第一章第一話 神意は、降りなかった
神意は、揺らがない。
揺らぐのは、常に人の心だ──と、白巫王国では教わる。
だから私は、揺らがないふりが得意になった。
泣きたい日も、腹が立つ日も、怖い日も。顔は静かに、背筋は真っすぐ。巫女とはそういう器だと、息をするみたいに叩き込まれたから。
祈殿は朝の香で満ちていた。
白檀と沈香、それに少しだけ鉄の匂いが混じる。ここ数日、香の配合が変わったのだと言われた。神官は「浄めが強くなる」と説明し、巫女たちは「ありがたい」と頷いた。ありがたい、という言葉が先にあり、意味が後から追いつく。白巫の里では、それが正しい。
石畳は冷たく、裸足の裏から骨へと染みる。
冷たさは神意に近い、と誰かが言った。近いほど、痛みは自分のものではなくなる。そう思えば耐えられる。耐えることは美徳だ。耐える者は選ばれる。選ばれる者は、疑わない。
私は、所定の位置に膝をついた。
正面には神像。白い石で彫られた、目のない神。目がないから、誰も見られていないはずなのに、誰も目を逸らさない。目を逸らすという行為そのものが、ここでは不敬になる。
鈴が鳴る。
巫女たちが一斉に額を床につける音が、波のように広がる。
上位神官が、祝詞を唱え始めた。
意味は理解しなくていい。言葉は器に流れ込む水で、器が正しければ形になる。形になったものが神託だ。だから私は、空っぽになるよう努めた。空っぽであるほど、注がれたものは澄む。
──そう教わった。
最初の巫女が、息を吸い込む。
彼女の肩が小さく震え、目が遠くを見る。そこから先は、何度も見てきた。神託が降りる瞬間の、あの微かな硬直。喜びではない。光でもない。むしろ、冷たい手で後頭部を掴まれるような感覚に似ている、と先輩は言った。
巫女の唇が動く。
「……北の風、白き羽、折れて……」
言葉が、祈殿に落ちる。
それはいつも、少しだけ意味を残し、残りを闇に沈める。誰も問いたださない。問うのは人の傲慢で、神意は傲慢を嫌う──という理屈が、先に置かれている。
次の巫女。
次の巫女。
神託は降り続ける。
私は数えない。数える必要がない。ここでは、順番は正しい。正しい順番で、正しいものが降りる。正しさは前提であり、確認するものではない。
それでも、私の中で小さな針が動いた。
鈴の音が、わずかに遅れた気がしたのだ。
鳴ってから耳に届くまでに、ひと呼吸ぶんの隙間がある。そんなことはあるはずがない。鈴はただの金属で、空気はただの空気で、耳はただの器官だ。遅れる理由はない。
私は目を閉じたまま、喉の奥を確かめる。
冷たい。氷を含んだみたいに冷える。香の匂いが、鉄に寄っていく。血の味に似ている。口の中が乾く。
(気のせい)
気のせいで済ませられるなら、気のせいにする。
それが白巫家の作法だ。
順番が回ってくる。
額を床につけたまま、私は息を吸った。
空っぽになる。空っぽになる。空っぽになる。
胸の奥が、ひやりとする。
冷たいものが、内側から撫でていく。嫌な手つきだと思った。神意は清らかだと教わってきたのに、その手つきは清らかではなかった。清らかではないものを、清らかではないと認めることは、ここでは許されない。
私は、ただ待った。
神意が降りるのを。
世界が、少しだけ遠のく。
祈殿の空気が薄くなる。
香の匂いが紙のように剥がれて、下から別の匂いが出てくる。焦げた布の匂い。濡れた土の匂い。冬の井戸の匂い。
息を吐く。
──何も来ない。
待つ。
待つ。
待つ。
鈴が、もう一度鳴る。
今度は、はっきりと鳴った。遅れもない。だからこそ、さっきの遅れが私の錯覚だったことにされる。
私は、まだ空っぽのままだ。
空っぽの器に、何も注がれない。
それは、器のせいだ。
上位神官の声が、祈殿に響いた。
「本日の神託は、以上です」
終わる。
終わってしまう。
私は額を上げることができなかった。
床の冷たさが、やけに心地よい。顔を上げれば、何かが決まってしまう。決まってしまえば、戻れない。
周囲の巫女たちが静かに立ち上がる。衣擦れの音が、正しい順序で流れていく。その中に、私の音は混ざらない。混ざれない。
誰も、私の名を呼ばない。
呼ばれないという事実は、それだけで裁定だった。
祈殿を出る廊下で、年上の巫女が私の横を通り過ぎる。
視線は、私を避ける。避けるのではなく、「そこにないもの」として扱う目だ。あれは、慣れている人の目だ。
上位神官が、私の前に立った。
白い衣。白い手。白い声。
「白巫ミサキ」
名を呼ばれた。
名を呼ばれるのは、嬉しいことのはずなのに、私は胃の底が冷えるのを感じた。
「神意、未受信」
その言葉は、短い。
短いのに、体の中に長い針を差し込む。
「……はい」
私は頷いた。
頷くのが正しい。違うと言う資格はない。神意が降りないのは、神のせいではない。私の器が足りないだけだ。
上位神官は、淡々と続ける。
「後ほど、判定の場を設けます」
判定。
その二文字が、私の中で沈む。
私は、また頷いた。
「はい」
声は震えなかった。
震えないように、育てられたから。
廊下の先で、神像のある壁龕が目に入る。
白い石の影が、灯明の揺れに合わせて動く。
──いや。
影だけが、一拍遅れて動いた。
私は、それを見てしまった。
見てしまった瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。針で刺された程度の、確かな痛み。泣くほどでもない。叫ぶほどでもない。だからこそ、無視できる。無視すれば、存在しない。
私は目を伏せた。
神意は、揺らがない。
揺らぐのは、常に人の心だ。
なら──揺らいでいるのは、私の心だ。
そう結論づけるのは、あまりにも簡単だった。
簡単な結論の中に身を沈めながら、私は歩いた。
判定の場へ。
その先に何が待っているかを、私は知っている。
知っているのに、知らないふりができる。
白巫の里では、それが生き残る術だった。
ただ一つだけ、妙な確信が残っていた。
神意は降りなかった。
けれど──
降りなかったのは、神が沈黙したからではない。
何かが、途中で止めた。
その確信を言葉にした瞬間、私は巫女ではいられなくなる。
だから、言わない。
言わないまま、世界は正しいふりを続ける。
灰が降り始めるのは、まだ、少し先の話だ。




