鄢陵の戦い
そして前五七五年。
運命の年が訪れた。
間違いなく、熊審の治世においてもっとも波乱に満ち、その命運を危うくした一年である。
この年の春、鄭はまた楚と盟を交わした。
晋は鄭を咎めるために出兵した。盟を交わした以上、楚は鄭を守るために兵を出さなければならない。楚には中軍があり、左軍と右軍がその両翼のようにある。この時の楚の陣容は、
中軍 子反
右軍 子辛
左軍 子重
というものである。
熊審は王なのでもちろん中軍にいる。
子辛は公子とされるが、熊審の叔父なのか兄弟なのかはっきりとしない。
六月に、晋楚の大戦が始まった。会戦の地は鄢陵という場所である。
晋と楚の軍は激しく争った。
乱戦となり、その最中に熊審は片目を射抜かれてしまった。それでも死にはいたらず、それどころか楚国屈指の弓の名手に二矢を与えて、自分を射た者を倒すように命じた。その射手は果たして、一矢で王命を果たし、残る一本の矢を持ち帰って熊審に復命した。
この射手は、本邦において平安時代に源頼政の夢に現れ、弓矢を託したという伝説が残る養由基である。
養由基の射術にて晋に対して一矢報いることは叶った。しかし、敗戦には違いない。
楚は兵を纏めて少し下がった。
晋は、わが軍は意気を高め気力を養い、明日また戦に挑むと楚の捕虜に吹聴した上でわざとこれを放した。熊審はこれを聞いて子反と向後の対策を講じようと呼びつけた。
しかしこの時、子反は酩酊しており、熊審の招きに応じることができなかったのである。
熊審は、もはや勝ち目のないことを悟った。
――やはり私に、父のような武威はない。
避けてはならぬ戦であったが、しかし必死になって挑んだところで成果が得られるとは限らない。
かつて荘王が邲で晋を倒して得た遺徳が、今日まで楚をかろうじて存続させていたが、鄢陵の敗戦で父の威光は完全に消え失せたのではないかという気になって、熊審を覆うかげはいよいよ、朔日の山道のような闇となってその心を呑み込む。
こうして見れば、それまでは逃れえぬと思っていた大鳥のかげが、実は死してなお国を守っていた天蓋のようにも感じられた。悲壮しかもたらさぬと思っていたかげが、今は無性に恋しい。
暗闇の中で熊審は、撤退すると決めた。
負けた自分は不徳であるが、勝ち目のない戦を続けてやおら死者を増やすのは大愚である。
熊審は全軍が撤退し、瑕の地まで来ると人をやって子反に伝えた。
「かつて子玉が晋に敗れた時には国君は出陣していなかった。此度は国君が出陣している。ゆえに、この敗戦の咎は貴方にない。すべて不穀の罪である」
子玉とは熊審の曽祖父、成王に仕えた将軍である。この時代にも晋楚の大戦があり、成王は晋との戦いを避けようとしたのだが子玉は交戦を主張した。そこで成王は子玉に一軍を与えたのだが、果たして子玉は惨敗した。
その後、子玉は責任を取って自殺したのである。
熊審はそのことを知っていたので、子反が責任を負わぬように敢えてそう伝えさせた。敗戦の責を自分一人で背負おうとしたのである。
しかし子反は、王の軍を預かりながら敗走させたことは自分の罪であるとして自殺した。熊審を取り巻く闇はいっそう濃くなっていった。