第三章 彼視点 第一話──引退試合
彼を△△。彼女を〇〇。
読者様の名前や好きだった人の名前に置き換えてお読みください。
空はすっかり秋の色をまとい、青の中に淡い雲が漂っていた。
競技場のトラックは、夏の熱気を忘れきれずにまだ熱を帯びている。
風が吹くたび、芝生の上で揺れる旗の音と、観客席のざわめきが重なって聞こえてきた。
ここが僕の陸上生活の締めくくり。
――学校対抗戦。
三年間の全てが、この約十秒に詰まっている。
予選が始まる前、仲間たちとサブグラウンドでアップをしていた。
「おい△△、顔こわばってんぞ」
「……うるさい、普通だ」
強がって笑ったけれど、心臓の音が耳の奥に響いて、周りの声が遠のいていく。
身体が硬い、明らかに力んでいるのがわかった。
スタート前の招集へ向かう途中。女子マネと話す彼女の姿が見えた。
競技場でしかも彼女の前で上手く走れるだろうか。
――今は集中。
余計な事を考えてる自分の甘さに叱責し、
彼女に一言もかけずに通り過ぎようとした時、
両手の人差し指で自分の口角を持ち上げる彼女。
とても可愛い表情に、さっき切り替えたはずの気持ちが一気に崩れて顔が緩んでしまった。
「おい△△、顔ニヤけてんぞ」
「……うるさい、いつもだ」
おかげで仲間にからかわれてしまったが、自分の中の足枷となっていたプレッシャーは気付けばなくなっていた。
スタート前。いつものルーティーン。両手をつく前に右足のミサンガに触れる。
右手、そして左手をスタートラインに手をつき一呼吸。 号砲とともに飛び出す。
――あれ?なんか良い感じだ。
力んでいた身体の力は抜け、心に余裕があるのがわかった。
脚のバネが躍動し体を前へと運んでくれる。
あっという間のゴールに自分でも驚いた。
この感覚は……と思い電光掲示板には1着に自分の名前と自己ベストの記録が載っていた。
ずっと伸び悩んでいた記録をここで塗り替えることができた。
観客席を見上げる。 真っ先に見つけたのは、両手をぎゅっと胸の前で組んだ彼女の姿。
こちらに気づいた彼女に精一杯拳を突き上げた。
女子マネと満面の笑みで喜んでいる。彼女の前でこの記録が出せたことが何よりも嬉しかった。
力みを取ってくれたのはいつも僕の支えになっていた彼女の笑顔だから。
予選後もサブグラウンドでさっきの感覚を確認した。
身体はまだ軽いまま、疲労もほとんどない。すごくリラックスできていた。
青空を見上げながらシートに横になり、音楽を聴きながら目を閉じていると、 急に空が暗くなった気がした。
目を開けると上から覗き込む彼女がいた。
「自己ベストおめでとう!それだけが伝えたくて」
「ありがとう。〇〇のおかげでもあるよ」
「私何もしてないよ?」
「さっきすれ違った時にやってたやつ見て緊張がほぐれたから」
「あれね。すごく顔がこわばってるように見えたから笑って!って伝えたかったの」
「うん。笑えたよ」
「よかった。この後も応援してるね」
そう言い残して観客席に戻ろうとする彼女。
「あっ!ちょっと待って」
僕は彼女を引き留めた。
「日が落ちてくると寒くなるから、これ」
彼女に僕のジャージを羽織らせてあげた。
陸上部しか着られない、背中に学校の名前と腕に自分の名前の入った3年間着てきた特別なジャージ。
「ありがとう」
彼女は頬を赤く染めながら嬉しそうに笑っていた。
本当に今日は嘘みたいに調子が良い。
今までのスランプはなんだったんだろう。
準決勝も一着通過。しかも予選より速いタイムでさらに自己ベストを更新した。
残すは決勝。日が落ち始め競技場はナイターの照明がつき始めた。
この中を走れるのは勝ち上がってきた選手だけ。
仲間たちはゴールライン付近の観客席に集まっていた。
スタートラインにいつものルーティーンで手をつく。ここまできたんだ。狙うのは一着。
号砲と共に全員が飛び出した。 僕の反応タイミングも完璧だった。
ひたすら真っ直ぐにゴールラインを目指す。
観客のざわめきもしっかり聞こえている。
その中に必死に僕の名前を呼ぶ彼女の声も分かった。
一歩一歩をスパイクを通して感じ、身体が推進力を帯びてどんどん加速していく。
一瞬の勝負。自分の限界への挑戦。わずかな0.0秒差を争う世界。
視界の端が流れて、トラックの白線だけを追いかけていた
しかし、走っている時も、ゴールした時にもはっきりと分かった…。
視界に入る他の選手がいるということは自分よりも前にいるということ。
僕は負けた。 電光掲示板の表示では二着だったが、予選・準決勝・決勝と全て自己ベストを更新して最後の大会が終わった。
嬉しさと悔しさ。
どちらの気持ちも高まっていてスパイクを脱いだ後、しばらく動けなかった。
――3年間終わっちゃったな。
そう思った途端、涙が溢れてきた。この涙は悔しくて出たのか、自己ベストを出した嬉しさなのか、 キツくも楽しかった部活の日々を思い出してなのかよくわからない。
タオルで顔を隠し、収まるのを待ってからみんなの元へと戻ろうとしたその時、
彼女が駆け寄ってきてくれた。
――泣いてたのバレてないかな。
恥ずかしい姿を見られたくなかったから、必死の笑顔を取り繕った。
「お疲れ様」
彼女の満面の笑顔とその一言でまた泣きそうになったが必死に堪える。
彼女の前では笑顔でいたい。
今は隣にいてくれたこと。たくさん応援してくれたこと。全てを彼女に感謝したい。
「ありがとう」
そう言って二人一緒に仲間の元へと戻った。
大会は二日間続き、総合得点で他校をあと少しというところで上回れず、一部昇格の夢は後輩に託し、僕らの夏はここで終わった。
それでも、胸の奥には確かに“やり切った”という熱が残っていた。