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第19話:スーパーコンピュータ・モニカ

**(ヒュゥゥゥ……)**

静まり返った空気がうねり始め、二人の衣の裾が風もないのにたなびく。

ここは海底の祭祀神殿。出入り口はすべて結界で覆われており、海水はおろか、空気すら入り込む余地はないはずだ。

ならば、この肌を刺すような冷たい妖風がどこから吹いてくるのか、もはや説明の必要もないだろう。


「男っていうのはね、外で遊びたがるものよ。帰る場所さえ忘れないでいてくれれば、それでいいわ」


タノシは腰を上げなかった。

ソファに深く身を預けたまま、手の中のグラスをゆっくりと揺らしている。


「我が主よ、あえて直言させていただきます。滄海ソウカイ国には『家花(妻)は野花(愛人)の香りに及ばず』という古い言葉がございます。古人の知恵というのも、案外馬鹿にはできませんわ」


青嵐セイランは茶器を手に取り、酔い覚ましの熱い茶を注ぐと、タノシの前に置いた。


「表舞台に出せない関係なんて、どうせ悲惨な末路を辿るだけよ」


タノシは無表情だった。

差し出された茶には目もくれず、手の中の赤ワインを一気に煽る。


「それは気が早すぎるというもの。正妻を離縁し、側室がのし上がるなど、歴史上には数えきれないほどの事例がございます。特に皇室においてはね」


セイランは微笑を浮かべながら、黒糖饅頭の袋を破り、皿にも盛らずにタノシの前に投げ出した。


「男の言葉なんて、全部嘘っぱちよ。『永遠』なんて口にするのも、ただの遊びに過ぎないわ。それを本気にする馬鹿な女がいるとしたら、滑稽としか言いようがないわね!」


タノシはさらにワインを注ぎ足す。

一方、セイランは三袋目の饅頭を破り始め、止まる気配がない。


「本気にして何が悪いの? 私はつい先日まで処女きよい身でしたし、経験も浅うございましたから。……誰かさんみたいに、数千年も生きておきながら、操を守るのが精一杯で枯れていくなんて、幼稚だとは思いませんこと?」


**(バリィッ!)**

セイランの手の中でビニール袋が無残に引き裂かれた。饅頭が次々と床に転がり、ドンドンドンと乾いた音を立てる。

だが、そんな些細なことはもはやどうでもよかった。

部屋の中に二つの目に見えない烈風が吹き荒れ、それらが激突することで、更なる惨劇が引き起こされたからだ。


鏡やガラスにひびが入り、自ずから砕け散る。

木製の家具がギチギチと悲鳴を上げる。それは過度な圧力を受け、爆発する寸前の前兆だった。


第三次世界大戦が勃発するかに見えたその時、ドアの外からもう一人の人物が入ってきて、一触即発の事態を遮った。


「タノシ様、近海域の海図作成が完了いたしました。セイラン様の術式を併用し、八十一箇所の『聚霊陣じゅれいじん』を配置してあります」

「これらは九本の海底龍脈を形成し、霧散した魔力を集中的に回収、最終的にはこの島へと還元します。これにより、タノシ様の神力消耗は大幅に軽減されるはずです」


モニカは左手を胸に当て、うやうやしく頭を下げて報告した。


「……ふん」

タノシとセイランは同時に鼻を鳴らし、申し合わせたように視線を逸らした。


「苦労をかけたわね。数日ほど休みをあげたいところだけど、国内は人手不足よ。当分は残業してもらうことになるわ」

タノシはグラスを置き、ソファにだらしなく体を沈めて足を組んだ。


「お役に立てることは、私にとって至上の光栄です。私がこの世界に産み落とされた目的は、偉大なる神に仕えること。どうぞ遠慮なさらず、私にさらなる任務をお与えください」


モニカの誠実な言葉に、タノシは満足げに目を細めた。

「忠実なる下僕をアンタのところへ向かわせたわ。合流したら、仕事の引き継ぎを行いなさい」

「御意に」


「……それで、そこの『お古の野花』さん。各族への通知は済んだの?」


セイランの額に青筋が浮かぶ。

だが、公務を優先し、彼女は怒りを押し殺した。


「ここの時空の裂け目は確かに他より多いわね。日月が交わる瞬間を狙って、眷属専用の魔力信号を送ったわ。向こうも受信したし、準備を始めている」

「四、五日、遅くとも一週間後には、亜青龍アセイリュウ凍土魔狼トウドマロウ太陽猟鷹タイヨウリョウヨウ五色水母ゴシキクラゲ幽影血牙鯙ユウエイケツガウツボ……これらの部族が群れをなして移住してくるわ。今後はこの地に定住し、我らと共に戦うことになる」

「それから、瑶池仙姫ヨウチセンキ紫藤樹妖シトウジュヨウ、その他小規模な部族も合流を希望しているわ。最終的な数は、予想を上回るでしょうね」


セイランは淡々と任務の結果を報告した。

組織のナンバーツーとして、彼女の優秀さは相変わらずだ。

現在、新手市の戦線を維持するだけで精一杯だった戦力は、これで一気に拡大する。

兵力が整えば「魔土」の範囲を広げ、周辺地域を少しずつ侵食していける。来年の今頃には、エリンデ共和国の全土が手中に収まっているだろう。


「人間の戦火が大陸の隅々にまで広がっているようね。飽きもせず戦争を繰り返すなんて、さすがゴキブリ並みの下等生物だわ。一掃したところで、翌年にはまた湧いてくる。……背後に『白砂神族ハクサシンゾク』の干渉があるのは間違いないでしょうね」

「……それと、以前命じられた『あの命令』も各族に伝えました。彼らが従うかどうかは保証できませんが」


あまり伝えたくない命令ではあったが、奴隷契約の縛りがある以上、セイランに拒否権はなかった。


「よろしい。アンタが職務に忠実なら、たまに忠実なる下僕にアンタの相手をさせてあげてもいいわよ。許可してあげる」

「…………」


セイランは派快に白目を剥いた。

(ふん! あんたの旦那は私の旦那でもあるのよ。夫婦で睦まじくすることに、処女うぶなあんたが口出しする権利なんてないわ!)


セイランは深々と一礼すると、タノシの嫌味を無視して、そのまま部屋を後にした。




セイランが部屋を去った後、タノシはモニカに向き直り、問いかけた。

「……彼の計画書、読んだかしら?」


「もちろんです。102ページの書類データ、および56MBの電子ファイル、すべてに目を通しました。この程度の情報量であれば、私には三秒もあれば解析可能です」

モニカは淡々と、しかし淀みなく答えた。


「アンタの判断を聞きたいわ。あの計画書、出来はどう? 実行する価値はあるかしら?」


タノシは白砂神族のような正統な神ではないにせよ、高位の存在であることに変わりはない。

彼女は己の出自と血統に明確な矜持を持っている。いくら暇を持て余しているとはいえ、自ら進んで下等な人類を理解しようなどとは思わないし、ましてや彼らの政策の実現可能性を考察するなど、品位を貶める行為に等しいと考えていた。

だが、手元に知能の優れた駒があるのなら、使い倒さない手はない。


タノシは、湯評タン・ピンが自分なりの打算を抱いていることを承知していた。裏切らない限り、それは些細なことだ。

しかし、だからといって彼女が彼の「人類に利益を分配する」という計画を快く思っているわけでもない。

奴隷として使われるために創造された雑種どもが、呼吸をし、生き長らえているだけで、天に感謝すべきなのだ。

幸福な生活?

そんな贅沢、彼らには分不相応だ。


モニカは即座に、主人の言葉に隠された真意を察知した。

「文章には明記されていませんが、いくつかの政策は明らかに人間に寄り添いすぎています。我々のリソースを無駄に浪費することになるでしょう。ですが、引き換えに有用な『何か』を得られるのもまた事実です」


タノシはワイングラスを回し、傍らのモニカを一瞥した。

機械の体であるはずの彼女から、何かを言い淀んでいるような気配を感じ取ったからだ。彼女は視線で、先を促した。


「唯一奇妙なのは、それらの文書の中に、彼自身の利益に関する記述がほとんど見当たらないことです。将来的にこの国で地位を得ようとする野心すら感じられません」

「もちろん、彼が既に自らを『女神の夫』と定義している可能性はあります。一人(神)の下、万人の上に立つ至高の権力者であれば、目先の端金に興味を示さないのも頷けます」

「つまり……大義と執念が混ざり合った結果、そこには『自己』という成分が欠落している。そういうことでしょうか」


「そう。……ふふっ、無意味なこだわり、無価値な行動。なんて愚かな生物かしら。ねえ、面白いと思わない? 身近にこれほど滑稽な道化ピエロがいれば、退屈なんて無縁だわ。オリンポスの神々がこぞって人間界に降りたがるのも分かる気がするわね!」


銀髪の邪神は高らかに笑った。

つい先ほど、その「道化」と肌を重ねたことなど、まるで遠い夢物語であるかのように、嘲笑を隠そうともしない。


「仰る通りです」

モニカは同調するように頷いた。


しかし、それが失敗だった。

タノシは手にしていたグラスを、モニカの足元へ叩きつけた。割れたガラスと赤ワインが周囲に飛び散る。


「……何? アンタも彼を『道化』だと思っているの?」


タノシは眉を吊り上げ、冷笑を浮かべた。その声には底知れぬ怒りが潜んでいた。

モニカは、自分が致命的なミスを犯したことに気づいた。

主人が自嘲気味に口にする蔑称を、下僕がそのまま口にしていい道理はないのだ。


「滅相もございません! 言葉の選択を誤りました。……主よ、どうかお許しを!」

モニカは四肢を地に伏せ、神の許しを乞うた。


「ふん……」

タノシは再びソファに座り直し、黒糖饅頭の袋を掴んで口に運んだ。

出会った頃の彼の姿を思い出す。

光のない瞳、乱れた髪。全身から陰鬱な気配を漂わせていたあの男が。

今や新しい服を纏い、顔には自信を湛え、あろうことか主人の親友セイランにまで手を出している。

そして今、一介の人間に過ぎない分際で、神の力を利用して自分とは無関係な「人類の救済」などという琐事さじを成し遂げようとしている。


そう考えると、タノシはおかしくてたまらなかった。

人類が面白いのではない。湯評が面白いのだ。

彼をそばに置いておけば、さらなる愉悦を得られるに違いない。


「……それで、私はどうすればいいと思う? 血と骸骨の王座に座るべきかしら。それとも、花と泥にまみれた田舎の小道を歩むべきかしら?」


タノシはグラスに残った鮮紅の液体を揺らす。

それ越しに覗く世界は、まるで血の樽に浸かっているかのように赤く染まっていた。

選択の時だ。


「両方をその手に掴み、すべてを掌中に収めればよろしいかと」

「あなたは至高の神。この世界のすべてはあなたのものです」

「正義も悪も関係ありません。あなたはただ前へお進みください。私がすべての障害を排除し、その足元に柔らかなレッドカーペットを敷き詰めましょう」


モニカは主人の許しが出るまで動かず、額を地に擦り付けたまま忠誠を誓った。

しかし、その言葉は彼女なりの「本音」でもあった。


タノシは満足げに、顔を上げるよう手で示した。

「ふふ、ふふふ……。口が上手いわね、気に入ったわ。いいわ、彼の計画通りに進めなさい。モニカ、私が飽きるまで、全力で彼を補佐しなさい」


「……御意のままに」


こうして、密室内で「タノシ牧場共和国」の進むべき道が定められた。

後世の歴史書には、この日こそが「邪悪なる神の国の台頭」の始まりであると記されることになる。

だが、外の世界の人々は、まだ誰もその事実を知る由もなかった。




**(コツ、コツ、コツ……)**

誰もいない階段に、タン・ピンの足音が異様なほど大きく響き渡る。

彼は先ほど一度自室に戻り、シャワーを浴びて新しい服に着替えてから、ホテルの地下室へと足を運んでいた。

タン・ピンは入り口で深く息を吸い込み、意を決して足を踏み入れた。


実は、ずっと違和感を抱いていたのだ。これまでは仕事やタノシが引き起こす騒動に忙殺され、意識を削がれていたが、先ほどシャワーを浴びている時にようやく気づいた。

――なぜ、このホテルやTOSTTOビルでは、当たり前のように水道と電気が使えるのか?


最初は、建物ごとストレージ空間に収納し、無人島に到着してからタノシが取り出したのだと思っていた。だが、よく考えればそれだけでは説明がつかない。

蛇口から水が出るのは、屋上に貯水槽があるからだろう。だが、電力はどうだ?

これほど巨大な建築物が国家電力網から切り離され、非常用発電機だけで一週間以上も持つはずがない。

荒唐無稽な考えだが、可能性は一つしかなかった。

これらの建物は、海の向こう側にある「新手市」と繋がっているのだ。


それを確かめるため、地下室へ来る前にホテルの貯水槽と電気室を調べてみたが、案の定、そこには奇妙な魔法陣が刻まれていた。

この魔法陣を介して空間が連結されているからこそ、無限のエネルギー供給が可能になっている。

だが、このままではいけない。いずれエリンデ共和国が新手市の供給を遮断すれば、ここはただのコンクリートの塊と化す。

その懸念をタノシに電話で伝えると、彼女はこう答えた。

「もう対策は打ってあるわ。このホテルの地下室へ行きなさい。そこへ行けば、真実が分かるわよ」


タン・ピンは階段を下りながら、周囲の構造を観察した。

壁や床にはタイルも石材も貼られておらず、神術で地表をくり抜き、そのまま固めたような質感だ。

外の灰色の火山灰とは違い、褐紅色の土壌。通路全体が、まるで巨大な血管の中にいるような錯覚を覚えさせる。

壁には三、四メートルおきに壁灯が埋め込まれていた。

瑠璃るり色のシェードに包まれた指ほどの白い蝋燭が、オレンジ色の淡い光で通路を照らしている。現代的な電球ほどの明るさはないが、恐怖を感じさせない程度の光量はある。


やがて、タン・ピンは最下層に辿り着いた。

「……ここに地下室なんてあったのか? いつ建てたんだ?」

五、六階分は下りただろうか。タン・ピンは驚きを隠せなかった。

見渡せば、中央には広い廊下が走り、両側の壁には一定の間隔で金属板が垂直に立てられている。

いや、よく見ればそれは、開けることのできない「金属の門」のようだった。

タン・ピンは冷たい金属の表面から手を離し、さらに先へ進んだ。

前方から微かに波の音が聞こえてくる。ここは海に直結しているのだろうか?


疑問を抱えたまま廊下の突き当たりに出た瞬間、彼はその光景に圧倒された。


「……でかい!!!」


そこは、屋内サッカースタジアムほどもある広大な空間だった。

壁や天井には産業用の照明が並び、室内を白昼のように照らし出している。

部屋の半分は陸地、もう半分は海水で満たされており、そこには一隻の巨大な貨物船が停泊していた。

船体の中央には巨大な溝があり、まるで船が真っ二つに断たれているかのように見える。


無数の黒いドローンが空中に浮遊し、船体を適切なサイズに切断しては、部屋の隅へと整然と積み上げていく。

陸上ではポスト型のロボットたちが忙しなく動き回り、器具を解体したり、船体の破片を分別したりしていた。

ここは世界最高峰の「解体ドック」と言っても過言ではない。


あまりにもSF的な光景に、タン・ピンはGCP西部に存在するという「謎の施設」を連想した。

未確認飛行物体が頻繁に目撃され、軍高層部が異星種族と密約を交わしているという、あの噂の場所だ。


その時、タン・ピンの後方から、透き通った冷ややかな女性の声が響いた。


「……あなたが、タン・ピン?」


タン・ピンが振り返り、その女性の顔を捉えた瞬間、彼はその場に凍りついた。


絶世のクールビューティー。

漆黒の長髪に、頭上には一対の暗紅色の角。アメジストのような深邃しんすいな瞳は、見る者を惹き込んで離さない。

身長は165センチほどで、タン・ピンより少し低い。隙のない仕立てのレディーススーツを纏っている。

左胸の黒い布地には、世界と文明の象徴である「樹木と歯車」が金糸で刺繍されていた。


彼女を見た瞬間、タン・ピンの脳内に激しい痛みが走った。


(――夫くん……)

(――デリア・ソフィア……)

(――あなたが黒が好きなら、私はそれを着るわ……)

(――ここが地球? 素敵な場所ね……)


断片的な記憶の残滓が脳裏を駆け巡り、頭が割れるような衝撃に襲われる。


「ぐあぁっ!!!」


タン・ピンは両膝を突き、頭を抱え込んだ。顔には大量の汗が滲み、青筋が浮かぶ。

(彼女は……誰だ? どこかで会ったことがあるのか?)

(でも、何かが違う気がする……。あぁ! 頭が、混乱する!)

(苦しい……っ!!)


女性はタン・ピンの異変に動じることなく、無造作に右手を伸ばし、彼の額にそっと触れた。


「――初級治癒術ヒール


紫色の光が明滅し、タン・ピンの脳内のノイズが一瞬で消え去った。

まるで精神が真空状態に置かれたかのような感覚。心地よいわけでも悦ばしいわけでもないが、この静寂は……悪くない。


タン・ピンが落ち着きを取り戻したのを見計らい、女性は再び「友愛の手」を差し出した。


「私はモニカ。知恵の神メフィストが創り上げた最高傑作――あなたの分かる言葉で言うなら『超高性能AIコンピュータ』です。今後、私たちは共に仕事をすることになります。よろしくお願いしますね」

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