第14話 氷川赤坂
「本当か嘘か分かりませぬが、氷川が寝込んでおります」
「氷川って……」
どうやら、オレの言葉で察したのだろう。
「勝海舟先生です。赤坂氷川神社のそばにお住まいでいらしゃるので」
氷川と言えば勝海舟と、基本的なことを教えてくれる喜一さんだ。この人、本質的に真面目で親切だよね。
日本に限らないけど、地名がそのまま人名として使われるよくあって、昭和の日本でも「目白」というと某大物政治家を指していたりする。
「かつかいしゅう……」
何で、そんな大物の名前を喜一が出してくる?
「ご存知ですよね?」
「そりゃ、知らないわけがないけれども、すでに海軍卿を辞めているのでは?」
「さすがです」
言ったまま喜一は、澄み切った目でオレと視線を合わせてきた。
「今、ふたたび国内での大戦が起きそうなことはご承知の通りです。それを回避できるとしたら、お二人の仲を取り持つしかないんです。それができるのは勝海舟先生お一人だけであろうと」
この場合の「お二人」とは西郷隆盛と大久保利通のことだろう。その仲を取り持つのに勝海舟?
確かに西郷隆盛と勝海舟が最後の最後で膝詰め談判をした結果、江戸城無血開城という結果をもたらした。史実でも、本土上陸戦に失敗した「薩摩軍」に対して、最後まで西郷隆盛助命を主張したのも勝だった。
日本一の大風呂敷を広げる能力と胆力を持っていて、なおかつ、細かい努力を重ねる実務を苦手として失敗するという江戸っ子の典型例。
彼のことを読み込んだと言われる、こんな狂歌が残っているほどだ。
「江戸っ子は 五月の鯉の 吹き流し くちさきばかりで 中身無し」
ひどい言われようだが、勝海舟が幕府側にいたからこそ、江戸の町が無事だった。坂本龍馬との師弟コンビも有名だ。
確かに交渉能力や西郷隆盛の立場に理解を示すという点で、政府が派遣したくなる気持ちも分かる。
けれども……
「今、先生は気鬱ということで、一切の訪問を受け付けてくれません。政府から再三の要請があっても応じないらしいのです」
それが本当の情報だとしても、それを喜一が語ることに違和感を覚えた。
「すまないが、喜一さんがなんでそんなことを知っているので? しかも、恐らくそれを治してほしいってことなんだと想像するけどさ。こう言ったらあれだけど、いち警察官がオレみたいなのに、そんな大物の治療を依頼するのって変ですよね?」
喜一さんは、真面目な顔のまま「説明しますね」と懐から小袋を出した。
そこから、そっと箱を取り出した。
「まあ、私はタバコなんて飲みませんし、普段は持ち歩かないんですけどね」
箱には美しい装飾と、家紋が描かれていた。
「葵の御紋!」
この紋を付けるのが許されているのは、徳川一族だけだ。御維新前に、ニセモノがこれを使えば、関係者の首が物理で飛ぶ。
御維新後の今の世だと、一時は「朝敵」とまで言われたため、出すのがはばかられてしまうのが世の常だ。
「私は田安の流れを汲みます。あ、姓は既に捨てましたので、悪しからず。ただ、一族の仕事は今でも脈々と引き継がれております」
つまり、後の世の「公安警察」みたいな役目なのかも。
でも、きな臭いニオイが漂っているんだけどなぁ
「こういう影働きをする人間として、恩を何よりも大事にします。私を、そして周りの人間までも助けてくださった方に大恩のある身です。その方に対して嘘は申せません。そして、起きた結果に対して、全力でお守りすると約束いたします」
サッと履き物を脱ぐと、オレが止める間もなく見事な土下座をされてしまった。
「日の本のため、なにとぞ、お願い申し上げます」
「ちょ、ちょっと、頭を上げてよ。やりにくいでしょ」
「なにとぞ」
「あ~ もう! わかったからさ。ちょっと、ちゃんと話をしましょ?」
パッと顔を上げた喜一は、嬉しげに「ありがとうございます」と床に額を押しつけてから顔を上げた。
あ~ 額に跡が残っているじゃん。
「じゃあ、とにかく、話を聞きましょうか」
「はい。知っている限り、申し上げます」
そこから、いろいろと事情を聞いたオレは、翌朝、暗いうちに家を飛び出していた。
もちろん、兵児帯は持っていかないのである。(不安で頭巾は持って出たけど)
我が家から氷川浅川までは1時間半もあれば余裕で付く。
気が急いた。
脚が一歩前に出るごとに、悲惨な国内戦が一歩遠のく気がして、いつの間にか小走りになっているオレがいたんだ。
※「タバコを飲む」:昔はタバコを吸うことを「飲む」と言いました。ここで出したタバコ入れというのは「キセルと刻みタバコのセット入れた小箱」です
明日から、1日1話 夜の更新となります。




