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第13話-タノシVS青嵐(チンラン)

タノシはそこに立っていた。墨のように黒いロングドレスを身に纏い、その裾は風もないのにゆらゆらと揺れている。

 彼女は何も語らなかったが、その瞳は氷のように冷たく、まるで死神が降臨したかのようだった。


「タ、タノシ様……」

 湯評タンピンは抱きしめていた腰から手を離し、恐怖に満ちた顔で窓の外に立つ神を見上げた。


「あなたたち……何をしているの?」

「見てわからない? 『愛し合って』いたところよ」


 青嵐チンランは立ち上がった。その絶世の裸体を晒すことも厭わない。どうせここにいるのは、自分に最も近しい者たちばかりなのだから。

 対するタノシは答えず、ただ冷徹にベッドの上の二人を見つめ続けていた。


 一人は自分の婚約者であり、この国の未来の執政官。

 もう一人は、自分が最も信頼していた親友であり、部下。

 その二人が、自分の背後でこのような不貞を働いていたというのか。


「タノシ様、これは本当に……」

 湯評が青嵐を背後にかばおうとしたが、それがかえって火に油を注ぐことになった。


「誰が口を叩いていいと言った!」


 タノシは手さえ上げず、ただ鋭い視線を向けただけで、湯評の体は弾き飛ばされた。

 彼は壁に激突し、崩れた瓦礫の山に埋もれていく。

 青嵐は愛した男の様子を確認しには行かなかった。彼の微かな気配はまだ感じ取れる、それで十分だった。


 今の彼女には、タノシから視線を逸らす余裕などなかった。

 いや……そこにいるのは姉妹同然の親友ではない。理性が崩壊する直前の「獣」だ。

 タノシの放つ気配は、かつてないほど低く沈んでいる。それは吉兆ではない。彼女が今、極めて危険な状態にあることを示していた。


 爆発の寸前。あと一突きで理性が消え去り、邪神としての本質に完全に戻ってしまうだろう。

 今最善の方法は、彼女の鋭い矛先を避け、神経を逆なでしないよう誠心誠意謝罪することだ。


「野蛮ね。いい女がすることじゃないわ」


(しまっ……た……)

 思わず本音が漏れてしまった。

 ここ数日の淫らな生活のせいで、脳のブレーキが壊れてしまったのだろうか。

 青嵐は少し焦りを感じたが、後悔はしていなかった。

 あるいは、ずっと言いたかった言葉だったのかもしれない。


 だが、その賭けは当たったようだった。

 タノシはその場で激昂する代わりに、信じられないものを見るかのように目を見開いた。

 千年以上も付き合ってきたが、青嵐がこれほど軽薄な言葉を、しかも自分に向けて放つのを聞いたのは初めてだった。

 タノシは一瞬、青嵐が誰かに洗脳されているのではないかとさえ疑った。


「ふん! 親友の婚約者と寝ておいて、反省の色も見せない。それがあなたの言う『いい女』のすることかしら?」

「……」


 相手の言うことは正論だ。自分のしたことは、決して誇れることではない。

 けれど……ここで引き下がるわけにはいかない!


「婚約者ですって? あなたはただ、夫君様を盾にしているだけじゃない。あなたが彼の契約書にどれだけ自分勝手な条項を詰め込んだか、私が知らないとでも思っているの?」


 青嵐がタノシに向かって鼻で笑ったその時、白い手のひらが突如として目の前に現れた。


「!」

 ――パァン!


 顔に衝撃が走り、意識が一瞬途切れた。

 二枚の壁を突き破ってようやく止まった時、青嵐は肉体を突き刺すような激痛を感じた。


「言葉に気をつけなさい、雑種が! 彼は『夫婿ふせい様』と呼ぶべきお方よ!」


 タノシの怒号が響き渡った。

 その声は空を震わせ、建物の中に不気味に反響する。


「たとえ紛い物であっても、彼は私の所有物よ。誰が手を出していいと言った! この恥知らずな雌犬が!」


 吹き飛ばされた青嵐は、反撃に出ることはなかった。

 瓦礫の中に静かに横たわり、赤く腫れ上がった頬をそっと撫でた。


「……」

(私を……殴ったわね……)


 言いようのない感情が胸にこみ上げ、青嵐は少し泣きたい気分になった。

 彼女はわざとタノシの攻撃を受けたのだ。相手に溜まった鬱憤を晴らさせるため、防御さえ解いていた。

 打たれた瞬間、青嵐の心には一筋の罪悪感が芽生えた。

 相手が一瞬、躊躇したことに気づいてしまったからだ。そうでなければ、今頃首と胴体は泣き別れになっていただろう。


 白砂の海の高貴なる神獣として、青嵐の道徳観はタノシよりもずっと高かった。

 タノシの感情が「憤怒」なら、青嵐のそれは「罪悪感」だ。

 今の自分を、ひどく醜く、情けなく思う。


 だが……今は自分を責めている場合ではない。それを表に出すわけにはいかない。

 パートナーと敵が傍で見ているのだ。ここで弱気を見せれば、自分が後ろめたさを感じ、後悔していることになってしまう。


(湯評はどう思うかしら?)

 彼は迷い、自分を責め、二人の関係は始まらない方が良かったのではないかと疑い始めるだろう。

 そうなれば、タノシは正当な理由を持って彼を奪い去ることができる。悪いのは自分なのだから。


 彼の伴侶として、共に誓いを立てた相手として、そんな結末は絶対に許せなかった。

 賽は投げられたのだ。やってしまったことは変えられない!

 彼女はもう湯評の女であり、湯評もまた、彼女の最も大切なものを受け取ったのだ。

 誰にも邪魔はさせない。反論も許さない。

 たとえこの関係が裏切りの上に築かれた、不道徳なものだったとしても。


 タノシの言う通り、自分は「雌犬」だ。

 だからこそ、親友の男を愛し、恥も外聞もなく肌を重ねた。

 ならば、毒を食らわば皿まで。湯評を完全に自分のものにしてみせる。


「いい? 恋愛において愛されていない方こそが泥棒猫なのよ。勘違いしないで、このクソ女!」


 下品な言葉が青嵐の口から次々と飛び出す。

 そこには龍族第一の淑女の面影などなく、ただの口の悪い女がいた。


 これでタノシも完全に頭に血が上った。

 瞬時に青嵐の目前へと移動し、背後の触手が残像を描いて振り下ろされる。龍姫の膝がその場で砕かれた。

 タノシは青嵐に跨り、容赦なくその頬を叩き続けた。


「恩知らずの泥棒猫! 今の地位が誰のおかげだと思っているの! 私や父神様がいなければ、あなたは今頃あの老いさらばばれた龍の48番目の妻にでもなっていたはずよ!」


 タノシは目を血走らせ、拳に込める力をさらに強めていく。

 しかし、青嵐はその拳の合間を縫って、思い切り頭突きを見舞った。


 互いに火花が散るほどの衝撃に視界が歪む。だが、先に罵声を浴びせたのは青嵐だった。お返しと言わんばかりにタノシの顔を張り飛ばす。


「そうね、自分一人の手柄じゃないって認めたわね! あの時助けてくれたのはウルレシ様とフレア様よ。あなたなんてこれっぽっちも関係ないわ! ああ、忘れてた。あなたはあのおじい様に叩きのめされて意識を失っていたものね。何が起きていたか知るはずもないわ!」


 煽り続ける青嵐に、タノシの堪忍袋の緒が切れた。


「殺してやるわ! このビッチ!!」

 タノシが裏拳で青嵐を再び吹き飛ばす。


「やれるもんならやってみなさいよ! 野良犬みたいにキャンキャン吠えちゃって。ずっと我慢してたのよ、あなたのその態度!」


 二人は泥沼の取っ組み合いを始めた。

 もちろん、その拳よりも、言葉の刃でいかに相手の心をへし折るかに執着していた。


「恥知らず! 恥知らず! 恥知らず!」

「行き遅れ! 行き遅れ! 行き遅れ!」

「海藻ばかり食べてるミミズ野郎!」

「怠け者のイカ娘!」

「不潔な女!」

「誰にも相手にされないオールドミス!」

「死ねぇぇ!!」

「消えなさいよぉぉ!!」


 やがて、実力に勝るタノシが再び青嵐を組み伏せた。

 境界の差は歴然であり、体内の魔力量も違いすぎた。


「どうして……どうしてこんなことができるの! 私はあんなにあなたを信じていたのに!」


 タノシは涙を流しながら叫び、重い一撃を叩き込んだ。

 もし彼女が、採取したばかりのサンプルを忠実な下僕に見せようと急いで戻ってこなければ、この二人の泥棒猫は今もベッドで睦み合っていたに違いないのだ。


「最初に『先陣を切ってほしい』って言ったのはあなたじゃない! 言われた通りにしてあげたのに、逆ギレなんてお門違いよ!」

 青嵐は血を吐き出しながら叫び返す。


「私は『毒見』をしろと言ったのよ! 料理を全部平らげろなんて言ってないわ!」


 親友と婚約者が、裸で抱き合い、互いの体へと溶け込もうとする姿を見た時、タノシの脳は初めてフリーズした。

 自分が身を粉にして山を越え海を越え、サンプルを採取し環境を視察している間に、最も信頼していた二人に裏切られたのだ。

 ネットで見かけたあの言葉が頭をよぎる――「火の用心、泥棒用心、親友用心」。

 ネット民の言葉に嘘はなかった。


「いいじゃない! どうせあなた、自分から食べる気なんてなかったんでしょ? なら私が先に味見してあげたのよ。それがあなたの狙いだったはずじゃない!」

「助けろとは言ったけれど、奪えとは言ってないわ!」

「はっ!」

 青嵐は冷ややかに笑った。

(美味しいところだけ持って行って、汚れ仕事は全部私に押し付ける。虫が良すぎるのよ!)


「いいわ。もう味見は済んだし、質も最高だった。あなたの所有物だって言うなら、返してあげるわよ!」


 青嵐はわざと無関心を装って言った。

 もちろん嘘だ。もしタノシが「受け取る」と言えば、その場で死に物狂いで食らいつくつもりだ。

 案の定、タノシはその挑発に乗った。


「あなたが使い古した物なんて、いらないわよ!」

 自分をリサイクルショップ扱いされたことに、タノシの怒りは頂点に達した。


「いいわ、あなたがそう言ったのよ! 今日から湯評は私の夫君様。親愛なるご主人様……、もう二度と彼を婚約者だなんて呼ばないで! 気安く触れないでちょうだい。虫酸が走るわ!」


 その言葉で、タノシの理性は完全に断線した。

 彼女は容赦なく掌を振り下ろした。今度は手加減などしない。この女の頭蓋を粉々に砕くつもりだ。


 ――パァン!


「!」

 タノシは目の前の女を凝視した。

(信じられない……私の全力の一撃を……受け止めた!?)


 それだけではない。彼女の傷の回復が異常に早い。これは……。


 ――ドォォォン!


 強大な気圧が龍姫の体内から爆発的に放たれ、跨っていたタノシは吹き飛ばされた。

 タノシは空中で身を翻し、静かに着地した。

 目の前の光景に、彼女は驚愕を隠せずに呟いた。


「これは……『突破ランクアップ』……!?」


 神へと至るつもりか?

 あり得ない。青嵐も自分と同じ「外来者」だ。世界の意思が、そう簡単に境界を越えることを許すはずがない。

 タノシが「失敗する」あるいは「雷劫に打たれる」と確信したその時――。


 水神結界内のすべての魔力が、一箇所に集まり始めているのを感じた。

 その目的地は……青嵐だ。

 常識では考えられない予感が、タノシの脳裏をよぎる。


「嘘でしょう……」


 魔力が流れ込むにつれ、青嵐の気配は肥大し続ける。激痛に耐えかねた彼女は、喉が裂けんばかりの悲鳴を上げた。


「ああああああああ!」


 鮮やかな碧色の光が青嵐の全身を包み込み、燃え盛る炎のように彼女を苛む。

 空には幾重もの雷鳴が轟き、周囲百里の植物が狂ったように成長を始めた。

 青嵐の周囲には、蒸気が凝結した巨大な龍が数体現れた。

 それらは歓喜の咆哮を上げ、自分たちの王の誕生を祝福しているかのようだった。


 青嵐のエネルギーは蓄積され、高まり、ついに頂点に達し――。


 ――パキィィン!


 人間に擬態していた鱗がすべて砕け散り、天を衝く光柱も消え去った。

 すべてが静寂へと戻っていく。


 その一部始終を、タノシは最前線で見届けていた。

 彼女は警戒を解くどころか、全身の力を振り絞って防御態勢を取った。

 逆立つ産毛、無意識に震える筋肉。それらすべてが、一つの事実を告げていた。


(この女……強い!)


 嵐の中心、立ち込める煙の中から、緑の髪を持つ龍姫がゆっくりとその瞳を開いた。



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