第二章第二話 赤刀衆、残党
夜明け前の空は、灰色の薄皮みたいに張りついている。
白巫の白が正しい昼を作るなら、外縁の灰は間違った朝を作る。間違っていてくれた方がありがたいこともある。追う者の目が鈍る。祈りの網が薄い。足音が土に吸われる。
俺は前を歩き、追放巫女──ミサキを背に置いた。
置いたというより、背中で確かめている。足音が乱れていないか。呼吸が浅くなっていないか。吐き気で遅れていないか。
生き残る奴は、まず呼吸で分かる。
「……どこへ」
ミサキが小さく問う。
声が低い。白巫の里の巫女なら、もっと細く、もっと澄んだ声を作る。こいつは澄ませていない。澄ませられない。澄ませないほうが生き残る。
「俺の連れがいる」
「赤刀衆の……?」
「残りカスだ」
言ってから、俺は舌の裏が苦いのを感じた。
残りカス。俺もその一つだ。火が消えた灰。だが灰は、踏まれるまで温度を残す。
背後の道から、兵の気配は消えていた。
追って来ないのは、優しさじゃない。追えば白巫家が嗅ぎつける。白巫家が嗅ぎつければ、兵の報告が余計になる。余計は処分される。余計は消される。だから追わない。
追わないのに、安心できない。
白巫家は追わないこともできる。代わりに呼ぶことができる。
神託を使う。
祈りを使う。
そういう奴らだ。
街道から外れ、葦の湿地を抜ける。足元が冷たい。泥が吸い付く。泥に足を取られると死ぬ。死ぬときは泥のせいじゃない。遅れのせいだ。判断の遅れ。呼吸の遅れ。影の遅れ。
ミサキの歩幅が、ほんの少しだけ乱れた。
俺は振り返らずに言う。
「吐くな」
「……吐きません」
言い切る声が、少し震えた。震えは恐怖じゃない。体が先に反応している震えだ。こいつは自分の体を信用していない。白巫の里で信用するのは神意で、体じゃないからだ。
「祠を見るな」
俺は続ける。湿地の端に、小さな木札が立っている。簡単な祈りの痕跡。あれを見たら、こいつは反応する。反応したら、場所がバレる。
「見ません」
返事は素直すぎる。素直すぎる返事は危険だ。素直な奴ほど折られやすい。折られた奴ほど使われやすい。
それでも俺は、背中で確かめるように歩いた。
確かめてしまう時点で、俺も甘い。
湿地を越えると、土の匂いが変わった。
畑だ。人の生活の匂い。祈りの匂いではない。祈りが薄い場所は、ある意味で安全だ。神の席が空いていても、誰も見上げない。
藁屋根の小屋が見えた。
小さな納屋みたいな建物。外から見れば何もない。ただの貧しい小屋だ。だが扉の上に、釘で打ち付けられた木札がある。刀の形を削った印。赤刀衆の合図だ。
ミサキが息を呑む音がした。
怖がっているのは刃じゃない。所属の匂いだ。白巫家の外側に組織があるという事実が怖い。制度しか知らない奴は、制度の外の繋がりを恐れる。
俺は扉を三度叩き、短く言った。
「灰」
返事はすぐに来ない。
すぐに来ない方がいい。すぐに来るのは罠か、浮つきだ。浮ついた奴は死ぬ。
内側で、金属が擦れる音。
鍵の音ではない。刃の音だ。刃で戸を開ける奴は、生き残る。
扉が開いた。
中から覗いたのは男だった。若くない。だが老けてもいない。目の下に影がある。眠っていない影だ。
「……焔」
男が俺の名を呼ぶ。
呼び方に、嫌悪と安堵が混じっていた。嫌悪は裏切り者への嫌悪。安堵は、刃が一本増える安堵。
「まだ生きてたか」
「お前もな、クロ」
男──クロは鼻で笑い、視線を俺の背後へ移した。
ミサキを見た瞬間、クロの目が一段冷たくなる。値踏みの冷たさ。殺すべきか、生かすべきかの冷たさ。
「……白衣だ」
「追放だ」
俺が言うと、クロの眉がわずかに動いた。
「追放?」
「名簿抹消済み」
クロは舌打ちした。
舌打ちは軽蔑ではない。面倒が来た時の反射だ。
「白巫が動く」
「もう動いてる」
俺は小屋の中へ入った。ミサキも入る。扉が閉まる音が、外の世界を薄くする。薄くなると息が深くなる。ミサキの肩が少し落ちた。白巫の白より、薄い壁の方が安心する女。皮肉だが、そういう女の方が生き残る。
小屋の中は暖かい。
火鉢があり、粗末な干し肉と水がある。贅沢じゃないが、生活がある。赤刀衆は生活を持てなかった。刃は生活に触れると錆びるからだ。錆びる刃は捨てられる。捨てられないために、刃は生活を捨てる。
クロがミサキを見たまま言った。
「吐くか?」
質問が直球すぎる。
赤刀衆は回りくどい言葉を嫌う。回りくどさは祈りの特権だ。刃は短く、刺さる言葉を選ぶ。
ミサキは、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、正直に言った。
「……祈りの痕跡で、気持ち悪くなります」
クロの視線が俺に戻る。
その目が殺せと言っていた。こいつは危険だ。危険は始末するのが一番早い。
俺は火鉢の灰を指で弄りながら言った。
「こいつは受けない」
クロの眉が動く。
「受けない?」
「神託を受けない。代わりに、歪みに反応する」
俺はそれ以上説明しなかった。説明は言い訳になる。言い訳は弱さになる。弱さは切られる。赤刀衆はそういう生き物だ。
クロはミサキを見直す。
視線が少し変わった。値踏みから、用途の視線へ。使えるかどうか。どこで使えるか。どこで捨てるか。
「……災いだな」
クロが呟く。
「災いは白巫家に返すか?」
「返せば殺される」
「殺されるのは当たり前だ。問題は──」
クロの目が細まる。
「殺される前に、何を見たかだ」
ミサキの肩が僅かに揺れた。
こいつは脅しに慣れていない。白巫の里の脅しはもっと柔らかい。「情け」とか「慈悲」とか、布で包んだ刃だ。クロの刃は包まない。裸で置く。裸の刃はよく切れる。
俺が口を挟む。
「境界の死体を見た」
クロの視線が跳ねた。
「……あの死体か」
知っている。
つまり、あれは偶然じゃない。
「向きが変だった」
「向きはいつも変だ」
クロが淡々と言う。
「だが最近は、揃わない」
揃わない。
それは白巫家が一番嫌う言葉だ。記録が揃わない。死体の向きが揃わない。祈りの結果が揃わない。揃わないことは、神の席が空いている証拠になる。
「白巫が隠してる」
クロが言った。
「隠しきれてない」
俺が返す。
沈黙が落ちる。
火鉢の灰が、ぱち、と小さく鳴った。鳴っただけなのに、ミサキがわずかに身構えた。反応だ。神託の折れた音を体が覚えている。
クロがそれを見て、口の端を歪める。
「……なあ焔。お前、面倒を拾ってきたな」
「拾ったんじゃない」
「連れてきた」
「呼ばれたんだろ」
クロの言い方は、冗談みたいに軽い。
だが冗談ではない。赤刀衆は呼び方を知っている。白巫家がどうやって人を呼ぶか。どうやって人を集め、どうやって消すか。
俺は答えない。
答えられるはずがない。俺は信仰を捨てた。だが現象は捨てられない。現象は追ってくる。
クロが立ち上がり、壁際の布を剥いだ。
中から出てきたのは、短い刀が二振り。赤刀衆の刃。赤い紐が柄に巻かれている。古い。だが手入れはされている。手入れされている刃は、まだ死んでいない。
「移動する」
クロが言う。
「ここは?」
「白巫家に近すぎる」
クロは刀を一本、俺に投げて寄こした。
受け取ると、柄が冷たい。刃の重さが手に馴染む。馴染むのが嫌だった。嫌なのに、体が覚えている。体は裏切らない。裏切るのは信仰だけだ。
ミサキが刀を見て、目を逸らした。
刃を見る目が、祈りを見る目より正直だ。刃は嘘をつかない。嘘をつかないものが怖いのだろう。
「お前は?」
クロがミサキに問う。
「……私は」
言葉が詰まる。
こいつはまだ自分の立場を名乗れない。巫女でもない。兵でもない。赤刀衆でもない。立場がない人間は、制度に食われる。
俺は言った。
「まだ決めなくていい」
クロが俺を睨む。
「決めない奴は死ぬ」
「決めさせない奴がいる」
俺は続けた。
「白巫家だ」
クロは鼻で笑った。
笑いは軽いが、目は笑っていない。
「じゃあ決めるのは、白巫家より先だ」
その言葉は正しい。
正しいから、胸の奥が少し熱くなる。熱は希望じゃない。生存の熱だ。
外で、犬が吠えた。
吠え方が短い。警戒の吠え方だ。誰かが近づいている。
クロが火鉢の灰を指で掻き、火を殺す。
火が死ぬと、部屋の匂いが変わる。生活の匂いが薄くなり、刃の匂いが濃くなる。
「……来た」
クロが言う。
俺は耳を澄ませた。
足音がある。複数。泥を踏む音じゃない。石を踏む音。王都の道を歩く音。
兵だ。
いや──兵だけじゃない。
香が混じる。
甘い香。祈殿の香。あの鉄の匂いを隠すための甘さ。
ミサキが、顔色を変えた。
吐き気の前兆が喉に上がるのが、目に見えるほど分かりやすい。
「……来る」
ミサキが小さく言った。
「何が」
クロが問う。
ミサキは、息を吸って、吐いて、それでも言った。
「祈りが、近い。……影が、遅れます」
その瞬間、俺の背筋が冷えた。
祈りが近い。
つまり白巫家が、ここを嗅ぎつけた。
クロが舌打ちし、扉の隙間から外を見た。
「……白衣だ」
白衣が二つ、三つ。
兵の灰に混じって、白がいる。白は夜明け前の灰の中で、よく目立つ。
俺は刀の柄を握り直した。
欠けた刃の感触が、指先に蘇る。祈りを切った夜の感触。刃が欠けた感触。
クロが低く言う。
「焔。お前、拾ったな」
「拾ってない」
「呼ばれたんだろ」
クロは笑わなかった。
冗談の皮が剥がれ、刃の顔が出る。
「なら、応えるしかねえ」
俺は頷いた。
外で、白い声が響いた。
祝詞ではない。命令の声だ。祈りを命令に変える声。
「白巫ミサキ。戻りなさい」
戻りなさい。
情けとしての追放を与えた口で、今度は「戻れ」と言う。都合が悪くなったから戻せ。戻して処理しろ。戻して隠せ。
ミサキが、ほんの一瞬だけ足を止めた。
戻りたい、という反射が体に残っている。体の反射は厄介だ。反射は制度が植え付けたものだからだ。
俺は言った。
「戻るな」
短く。
刃の言葉で。
ミサキが俺を見た。
目が揺れて、すぐに揺れを殺す。揺れを殺せる奴は、生き残る。
「……戻りません」
言い切った声が、少しだけ低くなった。
クロが扉の裏側の板を蹴り、隠し通路を露わにした。
床板が外れ、土の匂いが上がる。逃げ道だ。生活の下に作った逃げ道。赤刀衆が生活を捨てたくせに、生活の下に穴を掘る。矛盾が、いちばん人間らしい。
「先に行け」
クロがミサキに言う。
「焔、お前は最後だ」
俺は頷いた。
最後に残るのは、切るためじゃない。追われるためだ。追われる役目は、刃の役目だ。
ミサキが床板の穴へ降りる直前、ふとこちらを見た。
「……死なないで」
その一言が、妙に刺さった。
祈りの言葉じゃない。命令でもない。生きろ、という願いだ。
俺は返事をしなかった。
返事をすると甘くなる。甘くなると死ぬ。
代わりに、刀の柄を握り締めた。
白い声が、扉の向こうで近づく。
「開けなさい。神意に背くことになります」
神意。
便利な言葉だ。刃を抜かせるための合図に使える。だが今の俺には、合図は別にある。
影が、遅れて動いた。
その遅れが、もう気のせいではないほど大きい。
遅れが大きいということは、祈りが強引に押し込まれている。押し込まれているということは、壊れかけている。
俺は息を吐いた。
──来い。
白巫家が、ここへ来たということは。
ミサキの不在が、もう隠せないほどになったということだ。
扉が叩かれる。
板が軋む。
白が、暴力の顔をする。
俺は刃を抜いた。
欠けた刃の先が、暗い小屋の中で淡く光る。
逃げるために。
殺すためではなく。
だが逃げ道を作るには、時々、誰かの正しさを切らなければならない。
白い声が叫ぶ。
「──開けなさい!」
俺は笑わなかった。
ただ、刃を構えた。
火は、まだ消えない。




