商いの言葉で誓うのは、案外信用できる。信仰で誓う奴は嘘をつく。損をする嘘は長続きしない。
ミサキが続ける。
「それと……戻れ、と言われても、私を押さえつけないでください」
押さえつけない。
つまり、意志を奪わない。
白巫家が一番奪ってきたものを、奪わないでくれと言った。
クロが少しだけ目を逸らし、短く言う。
「……分かった」
俺はミサキを見た。
こいつはまだ弱い。だが弱いまま、言葉を選べる。言葉を選べる奴は折れにくい。
そのとき──ミサキが顔をしかめた。
「……来る」
さっきより鋭い。
吐き気が喉元まで上がるのが、目に見えるほど分かる。
「どっちだ」
俺が問う。
ミサキは目を閉じ、少し震える指で空気をなぞる。祈りの糸を触るみたいに。
「……上から。白い香。……でも、違う。祈殿の香じゃなくて……命令の香」
命令の香。
白巫家が祈りを「道具」に変えた匂い。
祈りの網を締める合図。
クロが即座に動いた。
「穴を塞げ。足跡を消せ。焔、外を見ろ」
俺は頷き、小屋の外へ出た。空気が冷たい。冷たいのに、どこか甘い。あの香が、遠くからでも混じっている。
木々の向こう、尾根筋に白い影が揺れた。
白衣。複数。
そして、その後ろに灰の影。兵。
──早い。
俺は舌打ちした。
祈りが位置を割ったのではない。割れたのは、ミサキの反応だ。反応した瞬間、白巫家は糸を引ける。糸を引けば、兵が動く。兵が動けば、赤刀衆の残党は狩られる。
だが、ミサキの反応は同時に、抜け道を教える。
俺は小屋へ戻り、低く言った。
「来る。二刻もない」
クロが板を戻しながら言う。
「じゃあ動く」
ミサキが唇を噛み、立ち上がった。
吐き気で顔色は悪い。だが目は逃げていない。
「……私、歩けます」
白巫の里で「歩けます」は、役に立つ宣言だった。器としての宣言。
今の「歩けます」は違う。逃げる宣言。生きる宣言。
俺は言った。
「価値は、ここからだ」
ミサキが俺を見る。
その目は、器の目じゃない。
まだ答えを知らない者の目だ。
そしてそのまま、彼女は頷いた。
祈りを使う者たちは、これからもっと網を締める。
締めれば締めるほど、揺らぎは押し込まれ──押し込まれるほど、壊れる。
壊れる瞬間を、俺たちは先に嗅ぐ。
それが追放巫女の価値だ。
白巫家が不要と切り捨てた価値が、白巫家の喉元へ刃を当てる価値になる。
俺は欠けた刃を握り、先頭へ出た。
「行くぞ」
ミサキが一歩、踏み出す。
吐き気を飲み込みながら、外の世界へ。
玉座が揺れる方へ。




