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第7話:君権神授(くんけんしんじゅ)

湯評タンピンが目を開けた瞬間、目の前にあったのは幼くも茶目っ気たっぷりな顔だった。

 生き生きとした紫の瞳には喜びが溢れ、持ち上がった口角が小さなえくぼを作っている。


忠僕ちゅうぼく~」

「?」

「私、とっても気分がいいわ~」

「……そうですか」

「どうして嬉しいのか、聞かないの?」

「ええっと……どうして嬉しいんですか?」

「あ・て・て・み・て♪」

「…………」

「あはははは!」


 早朝、ようやく昏睡から目覚めたタノシは、同じく眠っていた湯評を揺り動かして無理やり起こすと、満面の笑みで以上のような中身のない会話を仕掛けてきた。


「う~~ん……」

 湯評は大きく背伸びをして、重い体を引きずりながら立ち上がった。

 遠くでは太陽がゆっくりと昇り始め、押し寄せる波が砂浜に白い飛沫を上げている。空にうっすらと浮かぶ緑の膜が、自分たちの現在地を物語っていた。


 開天闢地……魔獣の召喚……。

 昨夜の記憶が脳裏に蘇り、湯評は少し恍惚とした。

(これらすべて、夢じゃなかったんだな……)

 見渡す限り、そこは荒野だった。雑草一株すら生えず、野鳥一羽すら飛んでいない。唯一目立つものといえば、未だに煙を上げている火山くらいだ。

 タノシの神術がまだ効いているのか、周囲の空気には硝煙の臭いすら混じっていない。


「目覚められましたか、閣下!」


 突然、声が響いた。

 湯評は瞬時に神経を尖らせ、タノシを抱き寄せて守る姿勢をとった。水神の印を即座に発動させ、次の瞬間、彼の手にはアルミ合金製の「物干し竿」が握られていた。


「誰だ!?」

 土煙の向こうから、一人の女性が歩み寄ってきた。


「お呼び出しに預かり光栄です、我があるじよ!」

 彼女は雪のような白のシルクに、緑の糸で雲龍の紋様が刺繍された中華風の武道着を纏っていた。胸元の膨らみが布地を高く押し上げている。その外側には、薄くしなやかな龍鱗の鎧を重ねていた。

 身長は優に百九十センチは超えるだろう。最も目を引くのは、頭に生えた一対の金の龍角と、海藻のように鮮やかな碧緑の長い髪だ。髪は高めのポニーテールに結い上げられ、凛々しい女傑の風貌を湛えている。


 湯評は数秒間呆然とした後、ハッと気づいた。

「お、お前……昨夜の、あの龍か?」

「私は青嵐せいらん。以後お見知りおきを、旦那様」

「だ、旦那様!?」

 青嵐は恭しく頭を下げ、主人の伴侶に敬意を表した。湯評が目を丸くして固まっているのは完全に無視された。


 すると、別の土の盛り上がりの影から、また別の集団が現れた。

 彼らは青灰色の獣皮を纏い、パンツもブーツも同じ素材で統一されている。深山から出てきた猟師のようで、見るからに暑苦しそうだ。


「ガハハハ! あのタノシ様が男を作るとは、わしもこれで安心してあの世へ行けるわい!」

 集団の先頭を行く、リーダーと思しき屈強な老人が言った。

 湯評がよく見ると、老人と背後の面々には頭に「獣耳」があり、腰からはフサフサとした尻尾が生えていた。


 老人のすぐ後ろを行く三人は、顔立ちがよく似ており、逞しい筋肉のラインが野性的な美しさを放っている。その中で最も幼い顔立ちの青年が、隣の兄に尋ねた。

「兄ちゃん、『彼氏』って何?」

「伴侶という意味だ。つまり、交尾ができる相手のことさ」

 真ん中の長兄が淡々と答えた。三兄弟の次男は、両手をポケットに突っ込み、信じられないといった様子で口を挟んだ。

「マジかよ? あの『海底の火薬庫』って呼ばれてる売れ残りのお局様に、貰い手がいたのか?」


 言葉が終わるか終わらないかのうちに、どこからともなく伸びた白い触手が次男を弾き飛ばし、近くの岩壁に「オブジェ」として埋め込んだ。

「……喋れないなら黙っていろ。……大変失礼いたしました、タノシ様! 愚息の無礼、伏してお詫び申し上げます!」

「ふんっ」

 タノシは口を尖らせてそっぽを向いたが、それ以上の追撃はなかった。


 その時、巨大な影が一同を覆った。湯評が見上げると、空から「太陽」が降ってくるのが見えた。

「うわっ!?」

 激突するかと思われたが、頭上三十メートルほどのところで太陽がその姿を変えた。

 体躯が猛烈に縮小し、黒い髪と黒い翼を持つ少年の姿になった。彼は翼を羽ばたかせ、タノシの胸に飛び込んだ。


「お姉ちゃん、久しぶり! 結婚するの?」

「まあ、そんなところね」

(……千年後くらいにね)

 銀髪の邪神はそう付け加えた。ロリ形態のタノシが少年を抱きしめる姿は、仲の良い姉弟そのものだ。


「じゃあ、お魚いっぱい獲ってくるね! 二人の結婚祝いだよ!」

 少年は可愛らしい顔で笑い、湯評をじっと見つめた。湯評は未だにクエスチョンマークを浮かべている。


「タノシ様、これはいったい……」

 湯評の言葉を遮るように、タノシが再び神術を発動させた。


「深淵邪法――『魔土召喚まどしょうかん』!!」


 タノシが両手を合わせると、巨大な建造物が凄まじい轟音と共に地面に叩きつけられた。

 巻き上がる土煙を湯評が手で払い、その正体を確認した瞬間、彼は絶叫した。


「これ、**TOSTTOトストー**じゃねーか!!」


 そこにあるのは、長方形の巨大な白い豆腐のような建物。壁面にはクリスマスレッドのペンキで「TOSTTO」というロゴがデカデカと書かれており、五つのスポットライトがそれを照らし出している。

 間違いなく、ビギナーズ・シティ郊外にあるあの大手会員制量販店だ。湯評が移住初日から通い詰め、百回以上は訪れたあの店だ。見間違えるはずがない。


 タノシは彼の動揺を無視して、微笑みながら言った。

「久しぶりに友達と話がしたいの。悪いけれど、お昼ご飯の準備をしておいてくれないかしら? お腹が空いちゃったわ」


 笑顔ではあったが、そこには拒絶を許さない威圧感があった。

 元社畜の湯評は、即座にボスの意図を察知した。

(邪魔だ、早く消えろ……ってことか)


「あ、はい! 了解です!」

 湯評はタノシと異種族の一団を一瞥し、逃げるようにTOSTTOへと走り出した。

 なぜだろう、彼女を彼らと二人きりにすることに、かすかな不安を感じながら――。



 湯評が建物の中へと消えるのを見届け、老人が口を開いた。

「この匂い……旦那様は、魔物や魔獣の化け物ではなさそうですな、タノシ様」

「ええ、純血の『人間』よ」

 タノシは深く頷いた。


「ええっ! マジで!?」

 岩壁からようやく引き抜かれた獣耳の青年が、驚愕のあまり叫び声を上げた。


「お姉ちゃん、人間ってなあに?」

 少年がタノシの袖を軽く引いた。

「大陸でよく見かける、ありふれた食べ物よ」

 タノシは考えるまでもなく、そう即答した。

「……ってことは、お姉ちゃんは食べ物と結婚するの!?」

 少年は信じられないといった様子で目を見開いた。


「タノシ様、フリア様はこの件をご存知なのですか?」

 緑髪の龍姬・青嵐せいらんが、懸念の色を浮かべて尋ねた。

「教えるわけないでしょう! あの人が勝手に黒龍族の婚約者を決めて、近いうちにお見合いさせるなんて言い出したから、こっちも急いで代わりの人間を用意したのよ!」


 タノシは自分の母親を思い出し、怒りが再燃した。子供の頃から娘を「瑠璃灯(中身がスカスカ)」扱いし、事あるごとに嘘で担いできたあの母親が、先日また勝手に自宅へ上がり込んできたのだ。

 挙句の果てに「あんたもいい年してそんなにガサツじゃ、一生お嫁に行けないわよ!」などと言い放った。

 あの女、暇さえあればやってきては「お父様がまた馬鹿なことをしたのよ」と愚痴るかと思えば、「やっぱりあの人を選んで正解だったわ、私への愛が止まらないんですもの!」と惚気のろけをかましてくる。


(ふざけるな! 別居したっていうのに、一日中私の前で犬に食わせるほどのご馳走(ルビ:惚気話)を撒き散らしやがって!)

(私だって独身を卒業したいわよ! 体はもういつでも繁殖期に入れるくらい大人なんだから!)

(同族が弱すぎるのと、他種族に興味がないのがいけないのよ! あのババアめ、私の前でマウントを取りおって……!)


 勝手に縁談を決めた? ふん、思い通りになんてさせるもんですか!

 旦那なんて、自分で育てるわよ!

 タノシは拳を握り、決意を固めた。だが、それを冷静に見抜く者がいた。


「そんな些細な理由で他人の感情を弄ぶなんて、最低だな!」

 ――バシィィィン!!

 一族の未来の希望、凍土魔狼の誇り……そして「正直すぎる男」である獣耳の次男は、再び岩壁の一部となり、芸術的な装飾品と化した。


「……さて、あんたたち。少し準備をしておきなさい。近いうちに戦争になるわよ」

 タノシは拳を下ろし、気を引き締めて一同に告げた。その言葉に、皆が動きを止めた。

「恐れながらお尋ねします。相手はどの種族で?」

 青嵐が問う。


「人間よ。この星の人間には魔力がないけれど、その代わりに特殊な兵器を数多く発展させているわ。油断すると手痛い目に遭うわよ。特にここはアウェイ。自分たちで魔力を補充する方法を考えないと、神力が削られる一方だわ」

「魔力のない人間……想像もつきませんな」

 老人が顎をさすりながら考え込んだ。


「例えば……あそこよ!」

 タノシが空の一点を指さした。

「五秒前、あそこを三匹の鉄の蝿が通り過ぎたわ。この星の人間はそれを『衛星』と呼び、超遠距離からの偵察を行うらしいわね」

 一同は空を仰いだが、雲以外に何も見えない。

「……青嵐殿、見えますか?」

「いえ、雲以外は何も」

「僕も見えないや」

 少年も落胆して首を振った。


「見えないのが普通よ。空よりもっと高い場所にいるんだから。それだけじゃないわ、奴らの兵器は視認できない場所から飛んできて、魔力の波動も一切感じさせない。私だって、無防備ならただじゃ済まないわ」

 タノシが手を振ると、ストレージからタブレットPCが飛び出してきた。

 空中に浮かぶ画面には、機関銃を操る兵士や、砲弾を放つ戦車の映像が流れる。

 さらに画面が切り替わり、巨大な鉄の鳥が黒い「卵」を落とした。その瞬間、巨大なキノコ雲が立ち昇り、堅牢なビルも広大な大地も、一瞬で塵へと化して煉獄へと変わった。


 一同は沈黙した。

 この邪神の強さは本物だ。彼らが従っているのは道義などではなく、力でねじ伏せられたからだ。

 その彼女が「手痛い目に遭う」と言うのなら、敵の力はどれほどなのか。魔力を持たない弱小種族が、これほどの破壊力を手にしているというのか。


「魔力がないからこそ、ここまでの技術を……。驚くべき種族ですね」

 青嵐が感嘆を漏らした。

「これを教えたのは、心の準備をさせておくためよ。……それから、忠僕にはこの『戦争準備』のことは絶対に悟られないように」

「えっ? 旦那様はご存知ないのですか?」

「あいつはまだ人間に未練があるみたい。同族に手を下せと言っても、無理でしょうね」


 タノシは少しだけ溜め息をついた。

「彼との接し方には気をつけなさい。あいつの言葉は私の言葉よ。彼は私の傀儡であり、未来の夫。私を敬うのと同じように彼を敬いなさい。……少なくとも、彼が私を裏切るまではね」

「御意!」


「いいわね。ただし! 私が夫だと言えば夫だが、王ではないと言えば王座に座る資格はない。……分かっているわね?」

「はっ!」

「よし、ご飯にしましょう!」



「……あ、青嵐。ちょっと来なさい」

「?」

 タノシは他の面々を先に行かせ、青嵐と二人きりになった。周囲に音が漏れないよう、特製の結界まで張る念の入れようだ。青嵐は何事かと身構えた。


「その……青嵐。貴女はまだ……その、汚れはないのかしら?」

 タノシがもじもじしながら尋ねる。青嵐は数秒フリーズした後、顔を真っ赤に染めた。

「も、もちろんです! 私はまだ……清らかな身にございます……っ」

 青嵐は必死に潔白を証明しようとしたが、最後の方は消え入るような声になった。それを聞いたタノシは、ホッと胸を撫で下ろした。


「そう? 良かったわ!」

「……え?」


「青嵐、少し言い出しにくいことなのだけれど……貴女にお願いがあるの!」

「……仰ってください」

「もし……あくまで、もしもよ! 忠僕が私に対して天大な功績を立てたら、主として、神として、その期待に応えなきゃいけないでしょう?」

 タノシが顔を近づけてくる。その頬は朱に染まっていた。

「ええ……左様かと」

「だから……その……普段あいつを『チェリー(童貞)』って笑ってはいるけれど……その、私も……。つまり!」

「?」


「……その時が来たら、貴女が『先陣』を切ってくれないかしら? そうすれば私も心の準備ができるし、緊張もしないと思うのよ……たぶん」

「………………ええぇぇぇぇえええッ!?!?!?!」


 主人のとんでもない依頼を聞いた瞬間、青嵐の頭は真っ白になった。

 結界の中に、龍姬の絶叫がいつまでも響き渡っていた。

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