第18話 ルナの傷と記憶の檻
小屋の中は、静かすぎるほど静かだった。
遠く、夜の鳥の声だけが、時折短く響いてはすぐに消える。
寝台に横たわるルナの額には、薄く汗が滲んでいた。
包帯に覆われた背中の火傷はまだ赤く、じくじくと熱を持っている。息は浅く、規則的ではあるものの、苦しげに揺れていた。
その傍ら。
椅子に腰掛けた悠斗は、濡らした布を彼女の額にそっと当て直す。
この三日間、彼はほとんど眠っていなかった。
薬草を取りに行き、水を替え、包帯を交換し、そしてずっとルナの名前を呼び続けていた。
「……また勝手に無茶して、勝手に庇って……」
ぼそりと、誰に聞かせるでもない声が漏れる。
「なのに、いつも笑ってる……。あいつ、何考えてんだよ……」
ふと目を伏せ、ルナの顔を見つめる。
起きていたときと同じ無邪気な寝顔が、そこにはあった。だけど今は、それがやけに遠くに感じる。
悠斗はルナが残した言葉を、何度も思い返していた。
「おやつだの……」
思わず苦笑が漏れた。
軽口だと、その時は思った。でも今は。
「……呪いだの……」
冷や汗が額に滲んだ。
ふざけていたようで、ふざけきれていなかった。あのときのルナの目は、笑っているようで、どこか……遠くを見ていた。
――なぜ、自分にだけあれほど懐いたのか。
――なぜ、あんなにも無防備に近づいたのか。
「結局……何が言いたかったんだよ、ルナ……」
悠斗は小さく息を吐き、椅子にもたれた。
揺れる焚き火の明かりが、小屋の壁に長い影を落としている。
ルナの体温はまだ、微かに熱かった。
だけど、それが生きている証拠だと、悠斗は信じたかった。
だから――。
「……起きたら、答えてくれよな。今度は……全部、ちゃんと」
その言葉を、彼女は聞いていない。
けれど、ふとその指が、ほんの少しだけ動いたように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
木造の小屋に、夜の虫の声が静かに染み込む。寝台に横たわるルナの呼吸は浅く、だが確かに生きている音を刻んでいた。
その傍らで椅子に腰掛ける悠斗の背に、ふと気配が寄る。戸口に立っていたフィオナが、躊躇いの末に近づき、椅子の背に片手を置いた。
「……少し、話しておきたいことがある」
その声は、いつもの強さを帯びていなかった。静かで、けれど確かな熱を秘めた声。
悠斗は、振り返らずに小さく頷いた。
「……ルナはな。昔、人間に飼われていた」
「飼われてた……?」
「番としてじゃない。番になる素材として、だ」
思わず、椅子の肘掛けを握る悠斗の指に力がこもる。
フィオナの視線は、窓の外――闇に溶ける森の影へと向けられていた。
「……そういう場所が、王国にはあった。精霊獣の血筋を得るための施設。外から見れば立派な研究所、でも中身は――繁殖の工房だった」
「……素材って……。人だぞ……あいつは……!」
震える声で呟いた悠斗の横顔を見て、フィオナは小さく首を振る。
「人間にとって、精霊獣は道具だった。能力があればそれでいい。魔力さえ使えれば、心なんていらない……ってな」
「そんなの……」
言葉が詰まり、喉の奥でかすれた音になる。
ルナがふざけて笑った「おやつ」の言葉が、胸に突き刺さった。
自分の体を差し出しても、傷つけられても、軽口で誤魔化して。それでも――あいつは笑っていた。
「ルナは……笑ってたんだ、ずっと」
フィオナは答えず、ただルナの寝顔を見つめた。その横顔には、微かな罪悪感とも言える翳りがあった。
「彼女は、ああしてしか生き延びる方法を知らなかったんだ。無邪気に見せることで、誰かの手の中にいることで――自分が壊れ物じゃないふりを、してた」
火照る額に乗せられた布が、わずかに湿っていた。その冷たさすら、ルナは気づいていない。
「……だから、今は違うって、教えてやってくれ。この場所も、お前も、あいつを道具じゃなくて――仲間として見てるって」
それだけ言って、フィオナは椅子から手を離した。
歩き去る背を見送りながら、悠斗はふと、ルナの指先がわずかに動いたのを見た気がした。
まるで――何かに、応えようとするかのように。
夜の静寂が、小屋の中に柔らかく降りていた。
窓の外では、虫の声が細く鳴いている。
寝台の上、ルナの呼吸はようやく落ち着いていたが、顔にはまだ苦しげな色が残っていた。
その耳先――ふわりとした黒い毛並みが、時折ぴくりと震えている。
悠斗は椅子から身を乗り出し、そっと指を伸ばす。
あの耳に触れるのは、久しぶりな気がした。
甘えたように擦り寄ってきた日々が、まるで遠い夢のように思える。
指先が、柔らかな毛並みに沈む。
撫でるように、優しく、耳の根元をなぞった。
「……うん……ふふ……」
かすかに、寝言のような声が洩れる。
その瞬間、ルナの耳がふるりと震えた。
そして――微かに開いた唇から、はっきりとした言葉がこぼれ落ちる。
「……ねぇ……また、君の声……聞けて……よかった……」
その声は、まるで夢の中で誰かと話しているような響きだった。
けれど、確かに――届いていた。
悠斗は息を呑み、手を止める。
そのまま、顔を近づけ、そっと囁いた。
「……そっか。俺の声……届いてたんだな」
答えはなかった。けれど、耳の奥が小さく動いた。
まるで返事をするように。
火傷の痕を抱えたまま、ルナは眠り続けている。
けれどその寝顔に、ほんの少し――安らぎが宿っていた。
夜明け前の空は、まだ深く青かった。
無数の星が、名もなく瞬いている。
村の外れ、小さな丘の上――悠斗は一人、立っていた。
冷たい空気が肌をなぞる。吐く息は白く、拳を握る手がわずかに震えていた。
それでも、その目はまっすぐに、夜の果てを見据えていた。
ルナの寝顔が脳裏をよぎる。
あの耳のぬくもり。
夢の中でこぼれた言葉――「君の声、聞けてよかった」。
(あいつ……俺の力なんかじゃなく、俺自身を見てくれてた。王だからじゃない。誰かを従わせる器だからでもない)
そう気づいたとき、胸の奥で何かが静かに灯る。
「……もう誰も……モノみたいに扱わせない」
声は低く、けれど確かな熱を宿していた。
「精霊獣でも、番でも、関係ねぇ……俺の仲間は――俺が守る」
ぎゅっと拳を握りしめる。
それは、誰かに誓うためでも、誰かに証明するためでもない。
自分自身が、逃げないための言葉だった。
空の端に、少しずつ光が差しはじめる。
星々が淡く消え、朝が、また始まろうとしていた。
――そして、ルナの眠りの奥に潜む正体が、静かに目覚めを待っていた。
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