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鳴かず飛ばずの王

 彼の人生には、常にかげがかかっていた。決して逃れえないかげである。

 彼は姓名を、熊審(ゆうしん)といい、春秋時代の南方の大国、()の王だ。

 熊審の心に常にかかっているかげとは、彼の父であり先代の王である。荘王(そうおう)(おくりな)されたこの王はまさに名君であった。

 楚はもともと、中原から見て僻地である。そのころ、中国は周王朝の時代であり、乱によって周王室の力が衰えたりといえども中原にはまだ尊王の気風が吹いていた。

 しかし楚は蛮夷(ばんい)を自称して周の爵位制度に従わず、当時は周にしか許されていなかった王を自称していた。

 春秋時代が始まってしばらくの間、楚は南方での勢力拡大に注力していた。

 その流れが変わったの成王(せいおう)の頃だ。なお成王は熊審の曽祖父にあたる。

 成王は、即位して暫くの間は歴代の王にならって南方の小国を攻めるくらいのことしかしていなかった。一度、当時中原で覇者であった(せい)桓公(かんこう)に攻められたことがあったが、この時にも最終的には桓公と盟を交わしている。

 事件は前六三九年に起きた。

 ()という地で諸侯が集まって盟を交わすことになった。主催者は(そう)襄公(じょうこう)である。宋は由緒のある国であり、襄公は覇者であった桓公が太子の後見を任せたほどの人物である。

 しかし国としては小国であり、楚のほうが大きく強い。

 この召集に腹を立てた成王は、盟に参加すると見せかけて盂に赴くとその場で襄公を捕らえ、辱めた。襄公はのちに釈放されるのだが、宋にとっては大いなる侮辱である。

 そして翌年、楚と宋は戦うことになる。

 泓水(おうすい)の戦いと呼ばれる合戦で、楚は宋を散々に破った。

 いよいよ南方で楚の勢威は高まったが、北で新たな覇者が現れた。(しん)文公(ぶんこう)である。文公はその九年という短い在位の間に北方をまとめ、諸侯の盟を仕切るまでになった。

 かくして春秋時代は、北方の大国・晋と南方の大国・楚との二極時代へと突入する。

 諸国は晋に付くか、楚に付くかという選択を迫られた。

 この時代にあって大いに武威を天下に示したのが楚の荘王――熊審の父である。

 荘王の人生は即位したその時から波乱に満ちていた。

 当時、自らの待遇に不満を持っていた臣下による乱が起き、その最中に国都から拉致されてしまったのである。

 幸いにして荘王は一命をとりとめ、乱は収束した。

 しかしこの事件は、父祖の業績を見て、自らも富国強兵に励み、やがては北方の晋を凌駕して天下に覇を示さんと意気込んでいた荘王にとっては出鼻を挫かれたような思いである。


 ――慎重にいかねばならぬ。


 荘王の父、穆王(ぼくおう)の時代にも楚は伸張を続けた。しかし勢いが盛んになるとやがて衰えが見える。荘王はこの乱を、天が与えた戒めだと思うことにした。

 しかしてその戒めを受けて荘王が取った方針は実に大胆極まるものだった。

 先君が死んだら次の君主は三年間、喪に服さなければならない。そのあいだ、聴政は宰相に任せるのが決まりである。しかし荘王は後宮に籠って日夜、酒と女に明け暮れた。さらに、その行いを諫める者は死罪と布告を出したのである。

 荘王はそうすることで、臣下を見た。

 真に国を思い、死を恐れずに正しいことを為せる者は誰であろうかを見極めたのである。

 やがて伍挙(ごきょ)という臣が現れた。彼は直諫という形を取らず、


「三年の間、鳴くことも飛ぶこともしない鳥がいます。これはいかなる鳥でしょうか」


 と謎々の形で荘王に問いかけた。

 荘王はこの時、左右に姫を抱いているという実に不真面目な状態であったが、


「飛び立てば天にまで昇り、鳴けば人々を大いに驚かせるであろう」


 と真面目な顔で答えた。

 無論、伍挙の言う鳥とは荘王のことである。荘王は伍挙の言いたいことを察して、


「退出せよ。そなたの意図はわかっている」


 と言って伍挙を下がらせた。

 やがて荘王は後宮から出ると、伍挙をはじめとする名臣を次々と擢登し、奸臣を粛正した。

 鳴かず飛ばずとは、現代ではいつまでもうだつの上がらない者の意であるが、元は大願のために雌伏する者を指す。

 さて、三年の雌伏から起きた荘王は、伍挙に言った通りに天にまで昇り、人々を驚かせた。

 着実に国力を満たし、ついには(ひつ)の地で晋を破ったのである。

 熊審は、そんな父を見続けてきた。

 邲で晋に勝ったことは楚の力を確実に天下に示した。楚の絶頂期はこの時であったと言ってよいであろう。

 しかしそれは同時に、熊審の心を昏くした。

 名声も覇権も、極まればやがて衰えていく。過去、偉大な君主が立って国を強くしたことはあれど、その威勢が永久に盛んであった試しはない。ならば父、荘王によって打ち立てられた楚の盛況もいずれはやせ細っていく。そんな予感が熊審にはあった。

 そうならぬためには、父を超えるしかない。

 良きものを受け継いで、それを損なわずに保全するということは、一から大業を為すよりもずっと難しい。まだ幼い太子の身でありながら、いずれ訪れるであろう自らの君主としての時代を、熊審は悲観的に遠望していた。


「父王は父王、貴方は貴方です。父王の業績を継ぐなどとは思わず、ただ楚国だけを継ぐのです」


 熊審をそう言って窘めたのは、母の樊姫(はんき)である。

 樊姫は荘王の妻であり、おそらく正室であったのではないかと思われるのだが、彼女もまた経歴に謎がある。

 普通、国君の妻は他国の公女から娶り、国名+姫という形で呼ばれる。例えば荘王が伍挙に謎々をされた時、『史記』には、


 左抱鄭姬


 と書かれているのだが、ここでの「鄭姫」とは鄭国から嫁いで来た婦人の意であろう。

 女性にも無論、(いみな)があり(あざな)がある。しかしその大半は記録には残らない。

 ともかく、この例に従えば「樊姫」とは、樊国から嫁してきた姫ということになる。それの何が不思議なのかというと、荘王が即位した頃には、樊という国はすでに滅んでいるのである。

 樊は陽樊(ようはん)とも呼ばれる。そして陽樊の地は周王朝の独断で晋に下賜されたのだ。

 陽樊の者はこれに反抗したが、ついにはその民を城から出して晋に陽樊を明け渡している。それ以降、史書には地名としての陽樊は出てきても国名として現れることはない。樊という国は滅んだと見てよいと思う。

 そしてこの出来事が前六三五年である。そして荘王の即位が前六一三年だ。二十二年の開きがある。樊姫は遅くとも荘王が即位して三年以内には嫁して来ているので、樊国滅亡の年に生まれたとしても二十二歳ということになる。

 当時、女性の結婚適齢期は十五から二十とされているので、滅びたりといえど一国の子女が嫁ぐ齢としては少し遅いように思える。

 もっとも、荘王も樊姫も生年が定かではないので、樊が滅びてからの二十二年の間に王となる前の荘王の妻となったと思えば、年齢のことはそう不思議でもない。荘王の在位は二十三年間なので、荘王の即位は壮年になってからであり、樊が滅びるより前に荘王は生まれていてそこに樊姫が嫁入りしていたという見方も出来る。

 しかし太子たる熊審が即位した時の年齢は十歳であり、つまり荘王の在位十四年が生年となる。樊滅亡の年に樊姫が生まれたと仮定すると、樊姫が熊審を生んだのは三十四の時となる。そう考えるとあり得ない話ではない。

 しかし私見を語らせていただくと、樊姫は樊滅亡の後に生まれたのではないかという気がするのである。ここまで話すと今度は、樊の公族は晋に城を明け渡した後にどこに行ったのだろうか、という問題にもなってくる。晋の盟下の国に住むことは出来ず、楚の支配下の国に身を寄せて、そのうちに太子時代の荘王との婚姻話が出てきたのであろうか。

 この辺りはどこまでいっても推論を超えず、可能性はいくつも思い浮かぶ。

 しかし樊姫が亡国の姫であることだけは事実であり、だからこそ樊姫は強い女性であった。

 荘王が即位してから聴政を行わなかったことは先に記したが、実は後宮に引きこもってばかりいたわけではなく、狩猟にも夢中になっていた。樊姫はこれを諫めたが荘王は聞き入れず、そのために樊姫は肉食を断って狩猟好きを戒めた、という話がある。

 これは『列女伝』にある逸話で、享楽に耽る夫を身をもって正そうとする賢夫人という構図なのであろうが、しかし事実の樊姫の意図とは異なるのではないかと思う。

 国君が行う狩猟とは単なる娯楽ではなく、軍事演習の一環を兼ねている。

 荘王は遊びに熱中して臣下を見極めながら、同時にいずれ自らが陣頭に立って晋と戦うために備えていたのではないだろうか。愚王のふりをしながら、胸中に大きな野望を秘めている夫のことを樊姫は誰よりも理解しており、覇道の成就を願い、あるいは、


 ――私は、わかっております。


 と暗に語るように、肉食を断って示したのではないだろうか。

 ともかく、樊姫は国家の盛衰を知る人であり、だからこそ我が子を教導するにあたって多くを語らなかった。

 英邁な父と達観した母。

 その両者に育まれたのが熊審なのである。

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