第二章第四話 死体の向きが揃わない
逃げ足に、祈りは追いつかない。
追いつくのは刃だ。
刃は地面を蹴る。息を吐く。汗を落とす。目で見る。耳で聞く。祈りみたいに空気を縛らない。縛れないからこそ、刃は人間の範囲でしか動けない。
だが──白巫家は祈りを使う。
あいつらが本気で追ってくるなら、距離の概念が壊れる。祈りは縄だ。縄は伸びる。伸びれば届く。届いた瞬間、体が折れる。祈りの姿勢に似た形で折れる。折れるのが信仰なら救いだが、あれはただの反射だ。
俺たちは畑の畦道を走り、林の薄暗さに潜った。
クロが先を行く。ミサキが真ん中。俺が最後。
最後にいるのは、追ってきた刃を止めるためじゃない。
追ってきた祈りを切るためだ。
祈りは切れない。
だが祈りの余計な糸は切れる。余計な糸は、制度の都合で編まれた糸だ。神の糸じゃない。神の糸でないなら、刃の届く範囲に落ちる。
林を抜けると、小川があった。
水が冷たい。水は祈りを薄める。薄まれば息が入る。息が入れば走れる。
「渡る」
クロが短く言った。
ミサキが小川の手前で一瞬だけ足を止め、眉をひそめた。
吐き気の前兆。水辺に祠がある。石を積んだだけの小さな祈り。祈りの痕跡が、こいつの体を刺す。
「見るな」
俺が言うと、ミサキは頷き、目を伏せたまま小川へ入った。
足が滑る。転びそうになって、クロが腕を掴む。掴まれた瞬間、ミサキの肩が跳ねた。反応ではない。触れられることに慣れていないだけだ。巫女は触れられない。器は汚れるから。
川を渡り切ったところで、クロが足を止めた。
息を整えながら周囲を見る。目が鋭い。赤刀衆の目だ。刃は常に「次」を探す。
「……追手は撒いた」
「祈りは?」
俺が問うと、クロは口の端を歪めた。
「祈りは撒けねえ」
撒けない。
そうだ。祈りは距離を持たない。距離の代わりに、規則を持つ。規則を破れば届かないが、規則の中にいる限り、どこまでも追ってくる。
ミサキが小さく言った。
「……少し、薄くなりました」
薄い、という言い方。
白巫家の言う満ちるではなく、薄い。密度で測っている。測れるのは、反応するからだ。反応するなら、道具になる。
クロは小さく息を吐き、顎で示した。
「ここから南へ。捨て谷に行く」
「捨て谷?」
ミサキが問う。
クロが答える前に、俺が言った。
「死体捨て場だ」
ミサキの顔色が、目に見えて変わった。
白巫の里では死体は隠される。死体は穢れだ。穢れは浄められるか、消される。消された死体は、存在しないことになる。存在しないなら、疑問も生まれない。
だが外では死体は消えない。
ただ腐る。腐る匂いが残る。匂いが残れば、人は思い出す。思い出せば、制度は揺らぐ。
捨て谷は、揺らぎの溜まり場だ。
木々が途切れ、地面が乾いた斜面へ変わる。
風が吹く。風が乾いている。乾いた風は腐臭を運ぶ。鼻の奥が痛い。
谷底へ続く道には、足跡が多かった。
ここは獣の道ではない。人の道だ。捨てに来る道。捨てられたものを拾いに来る道。
ミサキが、急に歩みを遅くした。
「……近い」
俺は即座に足を止める。
「何が」
「……死」
死。
一語で片付けるところが、巫女の癖だ。死体、と言いたくない。死体と言うと現実になるから。
クロが鼻を鳴らした。
「感じるのか」
「……匂いじゃないです。影が……」
影。
またその言葉。遅れ。
谷へ下ると、すぐに分かった。
死体がある。ひとつ、ふたつではない。数十。土に半分埋もれ、布に包まれ、草に覆われ、それでも形が残っている。
そして──向きがばらばらだった。
普通、死体は揃う。
揃うというのは、誰かが揃えるからだ。葬る者が揃える。弔う者が揃える。処分する者が揃える。揃えるという行為は、意味を与える行為だ。意味が与えられれば、人は安心する。安心は秩序になる。
ここは違う。
意味がない。
だから向きが揃わない。
クロがしゃがみ、布の端を持ち上げる。
露わになった顔は青白く、目が開いていた。死んでいる目。だが、どこかで見せる目だ。
「……最近増えた」
クロが呟く。
「誰が」
ミサキが問うと、クロは短く答える。
「白巫家の尻ぬぐい」
尻ぬぐい。
つまり、処刑でも葬りでもない。記録に残せない処分だ。記録に残らない死体が増えるということは、白巫家が正しさを保てなくなっている。
俺は谷底の風を嗅いだ。
腐臭の中に、あの鉄臭さが混じっている。乾いた匂い。血ではない。血に似せた匂い。
ミサキが、ふらりと膝をついた。
「……吐く?」
俺が問うと、ミサキは首を振る。
吐き気はある。だが吐いていない。踏ん張っている。
「……ここは、祈りが薄いのに」
ミサキが、息を詰めたまま言った。
「薄いのに、反応する。……変です」
変なのは当然だ。
ここは祈りが薄いから死体が集まる。祈りが厚ければ死体は消される。ここは制度の外側の穴だ。
穴に溜まるのは、制度が隠したいものだ。
クロが別の死体の布をめくり、舌打ちした。
「……またか」
「何だ」
俺が近づくと、死体の首が変な角度を向いていた。
折れているのではない。向けられている。あの境界の死体と同じ見せる角度。
さらに、背中に薄い痣があった。
文字みたいな線。巫女の痣とは違う位置と形。意味がある痣。
ミサキがそれを見た瞬間、顔が歪んだ。
吐き気ではない。嫌悪だ。生理的な拒否。
「……それ」
ミサキの声が掠れた。
「……それが、押し付けられてる」
「押し付け?」
「祈りが……無理に、縫い付けられてる感じ」
縫い付け。
祈りを糸で縫う感覚。
こいつの言葉は比喩じゃない。体感だ。
クロが眉をひそめた。
「神官が縫ってるってことか」
「……たぶん。縫って、整えて、揃えようとしてる。でも……」
ミサキが言葉を飲み込み、歯を食いしばる。
「……揃わない」
揃わない。
そこだ。
白巫家は揃えることで秩序を保ってきた。神託の言葉。記録の整合。死体の処理。全部揃える。揃えれば正しい。正しいなら疑われない。疑われないなら続く。
だが今、揃わない。
「……何が起きてる」
クロが低く言った。
「神託が折れてる」
俺が答えると、クロは笑わなかった。
笑えない状況だと分かっている。
「折れてるだけなら、誤魔化せる」
クロが言う。
「誤魔化せなくなってるから、捨て谷が増える」
俺は谷底を見回す。
死体の数。向きのばらつき。痣。首の角度。鈴の欠片。祈りの鉄臭さ。
全部が見せるために残されている。
残しているのは白巫家か? 違う。白巫家は隠す。見せるのは別の誰かだ。
──誰かが、白巫家の外側から、白巫家を崩そうとしている。
そして、その合図の受け手が──ミサキだ。
ミサキが、ふと顔を上げた。
「……誰かが、見てます」
その瞬間、クロが刃を抜いた。
俺も欠けた刃を抜く。遅れるな。遅れたら死ぬ。
風の向こう、谷の縁に人影があった。
ひとり。立っている。逃げない。隠れない。見せている。
白い衣ではない。灰でもない。
黒い外套。顔は見えない。だが、こちらを見ているのが分かる。見られている、という感覚が肌に刺さる。
クロが低く言った。
「……翠狐か」
翠狐。
商う者。嘘を売る者。情報を売る者。
噂でしか知らない名が、ここで出る。
影は動かず、手を上げた。
敵意の合図ではない。挨拶の合図。つまり取引の合図。
取引の材料は、死体だ。
最悪の材料。
ミサキが、掠れた声で呟いた。
「……この向き、全部……誰かに向いてます」
誰かに向いている。
つまり、揃っている。
揃っていないはずの死体が、別の基準で揃っている。
白巫家の基準ではない。
別の基準。別の席。別の玉座。
俺の背筋が冷えた。
嫌な冷えだ。懐かしい冷えだ。刃を抜く前の冷え。
──戦が始まる。
クロが、影に向かって言った。
「何の用だ、狐」
影が、笑ったように見えた。
声は届かない距離なのに、笑いの形だけが分かる。形だけが分かる笑いは、祈りより不気味だ。
影が、ゆっくり指を一本立てた。
『ひとつ話がある』
その合図。
そしてもう一つ、指が動く。
『巫女を見せろ』
ミサキの肩がびくりと跳ねた。
吐き気が喉元まで来る。祈りの糸が、見えない場所で引かれた。
俺は一歩前に出て、欠けた刃を谷の風に晒した。
「……見せねえ」
狐の影は、動かないまま指を折り、最後に手のひらを見せた。
『なら、死体で払え』
クロの目が細くなる。
俺は息を吐いた。
祈りを使う者たちが追ってきて、
死体を商う者が待っている。
そして真ん中に、吐き気を飲み込む追放巫女がいる。
──揃わないはずの死体が、揃い始めた。
それは合図だ。
玉座が空いたことを告げる、最初の合図。




