第9話:暗闇の森の仲間たち
龍族の美女は風呂から上がったばかりのようで、バラのボディーソープの香りがふわりと鼻をくすぐった。
海藻のように美しい秀髪は白いヘアバンドでまとめられ、無造作に肩にかけられている。そこから覗くのは、雪のように白く細い首筋だ。
至近距離で見つめると、タン・ピンはそこに透ける、わずかな静脈の紋様さえ目にすることができた。
「俺……」
「ああ、これを取りに来たんだろ? ちょっと待っててくれ」
「???」
タン・ピンの言葉に、セイランは呆然としながらも、素直に彼の後をついて部屋の中へと入った。
最後に彼女はドアを閉めるのを忘れず、ドアノブの鍵までしっかりとかけると、ようやく安堵の溜息を漏らした。
「ふぅ……」
タン・ピンにも鍵をかける音が聞こえたが、彼は何も言わなかった。ただ、この娘は相当恥ずかしがり屋なのだろうと思っただけだ。
「俺は女じゃないから、こういうのは印象で選ぶしかなかったんだ。市場で人気のある製品を一つずつ持ってきたから、あとは必要に応じて選んでくれ」
「???」
セイランは、テーブルの上に並べられた小さな四角い物体(生理用ナプキン)を見つめ、脳がフリーズ状態に陥った。
彼女は覚悟を決めていたのだ。
彼女の知る「男」という生き物の理解によれば、乱暴に部屋へ引き込まれ、そのまま「手順」が始まるはずだった。
それなのに……一体これはどういうことだ?
私の言い方が足りなかったのか? それとも彼が何か勘違いをしているのか?
あるいは……これがこの星の人類における「愛の誓いの品」なのだろうか?
(受け取るべき? ど、どれを受け取ればいいの……?)
テーブルの上の物体と隣のタン・ピンを交互に見つめ、セイランの顔には困惑の色が広がった。
今度はタン・ピンが困惑する番だった。
彼は考え込み、ハッと気づいたように言った。
「この世界に来たばかりだから、使い方が分からないんだな。簡単に言えば、女の子はこれを『あそこ』に当てるんだ……たぶん。そうすれば血が吸収されるから、あとは捨てるだけ……たぶん」
「こっちが昼用で、こっちが夜用、こっちはロングタイプだ。なぜこんなに種類があるのかは聞かないでくれ、俺も知らないんだ……」
身振り手振りを交えたタン・ピンの「熱血レクチャー」を聞き、セイランもようやく相手の意図を理解した。
「違う、違う! 私はそんなことのためにここに来たんじゃないわ!」
セイランは両拳を握り、顔を真っ赤にして否定した。
「は……?」
タン・ピンは呆然とした。
これ以外に、真夜中にわざわざ男の部屋にやってくるほどの重要な用件など、彼には思い当たらなかった。
「わ、私は……あなたのことを知りたいの!」
(あぁ! 言っちゃった!)
龍姫は、自分の口からその言葉が出たことに、どこか高揚感を感じていた。
「俺のことを知りたい? なんで?」
(あんたのことが好きになっちゃったからに決まってるでしょ! そんなこと言えるわけないじゃない!!)
タン・ピンの疑問に、セイランは一瞬でパニックに陥った。脳内でシミュレーションしていた流れは、跡形もなく消え去っている。
彼女は必死に理由を探した。
「ええと……それは……そう! あなたの契約書を見せてほしいの!」
「俺の契約?」
「コホン! 私たちはこれから仲間になるんだもの。あなたの状況を知っておきたいのよ。そう、そういうこと!」
「そ、そうか?」
セイランが急に激昂したため、タン・ピンは少し気圧された。
どうせ自分には内容が読めないのだ。彼女に見せても支障はないし、解析してくれるかもしれない。そう考えたタン・ピンは、右腕を上げて水神の印を起動させた。
念じると、二人の前に緑色の光球が浮かび上がった。
「どうだ?」
「!」
セイランは絶句した。
タノシが契約に細工をすることは予想していたが、これはあんまりだ。
「タノシはタン・ピンに属し、タン・ピンはタノシの所有物である」という点は問題ない。
だが、付帯条項があまりにも多すぎる。
「タノシを裏切ってはならない」「タノシの利益を損なってはならない」「外部の者にタノシの情報を漏らしてはならない」……。
それらに背けば、タン・ピンがどうなるかという罰則が、びっしりと書き込まれている。その数、およそ百条項。
中にはどうでもいいような規定や、似たような意味の条項も含まれていたが、タノシはそれらを執拗に盛り込んでいた。
「概ね……大きな問題はない……はずよ」
セイランは後ろめたさを感じながら、光球を凝視した。タン・ピンと目を合わせる勇気はなかった。
タン・ピンはそれに気づかず、ただ安堵して息を吐いた。
「そうか、なら良かった! そういえば、契約した直後に見たとき、星の環のようなものが二つ増えていたんだ。あれが何か知ってるか?」
「……最初からそうだったんじゃない? あなたが正しく起動できていなかっただけで」
「タノシ様もそう言ってたな」
タン・ピンは少し釈然としない様子だったが、証拠もない。この人の良さそうな青龍のお姉さんに頼るしかなかった。
どうやらタノシも度が過ぎたことはしていないようだ、と彼は自分を納得させた。
セイランはふと思い出した。タノシが以前、「タン・ピンには私の神術、特に催眠や洗脳系が効かない」と言っていたことを。
(まさか彼女、最初の失敗を埋め合わせるために、狂ったように修正パッチを加えたのかしら……?)
いかにも親友らしいやり方だ。
神への道を歩む中で、タノシも自分も「戦闘至上主義」を貫いてきた。二人とも頭を使うことや陰謀を企てることは苦手だ。
だからこそ、タノシがこっそり契約に中身を詰め込んだのも、無理からぬことだと思えた。
そう考えると、セイランはタン・ピンに対して感心せずにはいられなかった。
これほど過酷な条項があるにもかかわらず、彼は一つも触れることなく、それどころかタノシが要求してもいない余分な仕事まで自ら引き受けている。
(彼は、信頼できる人間だわ)
タノシもそう思ったからこそ、後から条項を増やすのをやめたのだろう。
条項の最後に書かれた一文――「契約当事者のうち、実力が勝る一方は、付帯条項を削除する権利を有する」。
この余計とも思える一文こそ、タノシの心の迷いと優しさの証拠だった。
(タノシは運がいいわね。こんな稀有な人材を拾い上げるなんて。……だとしたら、私だって……)
「あの……もう時間も遅いし、契約も見終わったことだし、セイランさんもそろそろ……」
「旦那様……いいえ、タン・ピン!」
「はいっ?!」
急に真剣な声を出され、タン・ピンは飛び上がった。
「あなた……私のことを、どう思っているの?」
「は?」
タン・ピンは呆気にとられた。
独身生活二十余年。ギャルゲー以外の現実世界で、これほど告白じみたセリフを聞くことになるとは予想もしていなかった。
セイランは勝手にベッドの端に腰を下ろすと、自分の指先をいじりながら、俯いて言葉を紡いだ。
「今の姿は幻化(変化)したものよ。この外見を設定したときは何も考えていなかったし……だから、他の人が気に入ってくれるかどうかも分からなくて……」
前髪の影が彼女の端正な顔を隠している。
空気には気まずさが充満し、彼女自身、今すぐ逃げ出したい衝動に駆られていたが、それでも踏みとどまった。
成功か、失敗か。ここで決着をつける。
「だから……その……聞きたいの。タン・ピン、あなたは私のこの姿が好き? 顔立ちとか、体つきとか……あなたの好みに合っているかしら? 自惚れに聞こえるかもしれないけど、あっちの世界では、私を好きな人間もたくさんいたのよ!」
「そ、そうなのか……!」
「あぁ! 背が高すぎるかしら? やっぱり男の子は、自分より少し背の低い女の子の方が可愛くて好きなのよね……。でも私はもう定まってしまったし、タノシみたいにベニクラゲ形態で身長を変えることもできないし……!」
タン・ピンのわずかな表情の変化を、セイランは敏感に(そして誤解を交えて)捉えた。
身長の問題だけはどうにもならない。白砂の海に住む人類は地球人よりも大柄であり、彼女の身長はあちらでは平均的だった。
まさかこんな些細なことが恋の障害になるとは。失策だ。
……いや、諦めるのはまだ早い。
タノシが以前、彼の恥ずかしい話をこっそり教えてくれたことがあった。
二人が初めて会ったとき、タン・ピンの視線はずっとタノシの胸元に釘付けだったという。
そして、彼は豊満な女性が好みらしい。タノシによれば、彼の「パソコン」という機械の中にある絵画や文献、彼が収集した作品の最大の特徴は、ハーレム設定、そして「巨乳」だった。
あの時の笑い話が、今や最大の武器になる。
タノシにあるものは、自分にもある。
彼がタノシだけを好きで、私に溺れない道理はない。
「!」
驚愕するタン・ピンの目の前で、セイランは深く息を吸い込んだ。
そして立ち上がると、タン・ピンに向かってバスローブのベルトを解いた。
バスローブが床に滑り落ち、世の男性たちを集団暴動へと駆り立てるに十分な肉体が、あまりにもストレートにタン・ピンの眼前に晒された。
「?????」
「ち、違う! セイランさん、何してるんだ?!」
タン・ピンは慌てて両目を閉じ、手を振り回して彼女を止めようとした。
だが、セイランがここで止まるはずもない。
彼女は一歩踏み出し、タン・ピンの目の前に立った。
そして彼の手を掴み、無理やり本当の自分と向き合わせた。
「ここに来た時点で、私は覚悟を決めているわ! 旦那様……いいえ、タン・ピン様。私を……可愛がってください!」
「いやいやいや! 何を言ってるのか全然分からないから!」
逃げようとするタン・ピンだったが、両手をガッチリと掴まれ、びくともしない。
(見た目は女の子なのに、なんて力だ……! これが巨龍の実力か!)
「知ってるのよ。あなたは胸の大きな女が好きだって、タノシから聞いたわ。触ってみて……サイズだって、タノシに負けていないはずよ。彼女ほど柔らかくはないかもしれないけど、形とハリには自信があるんだから!」
セイランはタン・ピンの手を掴み、その掌を自分の胸元の柔らかなふくらみへと押し当てた。
彼女は無理やり彼にそこを揉ませながら、羞恥に頬を染めて囁いた。
タン・ピンは天国と地獄の間を往復するしかなかった。脳は「極めて危険」という信号を発信しているが、手の方は制御を失い、オートモードで動き続けている。
彼は気づいてさえいなかった。セイランの手はとうに離れているのに、自分だけがまだその感触を求めて動いていることに。
「自分をもっと大切にするべきだ! こういうことは、好きな人と……」
「好きよ」
「え?」
セイランが放った迷いのないストレート。タン・ピンはバットを振る暇さえなく、瞬時に撃ち抜かれた。
同時に、彼の両手も止まった。
「で、でも……」
「女の子がここまで言っているのに、まだ私に恥をかかせるつもりなの!」
目を泳がせ、言い訳ばかりを繰り返すタン・ピンに、セイランもついに火がついた。
少しは体面を保たせてくれるかと思っていたが、よもやこれほどまでの意気地なしだとは思わなかった。度重なる拒絶。
言語道断、これではまるで屈辱ではないか!
彼女は白砂の海でも指折りの美女なのだ。海中の魔獣であれ、陸の神々であれ、彼女に恋焦がれ、自ら告白してきた相手は三つの海溝を埋め尽くすほどいた。
なぜ、わざわざ人間なんかに自分から告白して、これほどまで辱められなければならないのか!
(じゃあ、さっきまであんなに楽しそうに揉んでいたのは何だったのよ? 私のことはただの遊びだったっていうの!?)
「私の目を見て! 私のことが嫌いなら、目を見てそう言いなさいよ!」
「…………」
タン・ピンは目を開けることも、返事をすることもできなかった。
かつての過ちが脳裏をよぎる。
一時の口を滑らせたせいで、手にするはずのなかったものを手に入れ、その結果、無数の人々を巻き込み、命を奪ってしまった。
そして何より……自分なら「イエス」と言ってしまうことが分かっていた。
セイランが絶世の美女であることは疑いようがない。
会議中、どれほど冷静を装っていても、実はこっそり彼女の胸を観察していた。
美しく、血筋も正しく、高貴な生まれで、実力も強い。
人間ではないという点を除けば、欠点など一つも見当たらない。
しかし……それは自分とは無関係なことだ。
タン・ピンはタノシやセイランのような、働いたことのないお嬢様ほど天真爛漫ではない。社会の仕組みも、自分がどんな人間かも嫌というほど知っている。
才能もなく、貯金もなく、家さえない。
もしタノシに出会っていなければ、彼の行き着く先は「忘憂森林」しかなかっただろう。
彼には相手に報いられるものなど何もない。
天秤の重りは釣り合ってこそ、二人の関係は安定する。
可愛い女の子が理由もなく自分に尽くしてくれるなど、そんな都合のいい話は漫画やライトノベルの中にしかない。
彼女が自分を好きになる理由が見当たらない。この突如訪れた「幸運」が、彼には恐怖でしかなかった。
だから、沈黙し、拒絶する以外に道はなかった。
タン・ピンが知る由もなかったのは、彼の沈黙によって、セイランの脳内でも嵐が吹き荒れていたことだ。
彼女は相手が発する感情の因子から、その思考を読み取ろうとしていた。
最初はパニック、次に性欲の芽生え、そして今は「絶対的な冷静」。
なぜこれほどの落差が生じるのか?
(彼が弱すぎるの? それとも私が強引すぎた? ……まさか、私がタノシほど綺麗じゃないから!?)
その可能性に思い至り、セイランの怒りはさらに燃え上がった。
フレイア様ほど艶やかではないことは認めるが、同時代の絶世の美女であるタノシ相手なら、十分に渡り合える自信がある。
それは自惚れではなく、確信だった。
「伴侶を選ぶなら、やっぱりセイランだ」という声を、彼女は何度も聞いてきた。
あのクトゥルフも美しいが実力も強すぎる、いつ寝首をかかれるか分かったもんじゃない。人生の伴侶ならセイランに限る――。
そんなお世辞を浴び続けてきたせいで、セイランは無意識に「自分から動けば、この恋は容易く手に入る」と思い込んでいたのだ。
だが、現実は惨敗だった。
タン・ピンはタノシを前にしては迷わず「お前が欲しい」と言ったのに、自分が服を脱いでも「好きだ」の一言さえ引き出せない。
なら、自分のこの告白は、この行動は、一体何だというのか。
考え抜いた末、セイランはもう悩むのをやめた。
彼女はタン・ピンの首をひっ掴むと、ベッドの中央へと放り投げた。
次の瞬間、彼女はタン・ピンに跨り、高い位置から彼を見下ろした。
暗闇の中で金色に輝く縦型の瞳が、彼女が人ならざる者であることを物語っている。
彼女は捕食者だ。羊の鳴き声に耳を貸す必要などない。
ただ、奪えばいい。
正直なところ、セイランはタン・ピンのことを嫌ってはいなかった。むしろ、今日見せた彼の博識ぶり、特に奇妙な分野における知識の深さには驚かされ、好感を抱いていた。
だが、それはまだ深い愛情と呼べるほどのものではない。もっと深い関係になりたい、という程度のものだった。
タノシの提案を断らなかったのも、彼女が冗談で言っているのか判断がつかなかったからだ。
タノシが亜青龍一族にとって、そして自分にとって大恩人であることは誰よりも理解している。
だから主権を差し出し、タノシの最初の眷属となり、戦いに明け暮れ、魔力の枯渇した異世界までついてきて神国建設を支えている。
だが、それは彼女のために「夜伽」をすることまで含まれているわけではない。
自分は義理によって眷属になったのであり、タノシであっても無理強いはできないはずだ。
しかし、今日の出来事を通じて、セイランは予感していた。タン・ピンなら、神国建設という困難な任務を本当に成し遂げてしまうかもしれないと。
千年……いや、百年もあれば成功するかもしれない。その時になっても、自分はまだ体を売るような真似をし続けなければならないのか?
セイランはそれを考えるのが怖かった。賭けることもできなかった。
主導権をタノシに預けてしまったことを、後悔し始めていた。
だから、自らここへ来た。
タン・ピンが自分をどう思っているのか知りたかった。自分が本当に彼を好きなのか確かめたかった。
他人に決められるのではなく、自分自身で決定的な一歩を踏み出したかったのだ。
(私は何も間違っていない! どんな結果になっても、私一人で背負うわ!)
(でも…………)
(……怖い!)
(どうして私がこんなことをしなきゃいけないの? 誰か、助けてくれないの?)
愛から芽生えた感情は、最後の一瞬で「暗黒の森林」へと成長した。
強がりとプライドは勇気の火を育てるどころか、それを消し去らんばかりに圧迫した。
怖い……誰か……助けて……。
セイランの目尻はもう限界だった。涙がひとしずく、またひとしずくとこぼれ落ちる。それでも、彼女の手の動きは止まらなかった。
彼女が「罪の化身」を握りしめ、自らへの罰を受け入れようとしたその時――タン・ピンが彼女の腰を抱き寄せた。
涙に濡れた顔を上げ、セイランは理解できないといった風に彼を見つめた。
また抵抗されると思っていた。
だが、タン・ピンの瞳に宿っていたのは、それとは違うものだった。
それは……わずかな性欲と、少しばかりの諦め、そして溢れんばかりの愛おしさだった。
「俺にやらせてくれ。二人ですることなのに、君一人に背負わせるなんて。俺にも参加させてくれよ」
降参だ。彼はそう決めた。
(もっと普通に話せなかったのか? 乱暴したり、泣いたりしなきゃダメだったのか?)
(これじゃまるで、俺が君をいじめてるみたいじゃないか……)
「好きじゃないなんて、一言も言ってないだろ……」
タン・ピンのか細い呟きを、セイランは聞き逃さなかった。
心の最も柔らかい部分に何かが触れたような気がして、潤んだ瞳から再び涙が溢れた。
今度は悔しさではなく、喜びの涙。
暗い森を共に歩む伴侶を見つけたことへの、歓喜の涙だった。
いや……仲間じゃない。
これからは、伴侶だ。
「……不束者ですが、どうぞ可愛がってくださいまし」
そう言い残すと、セイランはタン・ピンの助けを借りながら、力強く、そして決然と腰を下ろした。
「痛いっ!」




