第15話-幽霊都市(ゴーストタウン)
「おじいさん、ここは今、立ち入り禁止ですよ」
防護服に身を包んだ男が前に出、電車を降りたばかりの老人を遮った。
「娘が銀行で働いておるんじゃ。今日はわざわざ会いに来たんじゃが、一体どうしたというんじゃ?」
古びた服を着た老人は、ホームの出口に張られた封鎖線を指差して尋ねた。
「おじいさん、ここは放射能漏れが発生したんです。街全体が封鎖されました」
「何だと? じゃあ、娘はまだ中にいるんじゃないのか?」
「それは……私には分かりません」
「そ、そんな……」
老人は膝から崩れ落ち、その場にへたり込んだ。
この十日間、娘から一本の電話もなく、心配でたまらずにわざわざ北上して探しに来たのだ。
病気か何かかと思っていたが、現実は想像を絶するほど複雑だった。
娘は仕事以外ではほとんど家に引きこもるタイプだ。避難の機会を逃し、家で倒れている可能性が高い。
もし逃げ出せていたなら、家に連絡がないはずがないのだ。
防護服の男は、老人を抱き起こそうとはしなかった。
それどころか、黙って出口に立ちふさがり、鋭い視線で老人を監視している。
ここ数日、電車でやってくる人間は少なくなかった。大半は政府の公式見解を聞いてすごすごと立ち去ったが、中には諦めきれない家族や、下心を持って探索を目論む輩もいた。
ホームを乗り越えて侵入を試みる。それが彼らにとっての「最適解」だからだ。
門番として駆り出されたこの三日間で、男はそんな人間を嫌というほど見てきた。
目の前で憐れを誘うこの老人も、その一人ではないか。
「十日前には『来月彼氏を連れて帰る』と言っていたんじゃ。どうしてこんなことに……。政府の対策はどうなっとる!? 娘はまだ中にいるはずだ、頼む、助けに行ってくれ!」
老人が突然立ち上がり、男に縋り付いた。
充血したその眼には、娘を想う純粋な絶望だけが宿っていた。
男は困惑したが、答えるべき言葉は決まっている。
「被害を拡大させないために、今は封鎖令を出すしかないんです。事態が落ち着けば、娘さんも救助されますよ」
「それはいつだ!? 今日か!? 娘の職場もアパートも知っておる。全部教えるから、今すぐ人をやってくれ!」
老人の叫びに、他の乗客たちもざわつき始めた。
「本当に放射能漏れか? 新手市に核施設なんてあったか?」
「核兵器じゃないのか? 昔、自衛隊の先輩が言ってたぞ。直轄市であり軍区でもあるこの街の周辺には、秘密兵器が隠されてるってな」
「実験室の事故かもな。どこかの議員が言ってたろ、『ミサイル国家隊』を作るって。あれに失敗したんじゃないのか?」
「政府のたわ言を信じてるのかよ。以前の艦艇チームもドローンチームも頓挫しただろ。結局は汚職の言い訳だ。大層なプロジェクトを立てて予算をポッケに入れ、任期が来たら知らんぷり。いつもの手口だよ!」
群衆は勝手な憶測を飛ばし、現場の空気は制御不能になりつつあった。
そこへ、別の防護服のスタッフが歩み寄ってきた。
感情を昂ぶらせるこの老人は、真っ先に「処理」すべき対象だった。
「おじいさん、申し訳ありませんがお約束はできません。中は今、混乱の極致にあるんです。専門家がサンプル採取に入っていますが、結果が出るまでには時間がかかります」
「いつまで待てばいい!? 娘は病気で動けないのかもしれん。今すぐ助けてくれなきゃ、一人で死んでしまう!」
「落ち着いてください! 大統領の命令で軍が介入しました。ほら、あそこを車列が通っています。まずは資料を書いてください。私が責任を持って上層部へ渡しますから!」
スタッフが駅の外を指差すと、数台の軍用トラックが轟音を立てて走り去っていくのが見えた。
その光景に、集まった人々はいくばくかの安堵を覚えた。
「分かった……頼む、娘を助けてくれ!」
老人はスタッフの腕を強く掴み、最後の藁に縋るように叫んだ。
それを機に、スタッフの一人が拡音器を掲げ、群衆を誘導し始めた。
「中に入りたい方、家族を探している方、今は入り口を開放できません! 混乱を防ぐためです。まずはこちらで資料に記入してください。政府が必ず対応します!」
人々は三列に並び、順に記入を始めた。
列の先頭にいた老人は、すでに娘の居場所を書き終えていた。
彼は群衆を抜け、鉄製の改札越しに遠くの交差点を眺めた。
そこには豪華な五つ星レストランが見える。大理石の柱と高いガラス扉を備えた、気品ある建物だ。
最後の一台の軍用トラックがその角を曲がり、巨大な影に飲み込まれて姿を消した。
**(ダダダダダッ!!)**
激しい銃声が響いた。
一人の兵士が小銃を掲げ、通りの一角に向けて狂ったように弾丸を浴びせている。
やがて、銃身の震えが止まった。
二度、三度と引き金を引くが反応はない。イ・ヒョンプンは弾倉が空になったことに気づいた。
「くそったれ……」
ヒョンプンはゴミ箱を蹴り倒すと、それを飛び越えて路地裏へと逃げ込んだ。
**(パキィッ!)**
背後で何かが割れる鋭い音が響く。
同時に、野獣特有の生臭い臭気が鼻腔を突いた。
振り返るまでもない。「それ」が来たのだ。
**(グルゥゥ……!!)**
背後から響く低い唸り声に、兵士は足を速めた。
狭い路地を抜けると、大通りが広がり、固く扉を閉ざした商店が立ち並んでいた。
右前方には、扉が開け放たれたままの暗いコンビニが見える。
兵士は迷わずそこへ飛び込んだ。
路上に乗り捨てられた車を飛び越え、コンビニの奥へと滑り込む。
棚の影に身を隠し、必死に息を整えた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
ヒョンプンは片手で口を塞ぎ、荒い呼吸を殺した。震える手で空の弾倉を抜き、胸ポケットから予備の弾倉を装填する。
チャージングハンドルを引くカチャリという音に、ようやくわずかな安心感を覚えた。
スナック菓子の袋の隙間から、路地の入り口を凝視する。
「…………」
誰もいない。
何一つ、動くものはない。
撒いたのか?
それとも、私が出てくるのを待っているのか?
ヒョンプンは銃を握りしめ、通りを慎重に走査した。
だが、どれほど時間が経っても異変は見当たらない。
がらんとした大通り、放置された車、そして――この、極致の静寂。
自分の呼吸音と、銃の部品が擦れる微かな音以外、何も聞こえない。
それが、異常だった。
本来、大都市の中央であれば、ビルの隙間を縫う風が笛のような音を立てるはずだ。
特に、街に数百人の政府関係者しかいない今の状況なら、風の音はより鮮明に響くはず。
だが、どこへ行っても重苦しい沈黙が支配している。
まるで巨大なガラスの鐘で、新手市を丸ごと覆い隠してしまったかのように。
一体どうなっている。
この街で、何が起きているんだ。
イ・ヒョンプンは深く息を吸い込み、例の生臭い臭いがしないことを確認してから、イヤホン型の無線機のボタンを押し、司令部へ呼びかけた。
「こちらビー8。ハニカム、感度あるか。どうぞ」
「…………」
無線機からは何の応答もなく、電子機器特有のノイズすら聞こえてこない。
ヒョンプンは再度、問いかける。
「こちらビー8。隊長、聞こえますか。どうぞ」
「…………」
依然として、静寂が支配している。
これは異常だ。
わずか三時間前、この街に足を踏み入れたばかりの頃は、まだ司令部と円滑に連絡が取れていたはずだ。
隊長の言っていたことは正しかった。この街の特定のエリアには、電子信号を遮斷する何らかの干渉が存在している。
だとしたら、どうやって助けを求めればいい?
俺がここにいることを、誰が知っているというんだ。
そう考えた瞬間、ヒョンプンの精神は崩壊しかけた。
先ほど起きた惨劇が、鮮明に脳裏に蘇る……。
「え? 放射能漏れって、嘘だったんですか?」
ヒョンプンが思わず声を上げると、隣の兵士が慌ててその口を塞いだ。
声が大きい、と目で制する。任務中に大声を出すのは、自分の位置を晒すも同然だからだ。
ヒョンプンは頷き、声を潜めた。
「どうして嘘なんてつくんです?」
「この街で起きていることは、俺たちが考えているよりずっと複雑なんだろうよ。少なくとも、ただの放射能漏れじゃ説明がつかないことが起きてる」
先頭を行く隊長が低く答えた。
路地から顔を出し、周囲の安全を確認してから、後続の隊員に前進の合図を送る。
「住民たちが跡形もなく消えちまった。上層部も解決策が浮かばねえから、とりあえずあの口実で民衆の口を封じてるのさ……少なくとも俺の解釈ではな」
隊長は紙の地図に印をつけながら、ヒョンプンの疑問に答えた。
「つまり……」
「いつもの手口ってことさ!」
隊長の隣にいた二人の同僚が、吐き捨てるように言った。
後ろの兵士たちも一様に頷く。上層部がどんな姑息な手を使うかなど、一兵卒の彼らでも膝で考えれば分かることだった。
だが、悲しいかな、その手口は確かに有効だった。少なくとも、一部の群衆はそれを鵜呑みにする。
愚かな民衆は賢明なリーダーを選べない。それは古今東西変わらぬ真理だ。
「そういう話は身内だけにしておけ。上官の前やネットで言うなよ。変な奴らに揚げ足を取られるからな」
隊長は苦笑いしながら、地図の一角に星印を書き込んだ。
「隊長、今回の任務……GPSも支給されずに、そんな古い地図を使ってるんですか?」
ヒョンプンの視線の先にある地図の隅には「2035年版」という文字が印字されており、彼は絶句した。
「おいおいヒョンプン、昨日のニュースを見なかったのか? 大統領閣下がオーダーメイドの高級スーツを着て発表してただろ。『純国産の次世代戦闘機を開発し、国防のレジリエンスを高める』ってな! 俺たちの装備を新調する金なんて、どこにも残っちゃいないのさ」
隣の兵士がヒョンプンの脇腹を肘で突き、「世間知らずめ」と言いたげな顔をした。
思い出した。この同僚は野党の支持者だ。与党が不祥事を起こせば、皮肉を言う機会を逃さない。
別の兵士も茶化すように続けた。
「全くだ! ネットのスクリーンショットをA4用紙に印刷して渡されなかっただけでも、ありがたいと思わなきゃな!」
「ははは……」
その精緻な皮肉に、全員が思わず吹き出した。
いかにも上層部がやりそうなことだったからだ。
軍隊はいつの時代も汚職の温床だ。前線の兵士に適正な装備が行き渡らなくても、特権階級は高級ホテルの個室で国家の未来を語り合っている。
国軍の戦力が向上したか、兵士の待遇が改善されたか……そんなことは末端の市民が考えることではない。
それよりも、来月の家賃をどう払うかを考えるのが先決だ。
捜索小隊は前進を続けた。
新手駅の臨時司令部を中心に、すでに3.7キロ地点まで進出している。
間もなく、噂に聞く「死の境界線」に到達するはずだ。
「気を引き締めろ! 近いぞ」
隊長が右手を上げ、合図を送る。
雑談は止み、全員が銃を構えて警戒態勢に入った。
この先、何を見ようが、ただ引き金を引くだけだ。
やがて広い十字路に出た。向かいの左側にあるビルが、軍が前線に設けた新拠点であり、今回の任務の中継地点だった。
そこで休息をとり、さらに先へと進む手はずになっている。
隊長は周囲を見回し、異常がないことを確認すると、無線のスイッチを入れた。
「こちらハニカム4。働き蜂は帰還できるか。どうぞ」
すぐに、明快な応答が返ってきた。
『こちらハニカム4。異常なし。働き蜂よ、戻ってこい』
その声を聞き、張り詰めていた一同の肩から力が抜けた。
どうやら幸運なことに、先輩たちが言っていたような「不測の事態」には遭遇しなかったようだ。
「了解。あと三分で到着する」
隊長が無線を終え、警戒を解く合図を送ると、皆が銃を下ろした。
その時、ヒョンプンは奇妙な臭いを感じた。
恋人が飼っているゴールデンレトリバーを、何日も風呂に入れていない時のような生臭い獣臭。
だが何かが違う。パック詰めの生肉を開けた瞬間に鼻を突くような、血なまぐさい臭いだ。
(ドンッ!)
何かが飛んできて、地面を転がり、一同の目の前で止まった。
「何だ!?」
突然の物音に、全員が飛び上がった。
慌てて銃口を向けた先には――空のペットボトルが一つ、転がっていた。
「ふぅ……。どこのどいつだ、ポイ捨てなんてしやがって」
一人の兵士が胸を撫で下ろした。
「よし、何でもない。みんな、移動を……」
隊長が言葉を終える前に、一条の緑色の閃光が彼の目の前を横切った。
(シュッ!)
直後、顔に生温かい液体が飛び散るのを感じた。
目の前が真っ赤に染まり、地面を転がる生首が、一つの事実を告げていた。
たった今、口を開いた兵士は――死んだ。
そして、向かいのビルの影から、「それ」がゆっくりと姿を現した。
それは巨大な「狼の頭」だった。
その眼は燃えるように赤く、鋭い牙が並ぶ口からは、大量の涎が絶え間なく滴り落ちている。もはや飢えを隠そうともしていない。
そして、その口元――。
そこには、**上半身だけになった兵士**が、がっちりと咥えられていた。
その兵士は焦点の合わない目で、まるで下半身を失った苦痛など感じていないかのような、はっきりとした口調で、手にした軍用無線機に向かってこう告げた。
『こちらハニカム4。異常なし。働き蜂よ、戻ってこい』




