第15話 暴走する力とフィオナの想い
森の外縁。
焚き尽くされた木々からなおも立ち上る煙の中、焼け焦げた葉が風に舞っていた。血と鉄の匂いが立ちこめる戦場には、今や兵の叫び声もなく、ただ沈黙だけが残っている。
倒れた旗印の傍らで、王国騎士の残党が足を引きずりながら撤退していた。その中心——黒鉄の鎧を纏う男、ギュスターヴは、兜の割れ目から血を滲ませながら、唇を噛みしめる。
彼の前に立ちはだかるのは、狼たちに守られるようにして立つ少年と、傷に塗れた剣を片手に構える少女。
悠斗は息を切らしながらも、凛とした目をギュスターヴに向けていた。
一歩も退かぬ意思が、声に宿る。
「バケモノはお前らだ……。言葉も届かず、ただ殺すことを正義と叫ぶその姿が、一番おぞましい……!」
フィオナは無言で前に出る。剣の切っ先がわずかに揺れながら、鋭く構え直される。
「下がれ。……これ以上進めば、命はないと思え」
ギュスターヴは忌々しげに息を吐き、盾を剣の柄で叩いた。その音が合図のように、残兵たちは森の中へと退き始める。
「覚えていろ……貴様らなど、いずれ神の光に焼かれる……!」
捨て台詞だけを残し、彼らは敗残の影として森の奥へと姿を消した。
静寂が訪れる。風が戦の残り香を運ぶ中、悠斗の膝がわずかに震えた。彼はまだ剣を握っていたが、その手には戦いの熱より、別のものが残っていた。
恐れ。
怒り。
そして——心の奥底に生まれつつある、得体の知れない何か。
(……この力は……なんなんだ……)
少年の胸の奥で、かすかに何かが脈動していた。
王国軍が森の奥へと消え、戦場にようやく静寂が戻った。
焦げた木々の匂いと血の臭いがまだ残るその中で、悠斗はひとり、地面に膝をついていた。深く、荒く、苦しげな呼吸。胸の奥で何かが暴れ出すような不快感が、全身を駆け巡っていた。
「っ……やめろ……もう、いいだろ……動くなって……言ってるだろ……っ!」
誰に向けた言葉なのか。
それは目の前にいる者たちにではない。
——悠斗の中にある、何かだった。
黒い気配が、彼の足元からにじむように広がっていく。
煙のように、影のように。
それは空気を震わせ、重く、刺すような圧を纏っていた。
「う……ああ、頭が……っ!」
最初に声を上げたのは、近くにいた若い獣人だった。
頭を抱え、苦しげに唸る。
「暴れるな! お前まで理性を……っ!」
続いてもう一人、狼の獣人が叫ぶ。
その目は赤く染まり、牙を剥き出しにして、隣の仲間に襲いかかろうとしていた。
「やめろ!! やめろってば……!」
悠斗の叫びが、混乱の中心で木霊する。
だがその声すら、黒い気配をさらに刺激した。
獣人たちは次々に顔を歪め、咆哮し、理性を失っていく。
つい先ほどまで仲間として戦っていた者たちが、今や敵になりかけていた。
そしてその発端にいたのは——悠斗、その人だった。
彼の瞳が、一瞬、深く濁った色を灯す。光でも闇でもない、禍々しい渦のような色。
(俺は……また……)
自身の力に、恐れが生まれかけた瞬間だった。
歯を食いしばり、両膝をつく悠斗の背から、なおも黒い気配があふれ出していた。その濁流に飲まれ、獣人たちの咆哮はますます激しくなる。
牙がきらめき、爪が土を裂き、次の瞬間には仲間同士で喰らい合いかねない——。
その一歩手前で、鋭い金属音が鳴り響いた。
——キィン!
「止まれ、悠斗」
その声は、鋼よりも強く。燃える風よりもまっすぐだった。
悠斗が顔を上げると、そこには一振りの剣。
そして、その剣を自分の目前に突きつけている少女——フィオナが立っていた。金色の瞳が、真っ直ぐに悠斗を射抜いていた。
怖れてなどいない。怒ってもいない。ただ、信じていた。
「お前の声が、仲間を狂わせている」
「……俺、そんなつもりじゃ……っ! やめたいのに……止め方がわかんない……!」
肩で息をしながら叫ぶ悠斗に、フィオナは剣を握ったまま、ひと歩だけ前へ出る。
そして、そっと——その手を伸ばした。
すっと触れたのは、悠斗の胸。鼓動の中心。
暴れ狂うように脈打っていた心臓の、その上。
「なら、私が止める。何度でも。お前が王としてじゃなく、悠斗として……帰ってこられるように」
その言葉と同時に、フィオナの剣が地に落ちた。
がしゃん、と音を立てて転がる刃のかわりに、彼女の手がしっかりと悠斗の肩を掴んでいた。
ただの戦士として、ただの仲間として。
「私は戦士だ。仲間を守る。それが私の誇りだ。……その中には、お前も入ってる」
胸の奥で、暴れていた何かが、ゆっくりと静まっていく。
悠斗は、肩で息をしながら——ただ、目を閉じた。
フィオナの手の重みが、確かに彼を人間として繋ぎとめていた。
(……ありがとう)
言葉にはならなかったが、確かにその想いは、彼女の掌に届いていた。
パチ……パチ……と、静かに火が燃える音がする。
夜の空気はひんやりとしていて、森の中の戦いの余韻を、まるで何事もなかったかのように包み隠していた。
悠斗は、硬い地面に敷かれた毛皮の上でゆっくりと目を開けた。視界の端に、焚き火の橙がゆらめき、火を見つめる誰かの背中が見える。
「……フィオナ」
そう呼ぶと、焚き火の向こう側で、彼女の肩がわずかに動いた。
フィオナは静かに振り返る。火に照らされた金の瞳が、確かに彼を見ていた。
「目が覚めたか」
彼女の声は、いつものように冷たくも硬くもなかった。ただ、静かだった。
悠斗はゆっくりと上体を起こし、右手に視線を落とす。そこには、うっすらと黒い紋様——まるで焼き印のように浮かぶ模様が刻まれていた。
けれどフィオナは、それには触れようとしなかった。ただ、彼の顔を見ていた。
「……フィオナ。俺……暴れてた、よな」
「ああ。でも、止まった。私が止めた。だから、それでいい」
迷いのない返答だった。けれど、その声音には、どこか揺らぎのようなものがあった。
少しの沈黙。焚き火の音が、それを埋める。
「……怖かったか?」
悠斗の問いに、フィオナは一度だけ目を伏せてから、正直に答えた。
「ああ、怖かった。お前が……消えそうだったからな」
それきり、彼女は何も言わずに立ち上がった。背を向けたまま、焚き火の光を背に受けて、小さく一言だけ。
「だから、勝手にいなくなるな。王になんて、まだ早い」
その背中に、悠斗は何も言えなかった。ただ、その言葉が自分の胸の奥に、温かくしみこんでくるのを感じていた。
炎の揺らめきが、ふたりの影を長く地面に伸ばす。
そしてその距離は、少しだけ——確かに、近づいていた。
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