第二章第三話 祈りを使う者たち
土の匂いは、祈りの匂いより正直だ。
床下の穴へ身を滑らせた瞬間、ミサキの肩から力が抜けるのが分かった。息が深くなる。深くなる息は生存の合図だ。白巫の里で深呼吸は不敬だったらしいが、ここでは深呼吸できる奴が生きる。
先を行くのはクロ。
暗い穴の中でも迷わない。迷わないのは、この穴を掘ったのが彼らだからだ。生活を捨てた刃が、生活の下に逃げ道を作る。その矛盾だけが、やけに人間らしい。
俺は最後に潜り込み、床板を戻す音を背で聞いた。
その直後、上で扉が破られる音がした。木の割れる音。空気の裂ける音。祈殿で聞く鈴の音とは違う、乱暴な音。
白巫家は、暴力を嫌うふりをする。
だが必要なら、暴力を祈りで包む。包めば正しくなる。正しさが手に入るなら、何でもする。
穴は狭い。膝を擦る。泥が衣に付く。
ミサキは一度だけ喉を鳴らし、それでも声を上げなかった。えらい。だが、えらいだけでは生き残れない。
「止まるな」
クロが低く言う。
止まれば、祈りに追いつかれる。祈りが追いつくと、体が反応する。体が反応すると、居場所が割れる。割れたら終わりだ。
穴の天井が低くなる。
空気が湿る。湿ると、ミサキの呼吸がわずかに浅くなった。祈りの湿気に似ている。祠の前で吐き気を催したと言っていた。こいつの体は、祈りの「痕」を嫌う。
嫌うということは、嗅ぎ分けられるということだ。
「……来てる」
ミサキが囁いた。
クロが振り返る。
「何が」
「上の、白い香。……鉄の匂いも」
鉄。
祈殿の香に混じる鉄臭さ。処刑の夜に嗅いだ、乾いた匂い。血じゃない。血を装った何か。
クロが舌打ちした。
「神官だけじゃねえな」
その言葉の意味が分かった瞬間、俺の背筋が冷えた。
白巫家の白が直接動くとき、必ず「刃」が随伴する。
王国の兵では足りない。兵は迷う。兵は報告する。兵は余計を残す。
白巫家が欲しいのは、迷わず、余計を残さず、消す刃だ。
──赤刀衆。
俺たちがかつて担っていた役目。
穴の向こうが少し明るくなった。
出口だ。土の壁が薄くなり、外の空気が混じる。混じる空気が冷たい。冷たい空気はいい。冷えは判断を鋭くする。
クロが先に這い出し、周囲を見回した。
草が腰ほど伸びた空き地。畑の跡。捨てられた井戸。祈りの匂いは薄い。だが薄いだけで、ゼロではない。
ミサキが出口から顔を出した瞬間、肩がぴくりと揺れた。
反応だ。
「……祈りが、張ってある」
張ってある。
こいつは祈りを「物」みたいに言う。白巫の里なら神意が満ちていると言うところだ。満ちている、じゃない。張ってある。網だ。罠だ。
クロが眉をひそめる。
「結界か」
「……たぶん。触ると、吐きます」
吐く。
吐くのは恥じゃない。罠の反応だ。罠に反応する体は、罠に見つかる体でもある。
俺は周囲の地面を見た。
目に見えない線がある、という感覚だけがある。影が一拍遅れて動く気配。空気が割れている気配。祈りが空間を縫い留めている。
白巫家のやり方だ。
祈りは願いではなく、道具。縫い糸。縄。首輪。
「……来い」
クロが低く言い、右へ逸れた。
結界の薄い場所を探している。薄い場所は、必ずある。完全な網など存在しない。存在しないはずだ。存在してしまうなら、それは神の仕事になる。
草を踏む音が、後ろから来た。
近い。早い。複数。
クロが舌打ちし、短刀を抜いた。
刃は月明かりを拾わない。拾わないように黒く塗ってある。見せるための刃ではなく、消すための刃だ。
俺も欠けた刃を抜く。
欠けは小さいのに、指先がその欠けを覚えている。祈りを切った夜の感触。切れないものを切った感触。あれ以来、俺は祈りを信用していない。信用していないのに、祈りは追ってくる。
草の向こうから現れたのは、白衣の神官が二人。灰の兵が三人。
そして、最後に──赤い紐を柄に巻いた短刀を携えた男が一人。
赤刀衆。
だが、俺たちとは違う。
紐の巻き方が新しい。白が汚れていない。目が、祈殿の目をしている。
「……焔」
男が俺を呼んだ。
名が出るということは、把握されている。追放巫女を探しているのではない。俺を含めて消す手配だ。
神官が一歩前に出る。
声は丁寧で、冷たい。
「白巫ミサキ。戻りなさい。あなたの処遇は、改めて慈悲深く決定されます」
慈悲。
便利な言葉だ。刃を隠す布だ。
ミサキの呼吸が一瞬浅くなった。
体が反応する。戻りたいという反射。恐怖と安心が混ざる反射。制度の内側に戻れば、決断しなくていいからだ。
俺は短く言った。
「戻るな」
ミサキの目が揺れ、揺れを殺す。
そして、低く言った。
「……戻りません」
神官の眉がわずかに動いた。
その一瞬の動きが、怒りではなく焦りに見えた。
「あなたは、外にいるべきではない」
神官が言う。
外にいるべきではない。つまり、外にいると困る。
困る理由を言わない。
言えないからだ。言えば神の席が空いていると認めることになる。
赤刀衆の男が一歩踏み出した。
俺にだけ聞こえるような声で言う。
「焔。戻れ。まだ間に合う」
戻れ。
俺に向けて言う言葉じゃないはずなのに、言った。
赤刀衆にとって、裏切り者が戻ることは正しさの回復になる。正しさが回復すれば、刃は自分を疑わなくて済む。
「間に合う、って何にだ」
俺が問うと、男の目が僅かに揺れた。
「……神託の破綻に」
言ってしまった。
言ってしまった瞬間、神官の視線が男に刺さる。刺さった視線で男が口を閉じる。白巫家は、赤刀衆にすら言わせたくない言葉がある。
破綻。
神託の破綻。
ミサキが、ほんの少しだけ顔をしかめた。
吐き気が来かけている。祈りの網が強くなった。強くなったということは、神官が押し込んでいる。
祈りを使って、空間を縛る。
人を縛る。
反射を引きずり出す。
「ミサキ」
神官が名を呼ぶ。
名で呼ぶことで、彼女を「器」に戻そうとする。名は鎖だ。白巫の名は特に。
「あなたは、神のための器です」
言葉が空気に落ちた瞬間、空気が一拍遅れて震えた。
影が遅れる。
鈴の鳴り損ねの感覚が、骨に走る。
ミサキが膝をつきかける。
祈りの姿勢に体が折れかける。
俺は一歩踏み込み、彼女の前に刃を立てた。
刃を立てるだけで、空気が少し切れる。祈りの糸がたわむ。完全には切れない。だがたわむだけで、息が入る。
「祈りを武器にするな」
俺が言うと、神官は笑わなかった。
ただ、丁寧に言い返す。
「武器ではありません。神意です」
神意。
その言葉で何でも正当化できると思っている声。
クロが低く言った。
「……祈りを使う者たち」
まさにそうだ。
祈りは願いじゃない。道具だ。制度の工具だ。
赤刀衆の男が、刃を抜いた。
抜いた刃が、迷いなくこちらへ向く。迷いがない刃ほど危険だ。迷いがない刃ほど、命令に従う。命令に従う刃ほど、後悔しない。後悔しない刃は、折れない。折れない刃は、よく殺す。
俺は欠けた刃を握り直す。
欠けた刃は、よく殺せない。よく殺せない刃は、余計な音を出す。余計な音は、世界を揺らがせる。
──それでいい。
俺は一歩踏み込み、赤刀衆の男の刃とぶつけた。
金属音が鳴る。鳴った瞬間、空気がまた遅れる。遅れが増える。祈りが強く押し込まれている証拠だ。押し込むほど歪む。歪むほど、ミサキが反応する。
ミサキが歯を食いしばり、吐き気を飲み込んで立ち上がった。
立ち上がれるなら、まだ間に合う。
「走れ」
俺は言った。
クロが即座にミサキの腕を掴み、結界の薄い方へ引く。薄い場所へ。縫い目の甘い場所へ。
神官が声を上げる。
「止めなさい!」
その声が空気を縛る。
縛られた空気が、遅れて収縮する。影が遅れて伸び、遅れて縮む。まるで世界が息を止めている。
ミサキが、走りながら小さく呟いた。
「……そこ、薄い」
薄い、と言う。
こいつは結界の厚みを感じる。触れて吐くからだ。吐くほど濃い。吐かないなら薄い。曖昧で、だが確かな指標。
クロが迷わず飛び込む。
ミサキも飛び込む。
次の瞬間、ミサキの肩がびくりと跳ねた。
それでも吐かなかった。喉の奥で飲み込み、目を見開き、走り続ける。えらい。えらいだけじゃない。──強い。
神官が、初めて声を荒げた。
「……っ、器が!」
器が、と叫んだ。
名前ではない。器と呼ぶ。
器と呼んだ瞬間、白巫家の正体が露になる。
俺は赤刀衆の男の刃を弾き、退きながら言った。
「お前らは神を信じてない。信じてるのは、便利さだ」
男の目が揺れた。揺れた瞬間、俺は理解した。
こいつも気づいている。神託が壊れていることに。だが気づいていて、目を閉じている。目を閉じれば、刃は折れないからだ。
俺は最後に一歩踏み込み、刃で空気を斬った。
祈りそのものは切れない。だが、祈りの余計な糸は切れる。
空気が、ほんの少しだけほどけた。
ほどけた瞬間、影の遅れが減る。
俺は走った。
クロとミサキの後を追う。結界の縫い目を抜け、草の匂いの濃い方へ。祈りの薄い方へ。
背後で神官の声が、なおも追ってくる。
「白巫ミサキ。戻りなさい──」
戻らない。
戻れば器だ。
器になれば、世界の揺らぎを気のせいにされる。
俺は息を吐き、胸の内でひとつだけ確信した。
白巫家が本当に恐れているのは、逃亡じゃない。
追放巫女が生き延びることでもない。
──祈りが道具だと、バレることだ。
その瞬間、世界はもう、戻れない。




