晋とは未だ争うべからず
巫臣が出奔した年の冬。
楚は蜀の地で、許、秦、宋、陳、衛、鄭、斉と盟を交わした。しかしこの盟は「匱盟」と呼ばれる。匱とは匣にしまうという意味があり、この盟に参加した諸侯は晋を憚って、匣の隅のような極西の地で楚と会盟したのである。
荘王の時代であればあり得ないことである。
弱年の熊審の器量を諸侯は懐疑の目で見ていた。
ちなみにこの盟に参加したのは、熊審ではなく令尹の子重である。
令尹とは楚における宰相のことである。子重は荘王の代からの功臣であり、賢明な人だった。そして荘王の弟であり、熊審にとっては叔父である。
荘王の頃の令尹は蔿艾猟という人であり、その頃の子重は令尹に次ぐ地位である左尹であった。
子重は盟に参加した者のうち、宋の右師である華元に挨拶をした。ちなみに右師は宋における宰相のことである。
「お互いに、心痛が絶えませぬな」
子重は世間話のつもりでそう言った。というのも、宋も前年に主君が変わっており、新君は未だ服喪の最中である。熊審は喪を破ったが、新しい政権下での宰相というところは同じであった。
「そうですね」
華元は短く、しかし柔らかい声で返した。
――相も変わらず、不思議な人だ。
子重はそう思った。
一国の宰相でありながら、野心のようなものがなく、さらに言うならば欲望のようなものもなさそうなのである。
といって、清廉潔白で身を正して国事に当たっているのかと言われると、なるほどそうではあるのだろう。華元が宋の宰相になって二十年になる。その期間、宋は数多の波乱に巻き込まれながらもついに国を全うしてきた。それはひとえに華元の功績であるだろう。
華元のそういった手腕を子重は、話には知っている。
しかし当人を前にすると、伝え聞いたその逸話の人物が目の前の華元と結びつかない。のんびりとして、少し抜けたところのある好々爺にしか見えないのだ。
さて、その翌年のことである。
晋と楚の間で人質交換が行われることとなった。邲の戦いでお互いが捕らえた要人を返還しようというのである。
晋は楚の公子穀臣を。楚は晋の要人の子、知罃を。それぞれ出すことになった。
熊審は知罃という人物に興味が沸いた。というよりも、知罃を通して晋のことを知りたいと思い、途中まで自ら知罃を送り、言葉を交わしたのである。
「貴方は我が国を怨んでいますか」
知罃は首を横に振った。
「私は不才で、そのために虜囚となりました。ですが今、こうして帰国が叶いました。誰をも怨んでおりません」
「では、我が国の行いを徳と思いますか」
熊審は踏み込んで聞いた。
知罃はまた首を横に振った。
「両国は社稷を保つことを図り、民の平安を願い、怒りを収めて許しあおうとしているのです。これは二国の友好の問題であり、私の及ぶところではありません。故に、誰をも徳とはいたしません」
熊審はそう聞いた己を愧じた。
自分には父のように武威を示すということは出来そうにない。ならば徳を敷くことは出来ないかという考えからそう聞いたのだが、それもまた安易な考えであり、徳というものについてまったくわかっていなかったと思い知らされたのである。
「では、貴方が帰国なされたら何か我が国に報いていただけるでしょうか」
これは君主としての熊審から発した言葉である。
しかし知罃はまたも首を横に振る。
「怨みもなく、徳もないのです。誰にどのように報いる必要があるでしょうか」
まっすぐな言葉だった。
熊審は、はじめは晋について知りたいという好奇心からであったが、わずかに言葉を交わしただけで知罃という人物に畏敬の念を抱いた。
「どうか不穀に、貴方のお考えをお聞かせください」
不穀とは君主の一人称であり、しかもへりくだった言い方である。
熊審は王の身でありながら、他国の臣に敬意を表し、自らを下げて意見を求めた。その在り方に感服し、知罃は己の胸中を堂々と、真摯に明かすことにした。
「貴国のおかげで帰国が叶いました。晋で国法に照らされて処刑されるとも、あるいは我が父の元に帰ることを許されて一族の法の下で処刑されるとも、私は死して不朽のものとなります。あるいは大度によって家を嗣ぐことを許され、軍務に従事することとなれば、不才の身ながら死力を尽くして晋のために楚と戦うでしょう」
道理であり、人臣として正しい在り方であると思った。
この時の知罃は未だ要職につかぬ大夫の身でありながら、これだけの気骨を有している。晋の人は末端までこのようであるのだから、熊審は、
「晋と争うべきではない」
と言って、礼を尽くして知罃を帰国させた。