第16話 ルナの拒絶と黒猫の残響
夕暮れの色が村に落ち、焚き火の炎が再び広場の中央に灯る。
そのまわりでは、戦の疲れを癒すように、精霊獣たちが静かに食事を囲んでいた。焼かれた肉の香ばしい匂いが漂い、ささやかな笑い声も聞こえる。
だが、そんな中ひとりだけ違う空気を纏った影があった。
木陰の下。焚き火の明かりから少し離れた場所で、ルナが地面に尻尾をくるんと巻いて座っていた。いつもなら当然のように悠斗の隣に現れ、膝に乗る勢いで距離を詰めてきた彼女が、今日はまるで最初からここにいないかのように静かだった。
「……ルナ?」
肉の串を持ったまま、悠斗がそっと声をかける。だが彼女は動かない。焚き火の火花を遠巻きに眺めるだけで、その表情はいつもよりずっと——静かで、遠かった。
思い切って立ち上がり、彼女に近づく。
「今日、なんか……冷たくないか?」
ルナは顔を向けた。ふわりと笑みを浮かべる。いつもと同じように見えた——けれど、その目だけが違っていた。柔らかく微笑む唇に反して、紫の瞳は冷たく澄みきっていた。まるで感情を閉ざした、磨かれたガラスのように。
「ふふ、そうかな。今日はちょっと……おやつ気分じゃないだけだよ」
くすりと笑うその声音すらも、どこか他人のもののようだった。
悠斗は何かを言いかけたが、言葉が出なかった。ルナはそれを察してか、そっと目を伏せて一言だけ付け加える。
「だから……今日は、ね。番にならなくていいの。いい子にしてて」
悠斗はその場に立ち尽くす。胸の奥に、言葉にならない違和感がじわりと広がっていく。
(ルナ……何を考えてるんだよ。いつものお前なら、こんな……)
焚き火の灯りが、届かない場所。
そこに佇むルナの影が、まるで何かを隠しているかのように、夜の闇へと溶けていった。
夜の帳が村を包み、焚き火の灯だけが微かに地面を照らしていた。
その前に、悠斗は一人、膝を抱えるようにして座っていた。周囲の喧騒はすでに落ち着き、静寂が森の隅々にまで広がっている。
火の揺らめきが、彼の頬に赤い影を落とす。だが、その目は虚ろだった。
(……怖い)
心の奥で、誰にも聞かせられない声がうずくまっていた。
昨日の戦場。敵が迫る中、叫びを上げた瞬間——狼たちが動いた。仲間が苦しみ、味方同士が牙を向けあった。あの時、自分の中で何かが外れた。
「……俺……あの時、自分じゃなかった」
ぽつりと呟く声は、夜風に紛れて消えていく。
「声が勝手に出て……気づいたら、誰かの感情が流れ込んでくるみたいで……怒りとか、痛みとか、嗅いだことのない匂いが頭にこびりついて……」
指が震え、火の熱を忘れた手が、自分の胸をぎゅっと握る。
「ミオス……お前の力なのか? それとも……」
声が詰まる。
あの黒い気配。仲間たちの目が、赤く染まり、理性を失っていった光景。止めたくても止められなかった自分の声。あれは本当に、自分の意志だったのか?
「……俺自身が、壊れかけてるのか……」
答えは返ってこない。ミオスも、誰も、今は沈黙の中にいる。
ただ焚き火が、静かにぱち、と音を立てた。その音はまるで、「まだ終わっていない」と告げる鐘のように——悠斗の耳に、深く残った。
視界がゆっくりと暗転していく。まるで足元の世界が溶けるように、悠斗は意識の奥底へと沈み込んだ。
気がつけば、足元は石畳。冷たい光に包まれた白い夢の回廊が、どこまでも伸びている。壁も天井もない。ただ、虚空に浮かぶ一本道。
その中心、漆黒の毛並みを持つ猫がひとつ、悠然と座っていた。
ミオス——。
気配は間違いなかった。黒猫の形を取りながらも、その背中からは圧倒的な存在感がにじみ出ている。
「……答えろ、ミオス」
悠斗が一歩踏み出す。声に焦りが滲む。
「あれは、お前の力か? 俺が仲間を狂わせたあの声……」
黒猫はしばらく黙ったまま、じっと何かを見つめていた。ようやく尻尾をゆらりと揺らし、気怠げに言葉を返す。
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える」
悠斗の顔が歪んだ。
「……ふざけるな……!」
その叫びに、ミオスがようやく振り返る。金の瞳が、夜のように深い紅へと変わっていた。
その瞳が、まっすぐ悠斗を射抜く。
「お前の中に棲むのは、俺だけじゃない」
「……は?」
思わず息を呑む。意味を問い返そうとしたその瞬間、ミオスの声が静かに落ちる。
「けれど、それを知るには……まだ壊れてないとな」
「っ、何のことだ……!」
悠斗の言葉は、虚空に吸い込まれた。
次の瞬間——視界が白く弾ける。足元が崩れ、全てが音もなく消えていく。
その夢の最果てで、最後に聞こえたのは、猫の笑い声だった。
――「楽しみにしてるよ、王候補クン」
朝靄が薄く村を包み、遠くから鳥のさえずりが聞こえてくる。
悠斗はふいに目を開け、額に滲んだ汗を拭うように手を当てた。
寝床の周囲はまだ静まり返っている。誰の気配もない。隣の敷布には温もりすら残っていなかった。
「……また、夢かよ……」
ぼそりと呟いて身を起こそうとしたそのとき、視線が自然と胸元に落ちた。
そこに、ひと筋――。艶のある漆黒の毛が、しなやかに落ちていた。
ゆっくりと指先でつまむ。柔らかく、まるで生きているような微かな感触が、指の腹に残った。
「……夢、だよな。あれは……」
震えるように毛を握りしめ、目を伏せる。
「……でも、なんで……これが、ここにあるんだよ……」
風がすっと吹き抜け、木の葉を揺らした。それはまるで、誰かが背後で笑ったような、幻の気配。
悠斗の中にいる誰か。それが、自分自身ではないと知るには――もう少し、時間がかかりそうだった。
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