第二章第五話 焔は、もう跪かない
狐は、距離を恐れない。
谷の縁に立ったまま、風に外套をはためかせて、こちらを測っている。刃の届かない距離。だが刃が届かない距離は、言葉が届く距離でもある。言葉が届くなら、商いができる。狐にとって危険は近さではない。確定だ。刃は確定させる。だから狐は刃の外側にいる。
クロが、低い声で言った。
「死体で払え、だと」
狐は肩をすくめるように見えた。
声が届く距離になったわけでもないのに、意味だけが届く。合図だけで会話が成立するのは、祈りよりよほど現実的だ。
ミサキが、小さく息を吸った。
吐き気を飲み込むための息。こいつの息の使い方は、巫女のそれじゃない。生き残る者のそれだ。
「……あの人、誰ですか」
問う声が、震えない。
震えないのは怖くないからじゃない。震える暇がないからだ。恐怖より先に、体が情報を取ってしまう。
クロが答える。
「翠狐。噂を売って、死体を買う。情報屋だ」
「死体を……買う?」
ミサキの顔が歪んだ。
白巫の里では死体は穢れで、触れた者ごと浄められる。浄められるという名の処分だ。ここでは死体は「物」になる。物になるから、値が付く。
俺は谷底を見回した。
向きの揃わない死体。首を見せる角度にされた死体。文字みたいな痣。鈴の欠片。祈りの鉄臭さ。
──死体そのものが、情報だ。
「払うな」
俺が言うと、クロが横目で俺を見る。
「払わなきゃ、話が聞けねえ」
「話を聞いたら、狐の都合で動くことになる」
「動かなきゃ、白巫家に喰われる」
クロの言い分は正しい。
正しいから、腹が立つ。正しい言葉はいつも人を追い詰める。
ミサキが、谷の縁を見つめたまま囁いた。
「……死体、向いてます」
「何が」
俺が問うと、ミサキは唇を噛んでから言った。
「この谷の死体、全部……同じ方向を見てる感じがする。首の向きじゃなくて……影の向き」
影の向き。
見たことのない言い方だ。だが、こいつの言葉は比喩じゃない。体感だ。祈りの糸がどちらへ引かれているか、こいつは皮膚で感じている。
クロが舌打ちした。
「……つまり、誰かがここへ集めたってことか」
「集めた、というより……揃えようとして失敗してる」
ミサキの声が少し掠れた。吐き気が来ている。
だが吐かない。吐けば狐が笑う。吐けば白巫家が嗅ぐ。吐けば居場所が割れる。
俺は欠けた刃の柄を握り直した。
刃は祈りを切れない。だが、祈りの余計を切るために存在する。余計はどこにある? 狐の口にある。
「話は聞く」
俺は言った。
クロが眉を動かす。
「払うのか」
「払わない」
俺は谷の縁を見上げ、声を張った。
「狐。降りてこい」
狐が首を傾げた。
降りるのは刃の届く距離へ入ることだ。狐は降りない。降りれば確定する。確定すれば、死ぬ可能性が増える。
狐はゆっくりと両手を広げた。
『それが条件だ』と言う仕草。
俺は一歩、谷底の死体の方へ踏み出し、布を一枚だけ拾った。
死体を覆っていた布。血も土も染みた布。匂いが強い。触れた瞬間、指先が嫌な冷えを覚える。祈りの鉄臭さ。乾いた黒。
ミサキが、喉を鳴らした。
反応だ。吐き気が上がる。だが目を逸らさない。こいつはもう、逃げるだけの器じゃない。
俺はその布を、谷の縁へ向けて投げた。
風に煽られ、布は宙でひらりと舞い、狐の足元近くへ落ちる。
狐が一歩下がった。
触れたくないのではない。触れた瞬間に取引が成立するからだ。
俺は言った。
「これで十分だ。話せ」
狐はしばらく動かず、やがて笑ったように肩を揺らした。
そして、ゆっくり谷へ降りる道へ足を向けた。
降りてきた。
──確定した。
谷底に現れた翠狐は、思ったより若かった。
肌は白い。白巫家の白ではない。日陰の白だ。目が細く、口元が柔らかい。柔らかいのに、どこかで人を見下ろしている。人を見下ろしているのに、媚びることもできる顔。
商いの顔だ。
「やだ、こわ。赤刀衆って、みんなそんな感じ?」
口調が軽い。軽い言葉で重いものを運ぶのが、こういう奴の得意技だ。
クロが一歩前に出る。
「用件を言え」
「用件? うーん、あたしの用件っていうか……そっちの用件でしょ」
狐──翠狐が視線を滑らせ、ミサキに止めた。
止め方がいやらしい。値踏みの目。だが男の値踏みとは違う。売るための値踏みだ。
「白巫の抜け殻が、外にいるってだけで大事件なのに」
抜け殻。
器の呼び方が白巫家と同じで、俺は歯の裏が痛くなった。白巫家の言葉は、こういう場所にも染みている。
ミサキが小さく言った。
「……抜け殻じゃ、ありません」
言い返した。
それだけで偉い。だが言い返した瞬間、狐の目が楽しそうに光った。
「いいね。そういうの、好き。売れる」
「売るな」
俺が言うと、翠狐は肩をすくめる。
「売らなきゃ買えないでしょ。情報も命も」
命。
命を商品にする口ぶりが自然だ。自然だからこそ、こいつはこの世界で生きてきた。
翠狐は谷底の死体を見回し、軽い口調のまま言った。
「この谷、最近向きが変なの、知ってる?」
クロが答える前に、ミサキが反応した。
肩が跳ね、目が僅かに揺れる。吐き気が来る。だが立っている。立っているだけで、十分な答えになる。
翠狐がにやりと笑う。
「やっぱりね」
クロが低く言った。
「何が言いたい」
「白巫家が隠してる失敗が、ここに溜まってるって話」
翠狐は指で空をなぞった。
なぞる指が、谷底の空気を撫でる。撫でた瞬間、ミサキの顔がほんの少し歪む。祈りの糸が動いた気がする。
翠狐が続ける。
「死体の向きが揃わないのはね、処理が雑になったからじゃないの。処理が間に合ってないの」
「間に合ってない?」
クロが問う。
「うん。だって、今まで揃えてたのは「人」じゃなくて「神託」だもん」
言った。
さらりと、核心に触れた。
俺の背筋が冷えた。
こいつは知っている。知っていて、平気で口にする。平気で口にするから、危険だ。危険な奴ほど情報を持っている。情報を持つから危険になる。
「神託が……死体を揃えてた?」
ミサキが小さく言う。
声が震えない。震えないのが怖い。
翠狐は嬉しそうに頷いた。
「そう。白巫家は「死」を整えてきたの。整えて、正しい死にして、正しい記録にして、正しい世界にしてきた」
正しい世界。
それが崩れる時、死体が向きを失う。
翠狐は、谷底の一体の死体の首を指さした。
見せる角度の死体。
「これ、ほら。首、変でしょ。誰かに見せたい角度」
クロが刃を半分抜きかけた。
こいつが死体に触れるのは危険だ。触れれば確定する。確定すれば、祈りが寄る。
「触るな」
俺が言うと、翠狐は両手を上げた。
「触らない触らない。あたし、死体苦手なの。血も嫌い。匂いも嫌い。だから──」
翠狐が、ミサキを見る。
「あなたが必要なの」
必要。
必要という言葉は、白巫家が使う言葉だ。器に向ける言葉。人に向ける言葉ではない。
ミサキの喉が鳴った。
吐き気。恐怖。嫌悪。全部が混ざる。
「……何を、させるつもりですか」
ミサキが問う。
問えるようになった。問えるなら、まだ折れていない。
翠狐は柔らかく笑い、言った。
「簡単。白巫家の次の失敗を、いち早く嗅いでほしいの」
「嗅ぐ?」
「そう。あなた、祈りが濃いと気持ち悪くなるんでしょ。影が遅れるんでしょ。鈴が折れるんでしょ」
翠狐は、淡々と列挙した。
知っている。見たのではない。聞いたのでもない。──どこかから、すでに情報が回っている。
クロが唸る。
「誰から聞いた」
「誰だと思う?」
翠狐は笑った。笑い方がいやらしい。答えを渡さない笑い。
答えを渡さないのは、商いの基本だ。
俺は一歩前へ出た。
欠けた刃を、翠狐の喉元に向ける。届く距離。確定の距離。
翠狐は動じないふりをしたが、瞳孔が僅かに開いた。
怖い。怖いはずだ。刃は説明しない。刃は交渉しない。刃は終わらせる。
「取引。次の失敗だと言ったな」
俺は言う。
「なら、条件を変える」
翠狐が唇を湿らせる。
「……条件って?」
「お前が知ってることを全部吐け」
「それ、商いじゃない」
「商いだ」
俺は刃の先をほんの少しだけ近づける。
「命を払うか、情報を払うか。選べ」
翠狐の笑みが、薄くなった。
薄くなっても、完全には消えない。消えない笑みは強い。強い奴は、命を軽く扱える。
「焔」
クロが低く言う。止める声ではない。見極めろという声だ。
ミサキが、震えない声で言った。
「……焔さん。やめてください」
やめて。
処刑の夜の巫女と同じ言葉。
その言葉が、俺の指先を止めた。
俺は刃を引いた。
翠狐が息を吐いた。吐き方がきれいじゃない。こいつも人間だ。
翠狐は、薄い笑みに戻しながら言った。
「……白巫家、近いうちに大きい神託をやるよ」
俺の背筋が冷えた。
「大きい?」
「王都で。王族も神官も巫女も集めるやつ。あれ、失敗したら──」
翠狐は指を一本立てた。
「玉座が空く」
玉座。
神の席。王の席。白巫家の席。
翠狐が続ける。
「空くと、みんな座りたがる。座りたがると、殺し合う。殺し合うと──」
翠狐は谷底の死体を見た。
「ここが増える」
クロが唸る。
「それを、どうしろと」
翠狐はミサキを見た。
「あなたが失敗の匂いを先に嗅げば、逃げられる。先に動ける。先に売れる」
売れる。
結局、こいつの言葉はそこに戻る。だが、戻るからこそ信用できる部分もある。信仰で動く奴は嘘をつく。商いで動く奴は、嘘をつくが、損する嘘はつかない。
ミサキが小さく言った。
「……私は、道具じゃありません」
翠狐が目を細める。
「道具じゃないなら、何?」
問いが刺さる。
ミサキは答えられない。答えられないのは弱さじゃない。答えが決まっていないことが、今の彼女の自由だ。
俺は言った。
「こいつは座らない」
「何に?」
「玉座にだ」
翠狐がきょとんとして、それから笑った。
「へえ。いいね、それ。座らない人間って、いちばん厄介」
厄介。
厄介な奴ほど、勝ち残る。
翠狐は一歩下がり、両手を広げた。
「じゃ、取引成立。あたしは情報を渡す。あなたたちは、次の失敗を見逃さない」
「条件が一つ増える」
俺は言った。
「……なに?」
「ミサキを売るな」
翠狐の笑みが、ほんの少しだけ真顔に近づいた。
図星だ。こいつはいつか売る。売るから生きている。
「売ったら」
俺は欠けた刃の欠けを、翠狐に見せるように傾けた。
「次に欠けるのは、お前の喉だ」
脅しは嫌いだ。
だが、祈りを使う者たちには言葉が効かない。
商いをする狐には、言葉が効く。
翠狐は、笑って頷いた。
「こわ。……でも、了解」
了解、という言葉の軽さに、信用はできない。
信用できないままでも、動くしかない。
そのとき、ミサキがふらりと立ち尽くした。
「……来ます」
来る。
何が。
ミサキの瞳が揺れ、揺れを殺す。
「……王都の方から。祈りが……急に、濃くなる」
濃くなる。
つまり、儀式が始まる合図。
翠狐が楽しそうに息を吸った。
「ね。始まった」
クロが歯を鳴らす。
「……早すぎる」
俺は欠けた刃を納め、空を見上げた。
灰色の朝が、まだ明るくなりきらない。明るくなりきらないうちに、白巫家は白を強くする。白を強くして、揺らぎを押し込む。
押し込むほど、壊れる。
俺は言った。
「行くぞ」
クロが頷く。翠狐が軽く手を振る。
ミサキが息を吸い、吐き、吐き気を飲み込む。
焔は、もう跪かない。
跪けば楽だ。祈れば楽だ。戻れば楽だ。
でも楽は、制度の楽だ。
俺はもう、あの地獄に戻らない。
灰から立ち上がった火種を、
今度こそ、誰かの席を燃やすために運ぶ。




