第17話 森を焦がす赤い影
朝靄が薄く森を包み、静けさが村の外れにも漂っていた。
見回りをしていた若い狼の斥候が、耳をぴくりと動かす。
その瞬間――。
ゴウッ!
突如、地鳴りと共に紅蓮の爆風が森を貫いた。木々が爆ぜ、土が吹き飛び、熱風が辺り一帯を包み込む。
斥候が目を見開いた瞬間、炎の中心にそれは現れた。
焦げた大地に立つ、長身の男。燃えるような赤髪が逆立ち、逆光の中でも明確に見える金の双眸。耳は獣のもの。尻尾もある。だが、その立ち姿には野性ではなく、研ぎ澄まされた「意志」があった。
男はゆっくりと視線を上げ、村の奥へ目を向ける。
「……王の気配を追ってきたら、この村に辿り着いた」
その声は、驚くほど静かで、だからこそ不気味だった。
「生まれる前に、殺しておく」
火の獣人が一歩を踏み出すたびに、足元の草が燃え、灰に変わっていく。
斥候の背に冷たい汗が流れる。
「て、敵襲――! 燃えるような……魔力、いや……これは……!!」
爆風の余波がまだ木々を揺らしている。だが、斥候はそれ以上声を発することができなかった。
――王の器を殺す。
そのためだけにやってきた、災厄のような獣人の影が、静かに村へ向かって歩き始めた。
轟音を引き裂くように、空を這う火球が悠斗の眼前へと迫る。
――ギィンッ!
金属の鳴る音と共に、熱の塊が弾かれた。
その軌道を逸らしたのは、白銀の剣。
「下がれ、悠斗!」
凛とした声と共に、フィオナがその身を割って入る。
剣の切っ先から白煙が立ち昇り、熱の名残が剣身に焼きついていた。
「……あいつは、ただの野盗じゃない!」
言葉と同時に、背後から風が巻き起こる。
ゴォッ……!
爆風が再び押し寄せる直前、宙にふわりと揺れた黒い影が、その爆圧を裂くように魔力の風を放った。
ルナだった。
紫の衣が揺れ、猫の尻尾がふわりと跳ねる。
「この熱……普通じゃない。でも、あたしが焦げる前に、やるよ」
ルナの目は、いつもの無邪気さを潜ませながらも、芯の奥に鋭い光を宿していた。
「王様が泣くのは見たくないからね」
風の刃が次々と火の弾を裂き、フィオナの剣がその間を縫うように敵へと迫る。
だが――。
「……面白い」
火の獣人の口元が、かすかに歪んだ。
次の瞬間、足元から噴き出すように火柱が広がる。
――その火は、熱量だけでなく、質が違った。空気が焦げ、風さえも焼かれそうになる。
フィオナの剣筋がわずかに乱れ、ルナの額に汗が滲む。
連携は完璧、それでも力の差は否応なく重くのしかかる。
それでも、二人は悠斗の前にいた。
守るべき王の器を背に、彼女たちは一歩も退かずに立ち向かっていた。
――唸りを上げる熱風が、戦場を切り裂いた。
火の獣人が腕を振るった瞬間、空気そのものが刃となり、赤い炎の鎌が放たれる。
それは一直線に、悠斗へ――。
バシュンッ――!
「悠斗!!」
フィオナの叫びよりも早く、ルナの影が滑り込むように動いた。
悠斗の目の前に、ふわりと浮かぶ黒い尾。そして、その細い背が、悠斗を庇うように立ちはだかる。
次の瞬間――。
ズシャッ……ッ!
火の鎌がルナの背中を裂いた。焼けつくような音と共に、紅い布が焦げ、肌が赤く染まる。
「ルナ――ッ!!」
悠斗の叫びが響く中、ルナの身体がゆらりと傾ぐ。
すぐに駆け寄ったフィオナが、彼女の身体を抱きとめるように支える。
「っ……あつ……い、けど……」
ルナは、苦しげな息を吐きながらも、笑っていた。
小さく、弱々しい――けれど確かに、いつものような笑みで。
「君、生きてるでしょ……なら……いいや」
その声に、悠斗の拳が震えた。
「ふざけんなよ……なんでお前が……っ!」
叫びは自分に向けたものだった。
守るべき相手を、また――目の前で、守れなかった。
胸の奥で、何かが軋んだ。怒りと後悔と、暴れ出しそうな黒い熱。
だが――。
ルナの笑顔が、それを押しとどめる。小さな傷だらけの体で、彼女は確かに、悠斗を生かすことを選んだ。
その事実が、今の悠斗の中の獣を鎖で繋ぎ止めていた。
焦げた土と、炭のような空気が戦場を満たす。
火の獣人――赤い髪と耳を揺らすその男は、ふいに動きを止めた。
悠斗は、まだ震える拳を握りしめたまま立ち尽くしていた。
その身体の奥で何かが蠢き、噴き出しかけていた力は、しかし、男の冷たい視線に釘を刺されたかのように、ピタリと動きを止める。
獣人の男は、すっと歩み寄る。
その赤い瞳が、悠斗の額を見つめた。まるでそこに、何か別のものがあるかのように。
「……黒猫の器、か」
ぽつりと漏れたその声は、炎の熱にも似ず、凍えるほど冷たかった。
「未熟すぎる。あれを御すには……まだ己すら持っていないようだな」
悠斗は目を見開く。
「あれ……って、ミオスのことか……?」
男はくすりと笑った。その笑みにこそ、炎よりも危うい熱が宿っていた。
「反逆者にしては、良い器を選んだな――黒猫」
言葉の意味が呑み込めぬまま、悠斗が踏み出そうとした、その瞬間。
ボゥッ――!
地面が燃え上がる。烈火の柱が男の姿を包み、そして……掻き消すように消えた。
その場に残されたのは、焦げた足跡ひとつと、焼け焦げた風だけ。
――まるで、幻だったかのように。
悠斗はしばらくその場に立ち尽くしていた。掌の中、まだ震えているのは、自分の力なのか、それとも――あの言葉の重みなのか。
夜の帳が降りた村の片隅。焚き火の明かりは落とされ、仄かな月光だけが静かに差し込んでいた。
簡素な寝床の上、ルナは丸まるようにして眠っていた。白い布で巻かれた背中の火傷はまだ赤く滲んでおり、時折苦しげに眉を寄せる。
そのすぐ傍ら、悠斗は黙って膝を抱えていた。
拳を握る手が震えている。その理由が怒りなのか、恐怖なのか、それとも――己への無力さか。本人にももう、はっきりとはわからなかった。
耳に残っているのは、あの男の最後の声。
「黒猫の器、か。未熟すぎる」
「反逆者にしては、良い器を選んだな――黒猫」
それがミオスのことなら。なぜ反逆者などと呼ばれたのか。そして――そんな存在の器である自分は、いったい何なのか。
ルナの浅い呼吸が、静寂の中でやけに大きく感じられる。
悠斗は、かすれた声で呟いた。
「……ミオス、お前は……何を隠してる……?」
俯いたまま、己の膝に視線を落とす。
「反逆者って……どういう意味だよ」
胸の奥がじくじくと疼いた。まるで、答えを知る前から――その真実が、痛みと共にあると予感していたかのように。
静かな風が、ルナの深紫色の髪をひと房だけ揺らした。
彼女はまだ、目を覚まさない。
悠斗はそっとその髪を直し、深く、ゆっくりと息を吐いた。
ミオスの影。
ルナの沈黙。
そして、黒猫の器という名。
それらが、ひとつの形を取り始めようとしていた。
黒猫は敵なのか、味方なのか――。答えが明かされる日は、近い。
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