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第5話:新世界と創世記

バタンッ!

 翌朝、アウグストゥス・ホテルの屋上にて。

 湯評タンピンがドアを押し開けると、フェンスの前に立つタノシが右手を掲げているのが見えた。

 遠くの空を、何か光るものが飛んでいく。だがそれは瞬く間に地平線の彼方へと消え去り、湯評が背伸びをして目を凝らしても、その尾を捉えることはできなかった。


「準備はいいかしら?」

 鉄扉の軋む音に気づき、タノシが振り返る。

 湯評は屋上の中央まで歩み寄り、両手に持った特大のスーツケースを下ろした。


「ああ、万全だ。いろいろと用意しておいたからな」

 これから待ち受ける困難に備え、湯評は装備を徹底的にアップグレードしていた。

 背中の登山リュックには、最新のノートPCに加え、鍋、包丁、食器、トイレットペーパー、ライターといった生存物資が詰め込まれている。

 二つのスーツケースには、五着の新しい衣類と日用品、そして缶詰やカップ麺、ミネラルウォーターなどの食料が満載だ。

 すべて無人となった街の店から拝借したものだ。「持ち主不在」の今、罪に問われることもない。


「準備は私がしてあると言ったでしょう! なぜ余計な荷物を増やすのよ!」

 銀髪の少女は両手を腰に当て、ぷくっと頬を膨らませて憤慨してみせた。


「無人島に行くんだ、備えは多ければ多いほどいい。オフィスにふんぞり返ってる上層部には、現場の人間の不安なんて分からないだろうさ」

「?」

「まあ、プランBがあるに越したことはないってことだよ」

 湯評は苦笑いした。

 物資を漁る自分の姿が、いかにも小市民的で臆病に見える自覚はある。だが、今の自分は「人類の敵」だ。明日には執行官の銃弾に倒れているかもしれない。もしそうなるなら、せめて腹一杯食べて、身だしなみを整えてから逝きたいものだ。


 タノシの評価は相変わらず辛辣だった。

「田舎者ね!」


 湯評は苦笑しながら、目の前のタノシを見つめた。

 朝日を浴びる彼女の銀髪は、流れる銀河のように眩い輝きを放ち、この上なく聖潔で美しい。

 この聖女のような女性の正体が、クトゥルフの邪神だとは誰も思うまい。

「……行こうか。新世界へ」



 太平洋のまっただ中、海抜七〇〇〇メートルの高空。

 ワンボックスカーほどの大きさの緑色の光球が、猛烈な速度で突き進んでいた。

 耳を裂くような風切り音が大海原に響き渡り、瞬きする間に水平線の彼方へと消えていく。その速度は、いつ音速の壁を突破してソニックブームを起こしてもおかしくないほどだった。

(これなら、太平洋を横断するのもそう時間はかからないな……)

 湯評はそんなことを考えていた。


「ところで、さっき屋上で何をしていたんだ?」

「ああ、あれ? 心配しなくていいわ、危険なものじゃないもの。私の可愛い信者たちに……ちょっとした『クリスマスの温かい贈り物』を届けただけよ」

 タノシは妖しく微笑んだ。

 咲き誇るケシの花のように、美しく、そして致命的な笑み。


「……そうか」

 湯評は深追いしなかった。タノシが自分に何かを隠している気配を感じたからだ。

(俺が昨日、人間寄りの態度を見せたからか? それとも俺の隠れた意図がバレたのか?)

 思考が乱れるが、どうせ考えても答えは出ない。彼女が隠していることが「良いニュース」であるはずがないことだけは確かだ。


「さあ、練習を続けて! 手が止まっているわよ!」

「おっと、悪い!」

 タノシの叱咤に我に返り、湯評は手の中のエネルギーに集中した。

 しばらくして、彼の手の中にようやく「それ」が形作られた。正確には、一塊の「黒い霧」だ。


「筋がいいわね。一度見ただけで覚えるなんて」

 タノシが満足げに頷く。神からの称賛に、湯評は照れくさそうに後頭部をかいた。

「いや、先生の教え方がいいんですよ」

「中に物を入れてみて」

「了解」


 スーツケースからミネラルウォーターのボトルを取り出し、慎重に黒い霧の中へ差し込む。

 ボトルだけでなく、彼の手首から先も霧に飲み込まれた。湯評は手を離し、腕を引き抜く。


「閉じなさい」

 タノシの指示に従い、湯評は右手を掲げた。

 手甲に刻まれた「水神の印(クトゥルフの刺青)」から溢れ出す膨大なエネルギーを感じながら、意識を集中して圧縮する。リュックほどの大きさだった黒い霧は、瞬時に跡形もなく消え去った。


「もう一度開けて」

 今度はスムーズに霧を凝縮させた。生唾を飲み込み、霧の中に手を突っ込む。手探りで探し当てたのは、先ほど入れたばかりのペットボトルだった。


「すげえ……まさに四次元ポケットだな」

「これが『水神の印』の力よ。神の力で異空間を切り拓くの。貴方の魔力量なら……そうね、SUV一台分くらいは入るかしら」

「マジかよ!? じゃあ、俺がさっき必死に荷造りしてたのは……」

「だから余計なことをするなって言ったのよ! 準備はしてあるし、食料も物資もたっぷりあるって言ってるのに、何をそんなに心配してるのかしら!」

「……すみません」

「ふんっ!」


 湯評はすべての荷物をストレージ空間に放り込むと、タノシをそっと抱き寄せた。タノシは抵抗せず、彼に背中を撫でられるままにしていた。

「……俺が悪かったよ、いいだろ?」

「当たり前よ! この間抜け!」

「ああ……」


 彼女は主人マスターではあるが、意外にも「ボス風」を吹かせない。

 わがままで高慢、殺人を日常茶飯事と捉えているのは、彼女の出自ゆえだろう。人間界のエリート(天龍人)でさえ同類を見下すのだ。邪神の家系に生まれたお嬢様に、人類愛を期待する方が無理がある。

 湯評の目には、彼女は「外見だけ大人びた少女」のように映っていた。

 高貴な生まれと豊かな環境が、溢れんばかりの自信と、ルールを打ち破る勇気を育んだのだ。


 神話で語られるクトゥルフとは違い、タノシは明らかに穏健で、対話が可能だ。

 彼女が地球人を殺すのは、修行のためか、空腹のため。少なくとも「退屈しのぎ」で虐殺を楽しむ兆候は今のところ見られない。

(できることなら、彼女を『善』の側へ導きたい。ほんの少しでもいい。そうすれば、死んだ連中の犠牲も無駄にはならない……)


忠僕ちゅうぼくや、一つ思いついたのだけれど……」

「ん?」

「こんな人気のない場所へ隠れる必要なんてないんじゃないかしら? ネットで調べたわ! この海の向こうに、世界で一番強い国があるんでしょう? たしかGCPグレート・カントリー・オブ・パシフィックとか言ったかしら。そこを先に滅ぼしてしまえば、私たちは――」


「バカなことを言わないでください、タノシ様! あなた様は働いたことがないから分からないでしょうが、職場において最も忌むべきは『現在進行中のプロジェクトが終わる前に、別のプロジェクトに手を出すこと』です。結局どっちつかずになって、共倒れするのがオチですよ」

「実力もないくせに口先だけで部下を振り回す無能な上司を、俺は腐るほど見てきました! 信じてください、まずは目の前の建国プロジェクトを完遂させ、効率を最大化させるべきです!」


 多少の私心が混じってはいるが、それは湯評の本心だった。

 過去の職場や、テレビで見る政治家たち。無能な連中が現場の足を引っ張り、自分が有能だと勘違いしている地獄を彼は知っている。

 たとえ犠牲を減らすためでなくても、新しいボスをそんな「無能な上司」にしたくはなかった。


「あら、残念だわ。この星で最強の国家を滅ぼすのにどれくらい時間がかかるか、試してみたかったのだけれど~」

 湯評のマシンガントークに、タノシは少し驚いたようだ。

 この下僕がここまで本気で怒るのを初めて見た。大虐殺を目の当たりにした時でさえ見せなかった激しい感情が、なぜか「仕事の進め方」で爆発したのだ。

 タノシはそれが、たまらなく可笑しかった。


「……あなた様なら、三ヶ月もあれば十分でしょうね。ですが、あの国の領土は広大で、兵器も最新鋭です。空母に核弾頭、ステルス戦闘機……ありとあらゆるものが揃っています。おまけに国連の親玉ですから、戦うとなれば地球の半分を敵に回すことになり、時間はさらに長引くでしょうね」


「あら、そんなに面倒なの? それなら後回しにするしかないわね。残念だわ~」

「はは……ええ、本当に残念ですよ……」


 湯評タンピンは言葉では大袈裟に言ったが、本心ではこれっぽっちもそう思っていなかった。

 彼に言わせれば、タノシなら一日でGCPを灰にし、七日もあれば世界を征服できる。何しろ彼は、至近距離であの大虐殺を最後まで見届けた唯一の観客なのだ。

 あのデタラメな力を知ってしまえば、現実の兵器がタノシに通用するとは到底思えない。彼女は「神」なのだ。邪神だろうが何だろうが、正真正銘の神霊だ。無能なヒーロー映画じゃあるまいし、人間が勝てるはずがない。地球最強の三ヶ国、GCP、滄海そうかい、スノーボールが束になっても相手にならないだろう。


 彼が嘘をついたのは、「面倒くさそうだ」という錯覚を彼女に植え付けるためだ。

 彼女が面倒だと思えば、余計なことはしない。ここを離れることもない。そうすれば、彼女をうまく利用できる。

 とにかく、どんな手を使ってでも彼女をこの島に留めなければならない。ここは彼女を養う「ハッピー牧場」であり、同時に彼女を閉じ込める「幸福な監獄」なのだ。


---


「あ、そろそろ太平洋の真ん中ですね。タノシ様、一旦止まってください」


 タノシが気だるげに手を振ると、飛行していた光球は緩やかに停止し、不思議な力で高空に静止した。

 スマホのGPSを確認すると、そこは国際日付変更線に近い海域だった。

 光球の中から下を見下ろすと、煙を吐く小さな火山と、その横に寄り添う砂州のような島が見えた。地図によれば、どの国からも遠く離れ、周囲には水平線以外何もない。邪教の拠点にはうってつけだ。


「よし、ここにしましょう!」

 漁船すら来ないような僻地だ。物好きがふらりと立ち寄る心配もないだろう。

 ただ、唯一の欠点は……。

(ちょっと島が小さすぎるな。千人か二千人も入れば一杯だ。これじゃあコスト削減スケールメリットが効かないな……)


「タノシ様、この島は少しばかり手狭なようです。あなた様の力で、もう少し大きくできませんか?」

 湯評が何気なく尋ねた。これまでの神業を見る限り、彼女なら何とかしてくれるはずだ。


「Of course.(もちろんでしょう?)」


 タノシは冷徹なまでの傲慢さを顔に浮かべ、右手を無造作に振った。

 すると彼らの目の前に、十階建てのビルほどもある巨大な淡緑色の光球が忽然と現れた。それはゼリーのようにプルプルと震え、構造がひどく不安定に見える。


「……圧縮しなさい」


 タノシが右拳をギュッと握りしめる。まるで空気でできた心臓を握りつぶすかのような動作。

 すると光球は一秒に一度の周期で内側へと収縮を始め、そのたびに「ドクン……ドクン……」という不気味な音が響き渡った。まるで太古の巨獣が長い眠りから目覚めるかのようだ。


 九回目の鼓動で、音は止まった。

 巨大なゼリーは今や、太陽よりも眩しい禍々しい緑光を放つ、引き締まったボーリング玉ほどの大きさになっていた。

 その恐怖の光景を前に、バリアの中にいる湯評でさえ思わず三歩後ずさった。安全な場所にいると分かっていても、本能が警鐘を鳴らす。


 タノシは平然としたまま腕を伸ばし、狙いを定めると、射撃のポーズをとった。

 ――ドンッ!

 迫撃砲のような轟音が大海原に轟く。

 光球は雷鳴のごとき勢いで火山口へと吸い込まれ、一瞬で姿を消した。残ったのは、薄い灰色の煙だけだ。


「…………」

「…………」

 長い、沈黙の十秒間。

 湯評は身構えていたが、爆発も、キノコ雲も、溶岩の噴出も、何一つ起こらない。


「威力が足りなかったんですかね? タノシ……」

 湯評がタノシの方を向き、もっと強いやつを、と言いかけたその時。


 ――ドォォォォォン!!


 激越な爆発音が響き、火山が激しく揺れ始めた。山肌に次々と亀裂が走り、卵の殻が割れるように山脚から全方位へと広がっていく。戦慄を覚えるような劈開へきかい音が響き渡り……。

 そして、音が止まった。


「お……終わったのか?」

 湯評が唾を飲み込む。


 ――ズドォォォォォォォォン!!!


 先ほどとは比較にならない猛烈な爆発が起こり、目の前に前代未聞の超巨大爆発が展開された!

 巨大な火柱が天を突き、恐ろしくも美しい橙赤色の光が世界を染める。

 大量の黒煙が真っ白な雲を侵食し、灼熱のマグマが高空へ舞い上がり、雨のように降り注いで全てを破壊していく。

 恐竜時代の終焉を彷彿とさせる惨劇が、六六〇〇万年の時を経て再現された。


 瞬く間に、沸き立つ溶岩が島全体を飲み込み、大海原へとその版図を広げていく。

 溶岩が冷たい海水に触れるたび、耳を刺すような蒸発音が四方八方から聞こえてきた。

 島の面積は、目に見える速さで拡大していく。一倍……二倍……四倍……十六倍……。

 六時間に及ぶ激闘の末、かつての大豆のような小島は、果てしなく広がる「大陸」へと成長を遂げていた。


 しかし、今の島に植物の一株すら存在しない。あるのは煮えたぎるマグマと焦土だけだ。

 灰が舞い、絶望的な死気が大地を覆い尽くしている。まさに世界の終わり(ルビ:アポカリプス)だ。

 この元凶は、隣にいる銀髪の美女……いや、やらせたのは自分だ。自分の責任なのだ。


(ダメだ! 旅は始まったばかりだ、これくらいで怯んでどうする!)

 湯評は必死に首を振り、罪悪感を振り払おうとした。

(破壊があってこそ、再生がある。この焦土に再び命が芽吹けば、今日の犠牲も許されるはずだ……)


 少し落ち着きを取り戻した湯評は、未だに噴火し続けている火山口を指差して言った。

「タノシ様、申し訳ありませんが、一旦あれを止めてもらえませんか? あのままじゃ再建どころか、カモメ一羽すら住めませんよ」


「………………………………できるわよ」


(おいおい、なんだよその不気味な沈黙は!?)

(お嬢様、本当に止められるんだろうな!?)


 湯評が「疑わしいな」という視線を送った瞬間。

 バシィッ!

 光球の中に突如として触手が現れ、湯評を地面に叩き伏せた。

 タノシは崇高な裁判官のごとく、無礼者に制裁の鉄槌を下したのだ。


「偉大なる邪神を疑うな、人間!」

「……っ…………」


(昔、お年玉を取り上げようとした母ちゃんに『本当に銀行に預けてくれるの?』って聞いた時も、こんな風に誤魔化されたっけな……)

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