晋楚和睦
楚の命運にまたかげりが見えた。
それも、契機となる出来事は熊審のあずかり知らぬところで起きたのである。
子重と、公子子反は共に巫臣に怨みがあった。そこで、巫臣が出奔したのを契機にその族を殺し、財を分配したのである。
これを聞いた巫臣は大いに怒った。そして子重、子反の二人に書簡を送った。
この書簡の中に、
『必使爾罷於奔命以死』
とある。これは、必ず爾を奔命させ以て死なしめん』と読み、つまり、息つく間もなく国事に当たらせて殺してやるという意味である。天衝の激情が込められた文章であったが、しかし、直接的に斃すと書かないのが巫臣という人であった。
そして巫臣が取った手段はその通りに、迂遠でありながらも実に有効なものである。
巫臣は楚よりさらに南方の呉国に目をつけた。
呉は姫姓の国であり、周王朝と同室である。しかし蛮夷を自称する楚よりもさらに南方に位置するため、これまでほとんど歴史に現れてこなかった。国として在ることは楚人も知っていたが、ほとんど歯牙にすらかけたことがないと言っていいだろう。わずかに一度、荘王が盟を交わしたことがある程度だった。
巫臣は晋の臣として呉に使者として向かった。
呉もまた王を自称しており、当時の王は寿夢という。
巫臣は寿夢に謁見すると、晋から持参した戦車の半分を呉に与えた。さらに御者と射手も与え、自らの子を連絡役として呉に留め置いた。
この時から、呉は楚との盟を破り、たびたび楚に侵攻することになる。
巫臣は寿夢の野心を刺激したのであろう。勇猛果敢な荘王はすでに死し、今の楚は弱い。これを討てば呉は一気に大国になれる、という風に唆したに違いない。そして寿夢はその言葉に乗せられた。
かくして楚は南北に難を抱え、重鎮たる子重と子反は、書簡の通りに奔命することを余儀なくされた。
どうしてこうなったのかわからないのが熊審である。
熊審は巫臣の族の顛末を後になって知った。しかし、国家の重鎮として権勢を誇る子重と子反を咎められなかったのである。
呉の度重なる侵攻の理由が巫臣の復讐と知ると、この悲観的で大人しい王としては珍しく、二人を自裁せしめんと考えもした。
しかし、
――元をただせば、巫臣が帰らぬとわかって送り出したのは不穀である。その軽挙が二人を動かした。こうなることを予見していれば、先に二人を降格させて事態を防ぐことも出来たかもしれぬ。しかし事が起きた今となって二人を罰しては、国難に当たる者がいなくなって、楚はいっそう弱くなるであろう。
と考えた。
熊審にとっては苦渋の決断であったが、間違いであったとも言えない。
巫臣のことは子重と子反の過失であるが、熊審の治世の長きを支えた令尹は紛れもなく子重なのである。彼は功罪ともに大きく、名宰相と評することは出来ないが、熊審にとって害だけをもたらしたわけではない。
呉の侵攻に悩まされるようになった楚であるが、悪いことばかりではなかった。
晋で、楚にとっての追い風が吹き始めた。
前に鄭で晋と楚が戦ったことがあり、楚の臣である鍾儀という人物が捕虜となって晋にいた。晋の景公はたまたま彼を見かけて誰何し、楚の捕虜であると知ると詳しく話を聞いた。
鍾儀はまず、自家の代々の官職について答えた。この時、鍾儀は泠人と言ったが、これは楽官のことである。そう答えたために琴を与えると、鍾儀は楚の音楽を奏でた。
景公は熊審のことを聞いた。
鍾儀は、
「私のような者が口にすることではありません」
と口を閉ざしたが、景公はなおも聞いてきた。
そこで鍾儀は、
「太子であらせられた頃は師父に仕えて学び、朝には令尹嬰斉どののところへ、夕方になると司馬側どののところへ訪問されておりました。それ以外のことは存じません」
と答えた。
嬰斉は子重、司馬側は子反のことを指す。嬰斉、側は二人の諱である。
景公はこの話を士燮という臣にした。士燮は鍾儀を君子と評した。
まず自家の官職のことを語ったのは、自分よりも職務を重んじるということである。楚の音楽を奏でたのは、祖国を忘れていないということ。楚王のことを聞いて太子時代のことを話したのは、楚の臣であるという自制があり、景公に媚びようという私心がないということ。子重と子反を諱で呼んだのは、景公への敬意である、と。
士燮はさらにこう言った。
「自分の職務に背かないのは仁であり、国を忘れないのは信であり、私心がないのは忠であり、君を尊ぶのは敏です。どうか彼を帰国させ、晋と楚の友好の架け橋といたしましょう」
景公は士燮の勧めの通りにした。
前に熊審は知罃の言動を称賛して、晋と争うべきではないと言った。
それと同じことを景公も思ったのであろう。楚にも人物はおり、景公と士燮にそう思わせたのは、一つには鍾儀の人格であるが、熊審の徳でもあるだろう。
熊審は公子辰を晋に派遣し、晋の申し出を受け入れて現実のものにしようとした。翌年には晋も大夫を派遣し、いよいよ両大国の和議は現実味を帯び始めた。
しかしこの年に景公が薨じたため、頓挫したかに見えた。
だがさらに翌年。この偉業を為すために晋楚の両国間を奔走した人物がいる。宋の右師である華元だ。
華元は子重と親交があり、また晋の欒書という大夫とも親しくしていた。
折しも晋楚が和議の道を探っていると聞き、その間を取り持とうと考えたのである。
楚にやってきた華元は、熊審にも見えた。
――これがあの華元か。
熊審は複雑そうな顔で華元を見た。
それというのにも理由がある。荘王は晩年、宋を攻めた。当時、宋の君主は文公という人物であったが、右師は今と同じく華元である。この時の荘王は邲で晋を破り、まさに破竹の勢いであった。その威勢のままに宋都商丘を包囲したのである。しかし荘王は、ついに商丘を攻め落とすことが叶わなかった。
邲で晋を破った時が楚の絶頂期であるならば、そこにかげりが見えだしたのは商丘を落とせなかった時であると言ってよく、楚の斜陽の端を生み出したのは文公と華元である。
怨みはない。
そして今、華元が晋楚の和議のために奔走してくれていることは、熊審の意に沿うものでもある。
しかしそれはそれとして、思うところはあった。
だが華元と言葉を交わしていくうちに、熊審はだんだんと奇妙さを覚えはじめた。
それは子重が華元に感じたのと同じであり、熊審にも華元という人物は、落ち着きのある人の好い老人としか思えなかったからである。
――この好々爺が指揮した国を、我が父は攻め滅ぼせなかったというのか。
荘王の子であり、よく知っているからこそ、熊審にはそれが解せなかった。
それでも、言葉を交わしているうちに熊審は、それまでは王としての厳格な顔しか見せていなかったのだが、段々と落ち着きの色を見せ始めた。
華元との謁見が終わると、公子子嚢が熊審の前に現れた。子嚢は熊審の兄弟である。後に楚の令尹となり、共王の晩年の治世を輔翼する人物である。
荘王の子ということもあり、子嚢もまた朝廷で華元を注視していた。しかし子嚢は華元のことを、ついにお人よしの老人だとしか思えなかった。子嚢は同時に熊審のことも観察しており、はじめは自分と同じような所感を抱いたことを察した。
しかし言葉を交わすうちに、その疑問が氷解していったのも見て取ったのである。
子嚢はその理由を熊審に聞いた。
「あの御仁は水のような人である。手のひらに収まっている間は害もなく、それどころか人の命を養ってくれるが、一たび敵対すれば江が大地を呑み込むかのように苛烈に迫ってくる。我らが父は商丘を攻めた時に初めて華元の恐ろしさを知ったのであろうが、我らは、かの御仁の深奥と相まみぬように心がけねばならない」
熊審は子嚢にそう言って聞かせた。
そういうものだろうかと、子嚢は納得のいかない顔をしたが、しかし自分に見えないものが熊審には見えているのかもしれないと思い、その言葉を戒めとすることにした。
そして翌年。前五七九年。ついに晋と楚の和議は成立した。
中原に平和がもたらされたのである。
この偉業を語るにあたって華元の名は外せない。
しかしこの時の楚王が熊審であったからこそ成ったというのもまた事実であろう。もしこの時、荘王がまだ君位にあれば、いかに華元が名宰相であったとしてもこの和議は成立しなかったに違いない。
これからしばらく、晋楚の間には平和が続く。
しかし、永久には続かなかった。しかもその破綻は、楚より生じたのである。
司馬の子反は、当時、晋の盟下にあった鄭と衛を攻めようとした。子嚢は晋との盟を裏切るのは悪であるとこれを諫めたが、子反は聞き入れなかった。
そして何より、熊審は子反のこの意見を聞き入れて、自らも軍を率いて鄭に侵攻しているのである。
この時、熊審が何を思っていたかはわからない。しかしこの一事は熊審の治世にとっては間違いなく大いなる過失であっただろう。