第5話 精霊獣の村への逃亡
朝霧が薄れかけた獣道を、数名の獣人たちが無言で進んでいた。
濃い緑に包まれた森は、ところどころに野生の匂いと鳥の声を宿しながら、彼らの足音を飲み込んでいく。
その最後尾。
手首を縄で軽く縛られた悠斗が、名残惜しそうに振り返った。
見えるのは、木々の向こうに広がる——崩れ果てた奴隷市場の跡地。数時間前まで怒号と悲鳴、火の手に包まれていたその場所からは、もう煙ひとつ上がっていなかった。
(あそこが……俺の異世界生活の始まりかよ)
ため息とともに、思考がふっと遠くへ飛ぶ。
——視界が切り替わるように、記憶がフラッシュバックする。
◆◇◆◇
土埃の中、地面に背中から倒れ込んだ悠斗の目の前に、フィオナの短剣が鋭く突きつけられていた。
(終わった……)
そう思った刹那——少女の動きが、唐突に止まった。殺気はあれほどまでに鋭かったのに、今はただ、じっと悠斗を見つめている。
「……今の反応。お前が命じたわけではないな?」
「は? な、何の話……」
息を荒げる悠斗に、フィオナはわずかに目を細めて言った。
「お前が『やめろ』と叫んだ瞬間……周囲の獣人たちが、まるで『王』の命令に従うように動きを止めた」
「……そんなの、俺だって知らねぇよ。こっちはただ、必死だっただけだ」
しばしの沈黙。
やがて、フィオナは剣をゆっくりと鞘に戻した。
「人間としては信用できない。だが、今のお前には……獣の何かが宿っている」
「……え、それ、誉めてんのか……?」
「わからない」
淡々とした声でそう返すと、彼女は背を向ける。
「だが、お前の正体を確かめる必要がある」
そして、振り返りざま、冷ややかに告げた。
「——お前は、私の監視下で精霊獣の隠れ里まで連れて行く」
◆◇◆◇
「……なあ、ずっと黙ってるけどさ。信用はまだゼロってことでいいのか?」
森を進みながら、悠斗は軽い調子で前を歩く少女に声をかけた。
フィオナは返事をせず、そのまま数歩進んでから小さく答えた。
「ゼロではない。『保留』だ」
「……そっか。進歩だな」
思わず笑みが漏れる。たとえその進歩がごくわずかだとしても。
フィオナはちらりと後ろを振り返ると、すぐに前を向いて歩を早めた。
「……話すな。遅れる」
その言葉の裏に、完全な拒絶はなかった。
だから悠斗も何も言わず、その背中を追いかける。
まだ信頼はない。けれど——だからこそ、今この瞬間の行動に意味がある。
その歩みが、やがて「ただの迷い人」と「獣の村」の運命を結びつけていくことになるとは、今はまだ誰も知らない。
深い森の中、踏みならされた獣道を数名の足音がゆっくりと進んでいく。
先頭を行くのは、銀色の髪と狼の耳を持つ少女。そのすぐ背後には悠斗が歩かされていた。彼のさらに後ろを、精霊獣の部下たちが無言で続いている。
拘束は解かれていたが、悠斗は分かっていた。あくまで「監視下の同行者」であることに変わりはない。
前を歩く少女の背は小さいが、気配は鋭く、悠斗の動きを一瞬たりとも見逃さないような緊張感が漂っていた。
静かな空気が満ちていた。風が葉を揺らす音だけが、一定のリズムで森に広がっていく。
そんな空気に押されるようにして、悠斗は前を行くフィオナの背に向かって、ぽつりと声を発した。
「なあ……あんた、名前は?」
一瞬だけ、前を歩くフィオナの肩が揺れる。
「……フィオナ。精霊獣の戦士長だ」
「戦士長、ね……偉い人ってことか」
「任務の指揮を執る立場。余計な上下意識は不要だ」
あくまで冷静な返し。
だが、悠斗はその素っ気なさの裏に、ほんの少しだけ心の扉が開いた気がした。
「精霊獣……やっぱこの世界じゃ、俺みたいな『人間』は敵なのか?」
「敵ではない」
フィオナの返答は早かった。
「だが——信じるには足りない」
歩を緩めずにそう言った彼女の横顔は、真剣そのものだった。その言葉の裏に、何か過去の経験があるのだと、悠斗は直感する。
しばらくの沈黙。
やがて、フィオナが小さく呟いた。
「お前は……時折、獣の匂いがする」
「……それって、褒めてる?」
「判断は、これからだ」
短く、けれどどこか柔らかくなった口調だった。
森の静寂はそのままに。けれど二人の距離感は、ほんのわずかに——けれど確かに、変化している。
静まり返った森に、不意に低く唸るような角笛の音が響いた。
フィオナが立ち止まり、即座に剣を引き抜く。空気がぴんと張り詰め、部下たちが素早く四方に散って周囲を警戒する。
「王国兵……ここまで追ってきたか」
フィオナが唸るように言った次の瞬間、木々の間から飛んできた矢が、悠斗の足元に突き刺さった。
仲間からの「伏せろ!」という叫びと共に、弓を構えた兵士たちが森の中から姿を現す。軽装の斥候部隊か、その数は十数人。
戦士たちが応戦し、刃と刃がぶつかり合う音が響く。だが、数ではこちらが不利だった。包囲され、動きも制限されていく。
悠斗は咄嗟に身を伏せ、木の根の陰に隠れた。だが、背後から草を踏みしめる音が近づいてきたのがわかる。
(やばい……来る!)
振り向いた瞬間、敵兵のひとりが悠斗に向かって剣を振りかぶっていた。反射的に、悠斗は叫ぶ。
「来るなっ……!!」
瞬間だった。
森を駆ける影が、一気に悠斗と敵兵の間に飛び込んだ。牙を剥いた狼獣人の青年が、悠斗を庇うように立ちはだかる。
「なっ……何だ!?」
敵兵が一歩引く。だがそれだけではなかった。
フィオナの部下たち、複数の狼獣人たちが次々と悠斗の周囲に集まり、まるで本能に従うかのように円陣を組み、悠斗を守るように立ったのだ。
敵兵の一人が恐怖に顔を引きつらせる。
「ちょ、待て……あいつ、何者だ!? なんで獣人があんな人間守ってんだよ……!」
攻め手の動きが、一瞬止まる。
フィオナも、悠斗の方へ視線を向けた。その目には、驚きと混乱、そしてわずかな戦慄があった。
「……なんで、お前に反応する……?」
「俺にもわかんねぇよ!」
悠斗は地面に手をつきながら、息を荒げる。
「でも……あのときもそうだった。あの市場で、声を張ったとき……勝手に、身体が……言葉が……!」
まるで自分でも知らなかった何かが、悠斗の中で目を覚まそうとしていた。意志ではない。けれど確かに、群れを導く声が、彼の中から漏れ出していた。
その「何か」に呼応するように、狼たちは牙を剥き、敵へと睨みを利かせる。
森の空気が、再び鋭く張り詰めた。
夜の帳が森を包み、焚き火の淡い橙光だけが、輪の中心を静かに照らしていた。
傷を負った狼獣人たちが火を囲み、無言で傷を癒している。仲間同士の視線のやり取りだけで、言葉は交わされない。それでも、確かな連携と信頼がそこにはあった。
その輪の外れ。フィオナは一人、焚き火の火をじっと見つめていた。背筋を伸ばし、膝に肘を置いたまま動かない。
彼女にしては珍しく、長い沈黙だった。
そのすぐそば、悠斗がぽつりと呟く。
「……さっきの、偶然だったんだ。俺にも、なんであんな風になったのか……」
だがフィオナは返事をしなかった。
炎が揺れ、その光が彼女の横顔を照らす。その瞳は、いつになく鋭さを欠いていた。
ようやく、重い空気を切り裂くように声が落ちる。
「……あの時、あの子たちはお前に『従った』」
「命令じゃない。支配でもない。あれは……本能だ。あの子たちの中に刻まれた、群れの記憶が……お前を『中心』と認識した」
フィオナの声には、わずかに戸惑いが混じっていた。
「そんなこと……今まで、誰にもなかった」
悠斗はその言葉の重さに黙り込む。
火のはぜる音だけが、ふたりの間に落ちる沈黙を埋めていた。
しばらくして、フィオナはゆっくりと彼を見た。金の瞳がまっすぐに射抜くように向けられる。
「お前、何者だ……?」
その問いに、悠斗は言葉を失った。
だが、その目はただの疑念だけではなかった。不安、焦り、そして——希望にも似た光が、そこにはあった。
(俺だって、知りたいよ……自分が何なのか)
悠斗はそう呟きかけたが、声には出さなかった。
焚き火の炎が静かに揺れる。
そしてその先に待つ精霊獣の村へと、夜が深まっていく——。
フィオナの警戒は解けるのか? 村での試練が始まる――!
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