第6話 猫耳の精霊獣ルナ
ふわりと鼻をくすぐる、獣のような柔らかい匂い。
悠斗は重たいまぶたをゆっくりと持ち上げた。見上げた天井は木の編み目がそのままむき出しの、素朴な作り。壁も床も木材で、どこか懐かしさを覚えるような温もりがあった。
身体を動かそうとして、上半身に巻かれた布の感触に気づく。白い包帯が丁寧に巻かれ、傷の痛みはほとんどなかった。
「……生きてる、のか……?」
小さく呟いたそのときだった。部屋の外から、ふわりと軽い足音が近づいてくる。
タタタ……ピタ。
「おはよう、変な人♡」
ぱっと現れたのは、黒に近い深紫の髪を肩の上でふんわりと跳ねさせた、猫耳の少女だった。額には淡い三日月模様。紫の民族調の衣装が風に揺れ、長い尻尾がきゅるんと艶やかに舞う。
そして――彼女が覗き込んできた瞬間、悠斗の視界を奪ったのは、宝石のようにきらめく琥珀色の瞳だった。にやりと口角を上げるその仕草には、どこか人を試すような悪戯っぽさがあった。
「……おはよう? ……誰?」
「ルナっていうの。この村でいちばん可愛くて、いちばん自由な猫」
ぺろっと舌を出し、無邪気な声でそう名乗った彼女は、自分の尻尾で悠斗のほっぺをそっと撫でる。
「おい、なにすんだよ……」
「だってほっぺぷにぷにしてそうだったから〜」
ルナは嬉しそうに目を細め、そのままくすぐるように尻尾を動かす。
「……やっぱり気持ちいい〜」
悠斗は顔を引きつらせつつ、腕を引こうとした。だが、それより早く、ルナはするりと身を寄せ、ぴとっと腕に体を預けてくる。
「ちょ、近いんだけど……!」
「ん〜? あったかい方が癒されるでしょ。あたし、癒し系なんだよ?」
にゃっと笑うルナ。だがその瞳の奥には、無邪気さだけではない何かが揺れていた。
「ねぇ、君って……人間?」
急に真面目な声色になった。
その問いに、悠斗はほんの少しだけ目を伏せて、肩をすくめた。
「そう、だと思うけど……最近それも怪しくてな」
「ふーん……だったらあたしの好きなほうかも」
意味深な笑みとともに囁くその声には、ほんのわずかに爪先を突き立てるような含みがあった。けれど、次の瞬間にはまた、ふにゃっとした笑顔に戻っている。
「ねぇねぇ、君、名前は? 好きな食べ物は? 寝相はいい? それとも悪い? 夢、見た?」
まるで興味津々の猫のように、ルナの質問は止まらない。
悠斗はそれに答えず、包帯を巻かれた腕を見下ろす。
「……あのさ、これ。誰がやってくれたんだ? 俺、森の中で火のそばにいたはずだけど……」
「あ、それね〜」
ルナは人差し指を立てて、ぴこっと頷く。
「村に着くちょっと前、倒れちゃったんだよ。気ぃ抜けたのかな? すごい熱あったし」
「マジか……」
「でも、ちゃんと寝かして、薬草で冷やして、あたしが包帯巻いたの♡ ほめてほめて〜」
そう言って、得意げにしっぽを立てるルナ。
「……あー、うん。ありがとな」
「えへへ、素直でよろしい〜」
それに答える間もなく、また彼女のしっぽがふわふわと悠斗の首筋を撫でてきて、彼は思わずのけぞった。
(こいつ……絶対ただの猫じゃねぇ……)
そう思ったところで、ふと気づく。
小屋の外から——じっと観察するような、冷たい視線がいくつも注がれていることに。
小屋の扉を開けると、爽やかな木の香りが空気に溶け込んでいた。
背の高い木々が守るように囲む森の中、そこには自然と調和したような村が広がっている。葉で編まれた屋根、苔むした小道、木漏れ日が揺れる水辺。どれも静かで美しく、まるで絵本の世界に迷い込んだかのようだった。
だが——その美しさとは裏腹に、肌に刺さるような視線が、至るところから突き刺さってくる。
「……なんかすげえ見られてるんだけど」
悠斗はぼそっと呟き、ちらりと周囲に目をやる。
遠巻きに見つめているのは、猫耳や兎耳、狐耳の獣人たち。子どもから大人まで、その誰もが「異物」を見るような目で悠斗を見つめていた。
「うん。だって、知らない人間が村にいるなんて、珍しいしね」
前を歩いていたルナが、くるりと振り返って悪びれもせずに言う。
その言葉に、悠斗は思わずため息をついた。
「お前は平気なのかよ? ……っていうか、警戒とかしないの?」
「うーん」
ルナは少しだけ立ち止まり、悠斗を見上げて首を傾げた。
「君が面白そうだから、かな」
そう言って、にこっと笑いながら、彼の袖をくいっと引っ張る。
そのまま先へと歩き出すルナに、悠斗は言葉を失う。
見知らぬ村、知らない種族の中で、唯一無二の距離感を持つこの少女だけが、彼に触れていた。
「それに……嫌いな人には、こんなにくっつかないよ?」
そう囁いた瞬間、ルナはぴたりと悠斗の横に寄り添う。長い尻尾が悠斗の背中を軽く撫で、彼はびくっと肩を跳ねさせた。
「っ……お前な……」
視線を逸らす悠斗の横顔を見て、ルナは口元を押さえてくすくすと笑う。
「ふふっ、照れてる?」
その声には、無邪気なからかいと、どこか試すような響きが混じっていた。
村の空気は、まだ冷たい。だが、その中で唯一ぬくもりのある存在が、彼のすぐ隣にいる。
森の奥へと続く小道は、やわらかな草の絨毯に包まれていた。
高い木々が風に揺れ、木漏れ日がスポットライトのように差し込む中、悠斗はルナに引かれるまま、奥へと歩いていた。
だが、ふとした瞬間。
ルナの足が止まる。
ぴたりと静止し、前を向いたまま何かを感じ取るように鼻をひくつかせる。そのまま、ゆっくりと振り返り、悠斗をまっすぐに見つめた。
その視線は、さっきまでの甘えた猫のそれとはまったく違っていた。細められた瞳は鋭く、まるで悠斗の内側を覗き込むような静けさと深さをたたえていた。
「君さ……ちょっと匂いが違うの」
ルナはぽつりと呟く。
「人間の皮をかぶった、獣みたい」
悠斗は戸惑いを隠せず、眉をひそめる。
「……またそれか。フィオナにも言われた。けど俺にもわかんねぇよ、自分が何なのかなんて」
「ふーん、そういうの、いいね」
ルナはふと唇をつり上げて、意味ありげに笑った。
「でもね、そういう半端なものって——あたしはけっこう好きなの」
すっと歩み寄り、再び悠斗の腕に自分の腕を絡めてくる。今度は猫のように、ぴたりと体を寄せながら。
「ねぇ、君って人間? それとも……ふふっ、あたしの好きなほう?♡」
甘ったるい声。けれどその裏に、どこか張り詰めたものがある。試すような、覗き込むような。それは冗談の形をとった、問いかけだった。
悠斗は答えられず、ただ目を逸らした。
ルナはそれを見て、にやっと笑う。
風がそよぎ、葉がささやく。
ルナの甘えは気まぐれなのか? それとも……何かの導きなのか?
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