表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/34

第一章第一話 神意は、降りなかった


 神意は、揺らがない。

 揺らぐのは、常に人の心だ──と、白巫(しろみこ)王国では教わる。


 だから私は、揺らがないふりが得意になった。

 泣きたい日も、腹が立つ日も、怖い日も。顔は静かに、背筋は真っすぐ。巫女とはそういう器だと、息をするみたいに叩き込まれたから。


 祈殿は朝の香で満ちていた。

 白檀と沈香、それに少しだけ鉄の匂いが混じる。ここ数日、香の配合が変わったのだと言われた。神官は「浄めが強くなる」と説明し、巫女たちは「ありがたい」と頷いた。ありがたい、という言葉が先にあり、意味が後から追いつく。白巫の里では、それが正しい。


 石畳は冷たく、裸足の裏から骨へと染みる。

 冷たさは神意に近い、と誰かが言った。近いほど、痛みは自分のものではなくなる。そう思えば耐えられる。耐えることは美徳だ。耐える者は選ばれる。選ばれる者は、疑わない。


 私は、所定の位置に膝をついた。

 正面には神像。白い石で彫られた、目のない神。目がないから、誰も見られていないはずなのに、誰も目を逸らさない。目を逸らすという行為そのものが、ここでは不敬になる。


 鈴が鳴る。

 巫女たちが一斉に額を床につける音が、波のように広がる。


 上位神官が、祝詞を唱え始めた。

 意味は理解しなくていい。言葉は器に流れ込む水で、器が正しければ形になる。形になったものが神託だ。だから私は、空っぽになるよう努めた。空っぽであるほど、注がれたものは澄む。


 ──そう教わった。


 最初の巫女が、息を吸い込む。

 彼女の肩が小さく震え、目が遠くを見る。そこから先は、何度も見てきた。神託が降りる瞬間の、あの微かな硬直。喜びではない。光でもない。むしろ、冷たい手で後頭部を掴まれるような感覚に似ている、と先輩は言った。


 巫女の唇が動く。


「……北の風、白き羽、折れて……」


 言葉が、祈殿に落ちる。

 それはいつも、少しだけ意味を残し、残りを闇に沈める。誰も問いたださない。問うのは人の傲慢で、神意は傲慢を嫌う──という理屈が、先に置かれている。


 次の巫女。

 次の巫女。

 神託は降り続ける。


 私は数えない。数える必要がない。ここでは、順番は正しい。正しい順番で、正しいものが降りる。正しさは前提であり、確認するものではない。


 それでも、私の中で小さな針が動いた。


 鈴の音が、わずかに遅れた気がしたのだ。

 鳴ってから耳に届くまでに、ひと呼吸ぶんの隙間がある。そんなことはあるはずがない。鈴はただの金属で、空気はただの空気で、耳はただの器官だ。遅れる理由はない。


 私は目を閉じたまま、喉の奥を確かめる。

 冷たい。氷を含んだみたいに冷える。香の匂いが、鉄に寄っていく。血の味に似ている。口の中が乾く。


 (気のせい)


 気のせいで済ませられるなら、気のせいにする。

 それが白巫家の作法だ。


 順番が回ってくる。

 額を床につけたまま、私は息を吸った。


 空っぽになる。空っぽになる。空っぽになる。


 胸の奥が、ひやりとする。

 冷たいものが、内側から撫でていく。嫌な手つきだと思った。神意は清らかだと教わってきたのに、その手つきは清らかではなかった。清らかではないものを、清らかではないと認めることは、ここでは許されない。


 私は、ただ待った。

 神意が降りるのを。


 世界が、少しだけ遠のく。

 祈殿の空気が薄くなる。

 香の匂いが紙のように剥がれて、下から別の匂いが出てくる。焦げた布の匂い。濡れた土の匂い。冬の井戸の匂い。


 息を吐く。


 ──何も来ない。


 待つ。


 待つ。


 待つ。


 鈴が、もう一度鳴る。

 今度は、はっきりと鳴った。遅れもない。だからこそ、さっきの遅れが私の錯覚だったことにされる。


 私は、まだ空っぽのままだ。

 空っぽの器に、何も注がれない。


 それは、器のせいだ。


 上位神官の声が、祈殿に響いた。


「本日の神託は、以上です」


 終わる。

 終わってしまう。


 私は額を上げることができなかった。

 床の冷たさが、やけに心地よい。顔を上げれば、何かが決まってしまう。決まってしまえば、戻れない。


 周囲の巫女たちが静かに立ち上がる。衣擦れの音が、正しい順序で流れていく。その中に、私の音は混ざらない。混ざれない。


 誰も、私の名を呼ばない。


 呼ばれないという事実は、それだけで裁定だった。


 祈殿を出る廊下で、年上の巫女が私の横を通り過ぎる。

 視線は、私を避ける。避けるのではなく、「そこにないもの」として扱う目だ。あれは、慣れている人の目だ。


 上位神官が、私の前に立った。

 白い衣。白い手。白い声。


「白巫ミサキ」


 名を呼ばれた。

 名を呼ばれるのは、嬉しいことのはずなのに、私は胃の底が冷えるのを感じた。


「神意、未受信」


 その言葉は、短い。

 短いのに、体の中に長い針を差し込む。


「……はい」


 私は頷いた。

 頷くのが正しい。違うと言う資格はない。神意が降りないのは、神のせいではない。私の器が足りないだけだ。


 上位神官は、淡々と続ける。


「後ほど、判定の場を設けます」


 判定。

 その二文字が、私の中で沈む。


 私は、また頷いた。


「はい」


 声は震えなかった。

 震えないように、育てられたから。


 廊下の先で、神像のある壁龕(へきがん)が目に入る。

 白い石の影が、灯明の揺れに合わせて動く。


 ──いや。


 影だけが、一拍遅れて動いた。


 私は、それを見てしまった。

 見てしまった瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。針で刺された程度の、確かな痛み。泣くほどでもない。叫ぶほどでもない。だからこそ、無視できる。無視すれば、存在しない。


 私は目を伏せた。


 神意は、揺らがない。

 揺らぐのは、常に人の心だ。


 なら──揺らいでいるのは、私の心だ。


 そう結論づけるのは、あまりにも簡単だった。


 簡単な結論の中に身を沈めながら、私は歩いた。

 判定の場へ。


 その先に何が待っているかを、私は知っている。

 知っているのに、知らないふりができる。


 白巫の里では、それが生き残る術だった。


 ただ一つだけ、妙な確信が残っていた。


 神意は降りなかった。

 けれど──


 降りなかったのは、神が沈黙したからではない。

 何かが、途中で止めた。


 その確信を言葉にした瞬間、私は巫女ではいられなくなる。

 だから、言わない。


 言わないまま、世界は正しいふりを続ける。


 灰が降り始めるのは、まだ、少し先の話だ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ