第19話 目覚める声、試される意志
朝の光が、木の編み目から差し込んでいた。
小屋の中、まだ肌寒い空気の中で、小さな寝息がひとつ止まる。
薄く汗ばんだ額。
微かに震えるまつげ――そして、ゆっくりと開かれた金の瞳。
「……おはよ、王様」
その声に、椅子に寄りかかっていた悠斗が、はっと目を開ける。
すぐさま身を乗り出し、顔を覗き込むようにしてルナを見た。
「……目、覚めたのか……!」
ルナはおどけるように笑う。けれど、その声は少しだけ掠れていて、笑顔の奥に疲れと躊躇が混ざっていた。
「起きてるなら……撫でてくれてもよかったのに」
冗談めかした口ぶり。
いつものルナなら、にゃっと笑いながら悠斗に抱きついてきそうなところだ。だが、今は違った。
悠斗は、彼女の額に手を伸ばし、そっと触れた。
熱はまだ完全には引いていない。
「お前、まだ熱……」
「ん、ちょっとだけ。でも……平気。君の声、ちゃんと聞けてるから」
そう言ったルナは、目を伏せて微笑んだ。
その笑みは、確かにルナの笑顔だった――けれど、どこかしおらしく、遠慮がちで……ほんの少し、怯えているようにも見えた。
(……ルナ、お前……)
悠斗は、何も言わなかった。ただ、そっと彼女の手を取って、指先を握る。
「……無理すんなよ。お前は俺にとって……大事な仲間だから」
ルナは何も言わず、目を閉じたまま微かに頷いた。
その睫毛が、ほんの少しだけ濡れていたことに、悠斗は気づかなかったふりをした。
小屋の外では、春を告げる鳥の声が鳴き始めていた。
けれど、その静けさの奥に――確かに、何かが、目を覚まそうとしていた。
朝の霧が晴れ、村の中央――焚き火跡を囲む広場には、既に多くの精霊獣たちが集まっていた。
狼の血を引く者、鹿の角を持つ者、虎のような爪を持つ者。
皆が静かに、年老いた白狼の言葉を待っている。
長老はゆっくりと立ち、片膝をついた悠斗の背を見下ろすように見つめた。
「……時は来た」
その一言に、場がしんと静まる。
「この子は……群れを導く声を持っている。それが善か悪かを見極めるのは、これからだ。だが……今ここに、誰かのために戦った王がいる。それは確かだ」
その言葉と共に、長老の指が悠斗を指し示す。
ざわ……と周囲がざわめいた。
中ほどに立っていた若い狼獣人の男が、戸惑いながらも一歩前に出る。
「……あの時、俺たちは……あんたの声に動かされてた。なんでかわかんねぇけど、体が自然に動いたんだ」
「王」とはまだ呼べずとも、その力を否定できぬという目で、彼は悠斗を見つめていた。
他の若者たちも、ひとり、またひとりと頷き始める。
かつて冷たい視線を向けていた者たちが、今は違う目で彼を見る。
悠斗は戸惑いの中、拳を握りしめる。
背後に感じるルナの気配、そしてフィオナの視線。皆が黙って見守っていた。
長老は再び口を開く。
「……孤立では生き残れぬ。かつてのように、我らが血を混ぜ、知を交わすには……王の名の下に、他の精霊獣の集落と手を結ばねばならぬ」
ざわめきが再び起こる。
「だから、お前に託す。王ではなく――旅人として。声を届け、血を繋げ。精霊獣と人の狭間に立ち続けよ」
悠斗は、静かに頭を垂れた。
迷いは、まだある。けれど――。
(逃げる理由は、もうないんだ)
広場に風が吹いた。
木々の葉が揺れ、村人たちの目が一斉に、ひとりの少年へと向く。
その視線の重さが、確かに彼を試していた。
夜の空気は冷え始め、星々が村の上に静かに瞬いていた。
村の裏手、小さな焚き火の傍。ぱちり、と薪が弾ける音が耳に残るなか、フィオナは一人、剣を膝に置いて黙々と磨いていた。
そこへ、悠斗が歩み寄る。言葉もなく、彼女の隣に腰を下ろし、しばし火を見つめるだけの時間が流れた。
「……明日、出るんだな」
火の揺らぎを映すような声で、フィオナが呟いた。
「うん。俺が声を持ってるなら……届けなきゃいけない場所がある気がする」
悠斗の声も、静かだった。だがその奥には、確かな決意が宿っていた。
「……怖くないのか? 俺がまた、あのときみたいに……暴走するかもしれないのに」
問いかけるような目が、フィオナに向けられる。
フィオナは目を伏せ、そして少しだけ口元を緩めた。
「怖いさ。でも……私は戦士だ。お前に剣を向ける覚悟も、守る覚悟も……両方持っている」
そう言って、彼女は手にしていた剣を鞘ごと悠斗の前に差し出す。
「これは、お前……あなたのために振るう剣。王だからじゃない。……あなただから」
悠斗は目を見開き、だがすぐにそれを伏せ、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとう。心強いよ、フィオナ」
「……礼はいらない。ただ――」
フィオナは立ち上がり、背中越しに振り返る。
「――あなたが前に進む限り、私も背を預けられる女でいたい。だから……生きろ。どんなときも、自分を見失うな」
その声には、強さと、微かな震えが混じっていた。
悠斗はその背中を見つめながら、薪をひとつ、火にくべた。
(俺を支えてくれる人がいる……なら、もう一度、ちゃんと……歩いてみよう)
夜はまだ深い。だがその静けさの向こうに、確かに風が動き始めていた。
炎のゆらぎが映す影は、ただの少年ではない。
誰かに背を預けられ、誰かの手を取れる――そんな王のかたちを、少しずつ、その身に刻みはじめていた。
これは、ひとつの誓いから始まる物語。
まだ知らぬ声が待つ場所へ、彼の旅が、歩を進める。
やがて、その旅の果てに、かつて王と呼ばれた何かと向き合う日が来るとも知らずに。
――そして、その夜明けはすぐそこにあった。
ご一読くださり、ありがとうございました。
物語は閉幕となります。