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第一話 最強の呪文


今から凡そ100年前。

超大国アドレーが戦争によって世界の統一を成し、世界中の言語が統一されたことによって、人々は多くの犠牲と引き換えに、副次的に言語の壁を突破するに至った。


しかし一方で、同じ言語の壁でも、アドレーでさえ越えることのできなかったものがある。

『エシュメラ語』と呼ばれるそれは、この世界における呪文の詠唱にのみ使われる言語であり、古代から存在していながらも、未だその全貌が解読されるまでには至っていない……。


「……なんだこりゃ。基礎的なことしか書いてないじゃないか」


傾きかけた午後の日差しが差し込む、細く荒い砂利道。

町の中心から外れた、森と草原の丁度狭間にあるその場所で、一人の幼い少年が大きな紙袋を片手で抱えながら、もう片方の手で本を開いて、ぼんやりと呟いた。


「ホントに大衆向けなんだなぁ。せめてもうちょっと踏み込んでくれてもいいのに」


途中で読むのを止めて、紙袋の中へ。

果物や魚、日用品なんかが混ざり詰まった袋の中に、さらに本が追加される。魚の水分で濡れた部分が僅かに破けそうになるも、両手で塞いで持ち直した。


心地よい涼風が、少年を追い越すように砂利道を抜けていく。少年の首に掛けられた丸いシルバーのペンダントが、風に靡いて少年の頬をペチペチと叩いた。


「う、やっぱりもうちょっと短くても良かったかな……」


つい背伸びをして、紐を大人の男性用のものに付け替えたのが失敗だったかもしれない。

ペンダントは何度か頬に当たって、持ち主の名──「ウルウ」と刻まれた裏面を表に向ける。ウルウは風が止むのを待ってから、再び紙袋を片手に持って、ひっくり返ったペンダントを正しい向きへ戻した。


「おっ……と、ととっ」


と、ちょうどその時、さっきまでとは異なる強い横風が、ウルウの体に強く吹きかかった。

何とかその場で踏ん張って耐えるも、ただでさえ中身いっぱいの紙袋でバランスの悪かったウルウは、紙袋から小さな果実を一つ、地面へと転がしてしまった。


「あっ、ちょっ……!」


果実は地面を転がって、道を外れて森の中へ。そのままガサガサと音を立てながら、深い茂みの奥へと姿を隠していった。


「……はぁ、もう」


小さく悪態を吐いてから、ウルウは持っていた紙袋を近くの木の根元に立てかけて、身を屈めるようにしながら茂みの中へと入っていく。落ち葉をかき分け、湿った腐葉土の匂いと感触に不快感を覚えながらも、果実の転がる音がした方へ向かうようにして、地面に屈み込んだ。


落とした果実はそこまで値の張るものではないが、両親のいないウルウにとってはそれでも貴重な品で、少なくともこうして膝を汚して探すだけの価値があった。虫に食われる前に見つけなければと、ウルウはかき分けた落ち葉を積み上げて、周辺一帯を素早く探して回った。


「……ん?」


落ち葉を何度も退かしながら、運が悪かったと諦めかけたその時。ウルウは今自分が落ち葉を退けようとした場所に、不意に違和感を覚えた。

よく見ると、その場所はさっき自分が落ち葉を退かして積み上げたばかりの場所であり、そこは既に探して回ったはずの場所だった。どういうわけか積み上げた落ち葉が崩れて、再び地面を覆ってしまっていた。


また風でも吹いたのかと思って立ち上がってみるが、いくつもの木々に覆われた森の中を通る風はなく、腐った地面の匂いが立ち込めるばかり。そもそも、さっきの砂利道に吹いていたような風が吹いたとすれば、屈んでいても気付かないはずがない。


知らないうちに自分で踏みつけて均してしまったのだろうか……などと考えて、ウルウは周囲に気を配りながら、再び屈んで落ち葉を退かし始める。しかし、そんなウルウの前に、今度はガサガサと音を立てて、今まさに木から振り落とされた葉が数枚、地面へと落ちていった。


「な、なんだ? 何が……うわっ」


異変に気付いて立ち上がると同時に、地面全体が小刻みに揺れる。

ズシン、ズシンとリズミカルに振動し、また徐々に強くなっていくその揺れは、積み上げたはずの落ち葉を崩し、最後の力で木に留まっていた葉たちを地面へと落としていく。それどころか、揺れの音がする方角からはベキベキと木々がなぎ倒されるような激しい破壊音がして、鳥の群れが悲鳴を上げながら飛び去って行く様子が見えた。


「っ…………!」


揺れがどんどん迫り来て、とうとうウルウの正面で止まる。


それは、体高4mはあろうかという巨大な象牙種だった。目を血走らせ、激しく鼻を鳴らし、わなわなと震える全身からは、否が応でも怒りの感情が伝わってくる。加えて、その巨体と同等か、あるいはそれ以上にさえ思える二つの湾曲した牙は、いったい何度ウルウを貫けば刃こぼれするのかわからないほど、鋭利に研ぎ澄まされていた。


「な……なん、で……?」


しかし、そんな怪物を前にして、ウルウは本能的な恐怖と共に、困惑の念を抱いていた。

ウルウの自宅と街とを結ぶ道にあるこの森は、ウルウにとっては見知った場所だった。特に貧乏な時は山菜や茸を取りに深く分け入ることもあったし、森の中を流れる小川で水浴びをしたこともあった。にも拘わらず、ウルウが生まれ育ってきたこの十年間、一度たりともこんな怪物に出会ったことはなく、両親が家にいた頃でさえ、こんな奴が出たなどという話を耳にした覚えはなかった。


「こ、ここっ、お前、縄張り……? どっ……い、今までどこに……」


尻餅をつきながら、しどろもどろになって思わず疑問をそのまま零すが、当然ながら象牙種に理解できるはずもない。

ウルウの震えた声に、象牙種は巨体を覆う黒い体毛を一層逆立てて、荒く息を吸い込んだ。


「グオオオオォォォォ!!!!」

「うわあああぁぁぁぁ!!!!」


明確な敵意の籠った象牙種の咆哮を合図に、ウルウが地面を這いながら全力で駆け出す。

茂みを両腕でかき分け、小枝に皮膚を裂かれながら元いた道へ倒れ込む。振り返ると、今さっきかき分けた茂みを象牙種が踏み潰しながら、真っ直ぐウルウに向かって突き進んできていた。


「ひっ、ひいぃぃぃっ!」


もはやどこかの木に立てかけた紙袋のことや、そこから零れた小さな果実のことなど一切頭の中になく、ウルウは心臓の奥から湧いて出る恐怖に従って、砂利道を横切り草原に向かって走り出した。

ウルウの背丈より少し低い草花の生い茂るこの場所も、ウルウにとっては庭のようなものだった。草花で足元が見えなくとも、大体どの辺りが窪地になっていて危ないとか、どの辺りが小動物たちの巣になっていて穴が空いているだとかいうことは、ウルウにはよく理解できていることだった。


しかし悲しいことに、象牙種の巨体を前にしては、そんな知識や経験は全く何のアドバンテージにもならない。窪地や穴を避けて進むウルウを、象牙種はただ只管に真っ直ぐ追いかけてくる。窪地も穴も、もちろん草花も、象牙種にとっては些事も同然。まとめて巨体で踏み均して、「これからお前もこうなるんだ」とでも言わんばかりに、ズシンズシンとウルウに迫ってくる。


「はぁ、はぁ……た、助けてっ! 誰か助けてぇぇっ!!」


片手で横腹を抑え、絶え絶えの肺を振り絞って、両足を止めることなく必死に声を上げる。草原ではなく街の方へ逃げればよかったと後悔しながら、それでも近くに誰かいるはずだと信じて、声を上げ続ける。


「はぁ、はぁっ……はぁっ……! だっ、誰か……!」


もちろん、そんな状態が長く続くはずもない。ウルウの体力は瞬く間に削られていき、みるみるうちに象牙種との距離が縮まっていく。ちょこまかと逃げ惑うウルウによって象牙種のボルテージはさらに高まっており、それは満身創痍で全身の感覚が鈍りつつあるウルウにも感じられるほどの気迫となって、その小さな背中に迫っていた。


やがて体力が底を突き、とうとうウルウは草原地帯のど真ん中に、がっくりと膝から崩れ落ちるように倒れ込んでしまった。


「ど……どう、して……。 なんで……こ、こんな……」


息を整えて立ち上がろうとするも、既に体は言うことを聞かない。それどころか、心の奥から湧いていた恐怖はとうに諦観へと変わり、足を動かすよりも涙を零すことを優先し始めていた。


ポロポロと零れ落ちる涙のせいで、さらに涙が溢れ出してくる。

鼻を啜れば、倒れたウルウを包むように生えた草花の香りが、瀕死状態の肺を満たしていく。それはウルウが生まれ育ったこの故郷の地の、ずっと変わらない大地の香り。ウルウにとってそれは温もりを感じられる、それこそ母の腕の中のような、不思議と安心感を覚える香りだった。


「グオオォォォォォッッッ!!!」


後ろで象牙種の咆哮が聞こえて、地震のような足踏みが迫ってくる。

同時に強い風が吹いて、草花の香りを一層舞い上げた。


「……っ…………」


ウルウは諦観の中ゆっくりと目を閉じて、せめて最後はと、亡くなった母のことを思い返した。幼くして母を失い、父も家を出て孤独になったウルウだったが、家族の思い出が全くないわけではなかった。その中にはもちろん、今こうして横たわる草原で過ごした思い出もあった。


『人の魂は死後天に昇り、女神様から安息をいただく』……嘗て母がそう言い聞かせてくれたことを思い出し、ウルウの朧げなその記憶は、死への恐怖をいくらか和らげた。象牙種の咆哮も地鳴りも強くけたたましいままだが、今は何よりもこの大地の香りと、それを舞い上げるこの強い風が、ウルウの五感を最も強く包み込んだ。


「…………」


風はどんどん強くなっていく。

まるでウルウの最後を安らかなものへと変えるように。家族との思い出を色濃くするように。


「…………」


さらに風は強まっていく。

それが女神様のお迎えとでもいうかのように。ウルウをまた次の世界へ誘うように。


「…………」


さらにさらに風は強さを増していく。

ウルウの体を優しくこの世から切り離すように。満身創痍の体でも、強く激しく感じられるほどに。


そして──ウルウ自身を、本当に天へと舞い上げてしまうかのように。


「……って、ちょ、ちょっと待ったっ……!!」


あまりの暴風に家族との思い出を一時中断して、涙を拭って体を起こす。

すると、あろうことか草原一体が見たこともないような竜巻に覆われて、象牙種が踏み均した草花もろとも、この草原ごと地面から剥がさんとする光景が、周囲に広がっていた。


「な……なんだ、こりゃ……」


あまりの出来事に絶句するも、本当に風に巻き上げられそうになって、慌てて周囲の草花を掴んで再び身を屈める。飛ばされないようグッと踏ん張るものの、暴風による爆音は耳を貫き、それはとっくに象牙種の咆哮や足踏みの地鳴りよりも強く激しく、ウルウの五感に恐怖を訴えかけていた。


「グ……オ、オォォォッ……!」


巨体を誇る象牙種も、この激しい暴風の中で立ってはいられないのか、前足を折ってしゃがむようにして耐えている。それでも風に煽られる面積が大きい分、重さがあっても風から受ける影響が強いのか、ジリジリと風に流されつつあった。


竜巻自体、この辺り一帯では珍しい出来事だ。ウルウも竜巻を目にしたことがないわけではないが、この一帯にとっての竜巻とは、道端で枯れ葉を巻き込みながらくるくると渦巻く程度のもので、こんな規模のものが発生したことは一度もなかった。


どう考えても異様な光景。間違いなく、自然的に発生する現象ではない。

となると、答えは二つに一つ。


「魔法か、あるいは呪文……あっ!」


ウルウが周囲に注意深く目をやると、既に西日となりかけた太陽を背にするようにして、黒い人影が竜巻の中で宙に浮いているのが見えた。宙に浮いているといっても、風に舞い上げられているわけではない。空中のただ一点に留まるようにして立ち、両手で長い杖を構え、じっとこちらを見つめているようだった。


象牙種にとってはいざ知らず、シルエットだけ見た限りでは、ウルウにとっては見覚えのない人影。しかし今のウルウにとってはこれ以上なく嬉しい、まさに命の恩人とも呼べる人影だった。


「た、助けてっ!! 助けてくださいぃっ!!」


思いがけぬ救世主の登場に、ウルウもたまらず声を上げて、人影の方へと歩み寄る。暴風の齎す強烈な爆音に遮られ、声を上げたところで届かないだろうことはウルウもわかっていたが、それでも抑えきれない歓喜を救済の声に変えながら、ウルウは人影に向かって、ゆっくりと這うように歩みを進めた。


ウルウが近づいてくる様子が向こうからも見て取れたのか、そんなウルウに応えるように、人影が鋭く杖を天に突き上げる姿勢を取る。あれは恐らく、呪文の詠唱のための姿勢。古代より伝わる未知なる言語──エシュメラ語を紡ぐことによってのみ放たれる、魔法とは異なる超常現象の具現方式。ウルウは嘗て読んだ本に、呪文は種類によっては魔法でも出せない威力の破壊を齎すことができるという話を思い出し、巻き込まれてはいけないと、さらに人影の方へと歩み寄った。


「…………」


やがて人影は、はっきりとした一人の呪文使いとして、ウルウの目に映った。

その呪文使いは恐らくエルフの女性で、長く毛量の多い金髪を二つの大きな三つ編みに結わえ、白いローブに大きな三角帽を携えて、集中するように瞳を閉じたまま、宙に立っていた。


時折、ローブが風に煽られ、いささか薄着気味な衣装と素肌が露になる。その出で立ちは、呪文使いにも拘わらず妙な艶めかしさを伴っており、ウルウはつい自らの窮地も忘れて見入ってしまう。

しかし、そんな彼女の姿に見惚れながらも、ウルウの心の奥底には、別の好奇心が浮かんでいた。


……一体、どんな呪文を放つのか。


この世界における「言語」に興味を惹かれる立場にあるウルウにとって、それは今、何よりも気になることだった。


「グ……ガ、オォォ……!」


呪文使いの気配を察したのか、暴風に阻まれながらも巨体を揺るがして、ゆっくりと象牙種が呪文使いとウルウのいる方向へ向く。対する呪文使いは焦りや恐怖などまるで感じさせず、落ち着いた様子で、天に掲げた杖をそのままに、パッと目を見開いた。


(来る……! あのエルフの人の、呪文が……!)


いつの間にやら竜巻は象牙種が森で倒した木々さえ巻き込み、周囲一帯を天変地異の如き光景へと変貌させていた。

その中心に立つのは、もちろんウルウの眼前で宙に立つ、艶やかなエルフの呪文使い。一層激しさを増す暴風の中で、ただ一人膝を付くことなく、真っ直ぐに杖を構えている。


そして……吹き荒ぶ暴風が、ついに大地をこの世界から引き剥がそうとした、その一瞬。

宙に立つそのエルフによって、たった一言、短い詠唱が行われた。


「────────」


「…………えっ」


天変地異の中。ウルウが身を乗り出した、まさにその瞬間。

煌々と輝く光の柱が、遥か上空から紺色の空を裂いて、象牙種のいた一帯に降り注いだ。


「グ、ガ────…………」


光の柱は瞬く間に象牙種を包み込み、その圧倒的な熱量によって、周囲の草花はもちろん、竜巻によって巻き上げられたありとあらゆる物を焼き払っていく。途端に暴風は熱風へと変わり、轟く風切り音は、高い金属音のような光の柱の降る音に掻き消される。一瞬だけ聞こえた象牙種の断末魔でさえ、果たしてそれが断末魔だったのか、あるいは熱と光に驚いて無意識に零れた声だったのか、どちらとも判断できないほどだった。


「…………」


あっけに取られて言葉を失っているうち、徐々に光の柱は細くなっていき、やがて上空へ吸い込まれる

ように消えていく。同時に竜巻も、まるでそれまでの光景が嘘だったかのように、草原を抜ける穏やかなそよ風へと変わっていった。


後に残ったのは、草原地帯の中に綺麗な円を描くように作られた焦土だけ。そこにあった草花はおろか、象牙種の骨の一つさえ見当たらない。あるとすれば、強大な熱によって焼かれた地面が、時折赤く揺らめく程度だった。


「……ふぅ。これでとりあえずオッケーかな」


構えていた杖を下ろし、地面に降りながら、呪文使いが小さくため息を吐く。

同時にウルウも全身の力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。


「わわっ、君大丈夫……!? ちょっと待ってね、確かキズ薬がどっかに……」


「あ……え、えっと……すみません、大丈夫です……」


「大丈夫? ホントに?」


「はい、まあ……はい……」


ウルウが半ば上の空で、腰のポーチを漁る呪文使いに返事をする。

呪文使いはウルウの全身をざっと見回して、特に深刻な外傷が見当たらないことを確認すると、改めて安心したようにほっと息を吐いた。


「良かった……。でも吃驚したね、あんな化け物がこんなところをウロついてるなんて。もしかしてこの辺一帯って結構危ない場所だったりするのかな」


「あ、いえ……。僕ずっとこの辺りに住んでますけど、こんなのは初めてで……」


「へぇ、じゃあホントに何だったんだろうね……。元の住処をドラゴンにでも追われちゃったのかな……」


呪文使いが片手で西日を遮りながら、やや大袈裟に森の様子を伺う。そんな呪文使いの姿を、ウルウはへたり込んだままじっと見つめた。

ウルウも象牙種の出所には関心があった。しかしあれだけ追い掛け回され、殺されかけておきながらも、今は象牙種とは全く別のことで頭がいっぱいだった。


象牙種はおろか、強力な呪文によって辺りを焦土と変えてしまった、美しいエルフの呪文使い。

呪文使いとしても、もちろん女性としても、これまで多くの人々の心を惹いてきただろうということは、ウルウにも容易に想像がつくことだった。ただその一方で、ウルウにとっての彼女への関心は、そのいずれに対してでもなかった。


「あ……あのっ!」


夕暮れを背に長い金髪を靡かせ、まるで彫刻のような整った顔立ちをした呪文使いに、ウルウが恐る恐る口を開く。


「ん、何?」


「その、さっきの呪文なんですけど」


「あー、ごめんね、結構うるさかったよね。でも、なんというか……説明が難しいんだけど、私ああしないと呪文が打てなくって」


「…………それって、詠唱のせい……ですか?」


「へっ?」


「詠唱に問題があるから、わざわざ竜巻とかを起こして、周りの人に詠唱が聞こえないようにしなきゃいけないんじゃないですか……?」


「え、え~っと……」


明らかな作り笑いで引きつって、呪文使いがぎゅっと杖を抱き寄せる。しかしそんな呪文使いに対し、ウルウは追究の手を緩めない。


「僕、母が言語学者で、言語に関する研究をしていたんです。僕自身もそんな母に憧れて、この先の丘の向こうで、言語学に関する研究をやっています」


「へ、へぇ~、そうなんだ! すごいねぇ、まだ子供なのに……」


頬の紅潮と共に、わざとらしさすら感じるタイミングで呪文使いの声が裏返る。

ついさっきまで自分の視覚さえ疑って『聞き間違い』なのではと考えていたウルウだったが、明らかにおかしい呪文使いのその態度に、自分が『聞いた』ものはやはり正しかったのだと確信した。


魔法使いが目を逸らしながら、頬を使う冷や汗を拭い去る。

ウルウはそんな魔法使いの顔をじっと見つめて、極めて学者的な好奇心に満ちた目で、呪文使いに静かに告げた。


「……僕、わかるんです。唇の動きで。その人が、なんて喋ったのかが」


ピクリと肩が跳ねて、そのまま呪文使いが硬直する。


ウルウは呪文使いの反応を伺うが、まるで動かない。

十秒、二十秒、三十秒……。そのまま何もない『無』の時間が、二人の間に流れていく。


そうして、一分ほどたった頃。ようやく脳内で状況の処理を終えたのだろうか。

呪文使いは、突然爆発した。


「うあああぁぁぁぁんっっ!!! じぬっ、もうじんでやるぅぅっっっ!!!」


「うわっ、ちょ、ちょっと……!?」


「だって! だってあんなの聞かれたら……! しかもこんなっ、こんなちっちゃくて純粋そうな男の子にぃっ……!」


「い、いや、実際に聞いてはないんですけど……」


「同じだよっ!! 何言ったのか知られたんだったら同じだよそんなのぉっ!! うぇえええぇぇぇんっっっ……!!!」


「……すいません……」


大声を上げながら、踏み荒らされた草花の上にうずくまる呪文使い。その姿にはさっきまでの艶やかな凛々しさはなく、まるで玩具店で駄々をこねる子供そのもの。

おまけに顔面にはキッチリ涙と鼻水を携えて、目の前の理不尽に必死の抵抗をみせている。さしものウルウもこの反応は予想外で、ある意味で象牙種の出現よりも異様なその光景に、つい一歩後ずさってしまった。


「あ、あの……。一応お聞きしたいんですが、なんであんな言葉で詠唱を……?」


「知らないよぉ! だってこうだったんだもん! 転生してきたらこれだったんだもん!」


「て……転生?」


「言ってもわかんないでしょうねぇ! そうですよ、どーせ転生なんて嘘八百のオカルトですよ! これまでだってそうだったもん! 誰も信じてくれるわけないんだ! はぁぁぁん!」


「…………」


おぞましさすら覚えて、ウルウの全身に鳥肌が立つ。

しかし学者としての好奇心で何とか踏み留まると、腹の底に秘めていた提案を呪文使いにぶつけた。


「な、何か事情があるということは理解しました。それで、もし良かったなんですけど……一度僕の家で、お話を聞かせてくれませんか」


「へ……? な、なんで……?」


「信じ難いことですが、貴方の呪文は一般的なそれとは大きく異なっています。通常であれば少なくとも、あ……あんな詠唱では、呪文は放てません」


「……知ってる。だから困ってる」


「はい。ですからもしかしたら、僕の研究や僕の母が残した研究成果が、何かの役に立つかもしれません。何より……貴方は命の恩人ですから、助けていただいたお礼がしたいんです」


涙と鼻水でグシャグシャだった魔法使いの顔に、徐々に元の美しさが戻ってくる。

ウルウは相変わらず寒気を感じつつも、そんな彼女に優しく微笑みかけた。


「ついてきてください。僕の家、ここからそう遠くはないので」


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