表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/19

第18話 ルナの傷と記憶の檻

 小屋の中は、静かすぎるほど静かだった。

 遠く、夜の鳥の声だけが、時折短く響いてはすぐに消える。


 寝台に横たわるルナの額には、薄く汗が滲んでいた。

 包帯に覆われた背中の火傷はまだ赤く、じくじくと熱を持っている。息は浅く、規則的ではあるものの、苦しげに揺れていた。


 その傍ら。

 椅子に腰掛けた悠斗は、濡らした布を彼女の額にそっと当て直す。


 この三日間、彼はほとんど眠っていなかった。

 薬草を取りに行き、水を替え、包帯を交換し、そしてずっとルナの名前を呼び続けていた。


「……また勝手に無茶して、勝手に庇って……」


 ぼそりと、誰に聞かせるでもない声が漏れる。


「なのに、いつも笑ってる……。あいつ、何考えてんだよ……」


 ふと目を伏せ、ルナの顔を見つめる。

 起きていたときと同じ無邪気な寝顔が、そこにはあった。だけど今は、それがやけに遠くに感じる。


 悠斗はルナが残した言葉を、何度も思い返していた。


「おやつだの……」


 思わず苦笑が漏れた。

 軽口だと、その時は思った。でも今は。


「……呪いだの……」


 冷や汗が額に滲んだ。

 ふざけていたようで、ふざけきれていなかった。あのときのルナの目は、笑っているようで、どこか……遠くを見ていた。


 ――なぜ、自分にだけあれほど懐いたのか。

 ――なぜ、あんなにも無防備に近づいたのか。


「結局……何が言いたかったんだよ、ルナ……」


 悠斗は小さく息を吐き、椅子にもたれた。

 揺れる焚き火の明かりが、小屋の壁に長い影を落としている。


 ルナの体温はまだ、微かに熱かった。

 だけど、それが生きている証拠だと、悠斗は信じたかった。


 だから――。


「……起きたら、答えてくれよな。今度は……全部、ちゃんと」


 その言葉を、彼女は聞いていない。

 けれど、ふとその指が、ほんの少しだけ動いたように見えたのは、気のせいだったのだろうか。




 木造の小屋に、夜の虫の声が静かに染み込む。寝台に横たわるルナの呼吸は浅く、だが確かに生きている音を刻んでいた。


 その傍らで椅子に腰掛ける悠斗の背に、ふと気配が寄る。戸口に立っていたフィオナが、躊躇いの末に近づき、椅子の背に片手を置いた。


「……少し、話しておきたいことがある」


 その声は、いつもの強さを帯びていなかった。静かで、けれど確かな熱を秘めた声。

 悠斗は、振り返らずに小さく頷いた。


「……ルナはな。昔、人間に飼われていた」

「飼われてた……?」

「番としてじゃない。つがいになる素材として、だ」


 思わず、椅子の肘掛けを握る悠斗の指に力がこもる。

 フィオナの視線は、窓の外――闇に溶ける森の影へと向けられていた。


「……そういう場所が、王国にはあった。精霊獣の血筋を得るための施設。外から見れば立派な研究所、でも中身は――繁殖の工房だった」

「……素材って……。人だぞ……あいつは……!」


 震える声で呟いた悠斗の横顔を見て、フィオナは小さく首を振る。


「人間にとって、精霊獣は道具だった。能力があればそれでいい。魔力さえ使えれば、心なんていらない……ってな」

「そんなの……」


 言葉が詰まり、喉の奥でかすれた音になる。

 ルナがふざけて笑った「おやつ」の言葉が、胸に突き刺さった。

 自分の体を差し出しても、傷つけられても、軽口で誤魔化して。それでも――あいつは笑っていた。


「ルナは……笑ってたんだ、ずっと」


 フィオナは答えず、ただルナの寝顔を見つめた。その横顔には、微かな罪悪感とも言える翳りがあった。


「彼女は、ああしてしか生き延びる方法を知らなかったんだ。無邪気に見せることで、誰かの手の中にいることで――自分が壊れ物じゃないふりを、してた」


 火照る額に乗せられた布が、わずかに湿っていた。その冷たさすら、ルナは気づいていない。


「……だから、今は違うって、教えてやってくれ。この場所も、お前も、あいつを道具じゃなくて――仲間として見てるって」


 それだけ言って、フィオナは椅子から手を離した。

 歩き去る背を見送りながら、悠斗はふと、ルナの指先がわずかに動いたのを見た気がした。


 まるで――何かに、応えようとするかのように。




 夜の静寂が、小屋の中に柔らかく降りていた。

 窓の外では、虫の声が細く鳴いている。


 寝台の上、ルナの呼吸はようやく落ち着いていたが、顔にはまだ苦しげな色が残っていた。

 その耳先――ふわりとした黒い毛並みが、時折ぴくりと震えている。


 悠斗は椅子から身を乗り出し、そっと指を伸ばす。

 あの耳に触れるのは、久しぶりな気がした。

 甘えたように擦り寄ってきた日々が、まるで遠い夢のように思える。


 指先が、柔らかな毛並みに沈む。

 撫でるように、優しく、耳の根元をなぞった。


「……うん……ふふ……」


 かすかに、寝言のような声が洩れる。


 その瞬間、ルナの耳がふるりと震えた。

 そして――微かに開いた唇から、はっきりとした言葉がこぼれ落ちる。


「……ねぇ……また、君の声……聞けて……よかった……」


 その声は、まるで夢の中で誰かと話しているような響きだった。

 けれど、確かに――届いていた。


 悠斗は息を呑み、手を止める。

 そのまま、顔を近づけ、そっと囁いた。


「……そっか。俺の声……届いてたんだな」


 答えはなかった。けれど、耳の奥が小さく動いた。

 まるで返事をするように。


 火傷の痕を抱えたまま、ルナは眠り続けている。

 けれどその寝顔に、ほんの少し――安らぎが宿っていた。




 夜明け前の空は、まだ深く青かった。

 無数の星が、名もなく瞬いている。

 村の外れ、小さな丘の上――悠斗は一人、立っていた。


 冷たい空気が肌をなぞる。吐く息は白く、拳を握る手がわずかに震えていた。

 それでも、その目はまっすぐに、夜の果てを見据えていた。


 ルナの寝顔が脳裏をよぎる。

 あの耳のぬくもり。

 夢の中でこぼれた言葉――「君の声、聞けてよかった」。


(あいつ……俺の力なんかじゃなく、俺自身を見てくれてた。王だからじゃない。誰かを従わせる器だからでもない)


 そう気づいたとき、胸の奥で何かが静かに灯る。


「……もう誰も……モノみたいに扱わせない」


 声は低く、けれど確かな熱を宿していた。


「精霊獣でも、番でも、関係ねぇ……俺の仲間は――俺が守る」


 ぎゅっと拳を握りしめる。

 それは、誰かに誓うためでも、誰かに証明するためでもない。


 自分自身が、逃げないための言葉だった。


 空の端に、少しずつ光が差しはじめる。

 星々が淡く消え、朝が、また始まろうとしていた。


 ――そして、ルナの眠りの奥に潜む正体が、静かに目覚めを待っていた。

ご一読くださり、ありがとうございました。

続きが気になる方は是非ブックマーク登録を

お願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ