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ゴーストアフターゴースト

作者: はじ

 アフターマンのあの見すぼらしいキュウリのような死体が発見された和室はさ、もともと北向きの一室だったこともあってかなり陰気な感じだったんだけど、アフターマンの死を境にして明らかに沈鬱で重苦しい、ひと気のない公衆トイレの雰囲気を漂わせるようになったんだ。たとえばその部屋のことをなんにも知らないやつがさ、どこからかふらふら歩いてきて何気なく踏み入ったとしたら、それまで能天気に往来を闊歩してきた青信号みたいな顔色がたちどころに点滅して、まるでトマトの熟成のように黄色から赤になって、しまいには腐敗して真っ黒な顔になることは受け合いだ。その居心地悪さに堪えきれなくなって引き返そうとしても、ほらこうして、ぼくが襖を閉めて逃げ道を塞いでしまえば、そいつはもうこの部屋で一生を過ごすことしかないってわけ。

 もちろんぼくは優しいからそんなことはしないけど、もしそうしたときの、つまり、そいつが部屋に閉じ込められたときの様子を想像してみたんだ。

 どんなに丹念に深呼吸をしたって、電気灯の点滅に合わせて感じる何者かの視線で、気が落ち着くようなことなんてまずあり得ない。それでもどうにか気を固にして、恐怖に打ち勝とうと頑張ってみても、踏ん張ってるときほど意外と不安定だったりするだろ? 無理をすればするほど身震いに襲われて、居ても立ってもいられないだろうけど、ぼくが襖をしっかりと固定しているもんだから、そいつはもう、そこにいるしかないんだ。身の毛がよだつってもんじゃないはずだね。ぼくだってそんなことされたら発狂しかねない自信があるよ。だってそこには自分しかいないはずなのに自分以外の何者かの気配がずっとするんだ。それは錯覚や気の迷い、勘違いや思い違いじゃないはずだぜ。身動きひとつしていないのに畳を踏みしめる音が聞こえてくるし、今もほら、襖越しに足音がちゃんと聞こえるだろ? これから襲い来るかもしれない事態に備えて逐一身構えていても、その見当違いをあざ笑うかのように耳元に笑い声が湧いてくるんだ、ははっ、ってね。

 声に驚いて振り返っても、当然部屋には誰もいない。誰もいないし何もない。何もないし何もされない。ないない尽くしで肩透かしもいいところだけど、途切れることのない緊張で背筋の溝には悪寒がべっとりと溜まっていって、しかもひとつだけある窓のほんのわずかな隙間から吹き入ってくる細い細い風がさ、その背中の通り道めがけて冷気を注ぎ込んでくるもんだから、嫌でも身体は震え出してしまうのさ。ちゃんとワクチン打ってないからだぜ? 自分だけは大丈夫って、根拠のない自信で日々を過ごしてきたからその罰だな。備えあれば憂いなし、ワクチン打てば幽霊なしってね。そう部屋のなかに投げかけてみたんだけど、そいつからの返答はなかったよ。ごめん、つまらんかった? そう投げかけてみても返答はなし。そりゃそうだ。そいつは一向に収まらない震えでそれどころじゃないからな。

 でさ、こんな気味の悪い部屋、近付くのだってごめんだね、って普通だったら思うんだろうけど、ぼくや弟、妹たちは、頻繁にそこへ足を運んでいたんだ。なんでかって? 目的はアフターマンの体形に合わせて変色する畳だ。それは窓の、あの細い細い風を呼び込む窓のことさ、その真下にある畳は、何度張り替えてもアフターマンの死に姿と同じ形、さっきも言ったけどそれは本当に見すぼらしい形で、どうお世辞を繕っても生育不良のキュウリにしか見えないんだ。ぼくや弟、妹たちは、野菜の腐敗過程を観察するみたいな心境で事あるごとに畳のもとに赴いて、目が痛くなるほど細かい編み目に貧弱な黒ずみを発見すると、慌てて母親を呼びに行ったもんだ。


「アフターマンのシミ!

  アフターマンのシミ!」


 ってまるで害虫でも見つけたかのように急き立てるのが日々の恒例で、騒ぎを耳にした母親はその時々に行っている家事を、洗い物だろうと洗濯物だろうとなんでもね、それを一旦止め、最初の頃は誰よりも慌てふためいていたっていうのに、今では目を細めるという最低限の仕草をして近所の畳屋に電話をかけるんだ。


「アフターマンのシミ!

  アフターマンのシミ!」


 ほとんど怒鳴るようにそう告げると、畳屋ももう慣れたもんだ、もしかしたら扉の前で待機していたんじゃないかってくらいの速度でやって来て、てきぱきとした手付きでアフターマンのシミが浮かび上がった畳を引っ剥がし、真新しいツヤツヤした畳に張り替えて帰っていくんだ。その畳屋が帰るのとほぼ同時、厳密には玄関の扉が閉まるか閉まらないかの間くらいで、ぼくや弟、妹たちは、すぐに新品の畳の上に詰めかけて、アフターマンのシミがあった箇所に屈み込むんだ。そして、どんな順序を経てシミが出現するのか今日こそ解明してやろうと何時間も張り込むんだけど、大体それは母親から朝昼晩いずれかの食事の完成を知らされて中断してしまう。無視して観察に精を出したいのは山々なんだけどさ、そんなことしてたら殺されるのは火を見るよりも明らかだから、ぼくや弟、妹たちは、渋々食卓に向かうことにするんだ。

「ほら食べろ」

 ぼくたちはそれぞれ決まった位置に着席し、ぼくは箸、弟はフォーク、妹たちは先割れスプーンを手に取って、目の前の料理を言い付け通りに食べ出す。でもアフターマンのシミのところにいち早く戻りたいから行儀や作法なんてあったもんじゃない。食べ合わせや順番はお構いなし、メシメシ味噌汁なんかの肉、そんなふうに目に付いた皿をとにかく片っ端から片付けてしまうもんだから、食べ終わって「ごちそうさまでした」を言う段になって「いただきます」を言い忘れたことを思い出し、仕方なくその折衷案として「ごちそういただきました」を採用する。丁寧に聞こえるけど実はやっつけな言い回しの粗に気付かれる前に、ぼくや弟、妹たちは、野良風のように食卓をあとにしてアフターマンの部屋へと向かうんだ。

 おっと、ごめん。ぼくはこの部屋をアフターマンの、と称したけど訂正させてもらおうかな。これはあくまでも便宜上のために使ってしまった呼称で、この部屋はもともとお父さんの部屋だったということは理解していてほしいんだ。ぼくや弟、妹たちは、何かに思い悩むと決まって部屋を訪れ、窓辺で寝そべってうたた寝しているお父さんに各々悩みを打ち明けていたんだ。執拗に食卓に並ぶ軟らかい肉のことや、頻繁に途切れる記憶のこと、窓先によく来る暗い鳥のことから、いつまで待っても片付け終わらない季節外れのクリスマスツリー、どうしても開かない窓の鍵のことまで、とにかくいろいろ。でもお父さんは、ぼくや弟、妹たちよりも遥かに長い年月を生きているっていうのに、明かした悩みのすべてを「寝ればしまいや」の一言で強引に解決させるんだ。人生はそんな単純なものじゃない。ぼくや弟、妹たちは、子どもながらにそう不満を抱きながら床に就くんだけど、翌朝目を覚ましたときには昨日の悩みが嘘のように晴れているのを感じて、お父さんの言葉が人生の処世術としてどれだけ優れているか思い知るんだ。

 ま、だからといって、ぼくや弟、妹たちが悩まなくなるかといえばそれはまた別の話で、家中のどこを見渡しても疑問は山積みになっているんだから、眠れば消えると分かっていても悩みはどこからともなく、椅子の脚や窓のサッシ、書棚の雑誌やベランダの物干し、本当に脈絡もなく湧き出してきて、水風船のように膨らんで頭のなかを占領してしまう。その度にぼくや弟、妹たちは、だぶだぶになった頭をもたげ、自らが持ち得る最良の知識でその膨らみを射突こうと悪戦苦闘するんだけど、果敢な奮闘も虚しく大概それは失敗に終わる。というのも、そもそも社会経験のないぼくや弟、妹たちが持っている知識なんてたかが知れていて、何かを解決するほどの鋭利さと強固さを持っていないし、寝る度に一日の悩みを手放しているんだから、その強靭さを得るための蓄積も身に付くはずがない。結局、ぼくや弟、妹たちは、あの決まり文句を聞かされると分かっていても、お父さんの部屋に足を向けることになって、案の定言われた言葉に首をひねりながら枕の上に頭を乗せることになる。そして、一切合切の端から端まで、ことごとくさっぱり綺麗に忘れてしまう。

 でも、お父さんが死んだことを知らされた夜は、そうもいかなかったんだ。眠ってしまうことでお父さんの存在もろとも忘れてしまうのでは、と危惧したぼくや弟、妹たちは、普段ならとっくに寝入っている時間になっても、布団に寄り付かないで互いの目をこじ開け合い、強引に瞬きを拒否することで眠気に抵抗していたんだけど、日付の切り替わりと同時にその重さに耐えきれなくなった妹たちが、まるで銃で撃たれたかのように床に積み崩れ、それを見ていた弟が、自分だけは絶対にお父さんを死守するんだ、って飲めもしないブラックコーヒーをばかすか飲んで病院に運ばれてしまった。ほんとバカだよな、今までコーヒーどころかカフェオーレすらも飲んだことないんだぜ? って笑ったんだけど、妹たちは倒れているから応じてくれない。寂しいもんだ。でもそれでいいんだ。ぼくさえ最後まで起きていれば、お父さんは消えずに済むんだから。

 とは言ったものの、ぼくだってもうほんと限界が近いんだよ。どのくらい近いかってチューできるくらいだ、チュッチュッ。ってふざけてなきゃ、まぶたは瞬きの度に重くなって持ち上げるのも一苦労、頭だって眠気でぼんやりしっぱなしでさ、ぼくは一体誰に向けて話してるのかもよく分からなくなってくる始末だから、厚く重なり合ったカーテンの裏側に回り込んで窓ガラスに額を押しつけたんだ。なんでそうしたかって? 知らんの? 夜の窓ガラスがよく冷えてるからだよ。こうやって窓ガラスに頭を付けると、まるでプールに飛び込んだみたいに気持ち良いんだ。この心地良さを知ってしまえば、たとえどんな快楽だって遊びみたいなもんさ。眠気だってほら、当然ふっ飛ぶんだけど、ずっとこうしていたらぼくの体温すらも奪い取っていくんじゃないかってくらい、夜のガラスは貪欲に冷え込んでいるからさ、ぼくは適度に頭を離して体温を調節して、決して熱を失わないように、でも決して眠りに落ちないように、上手に巧みに完璧にやりくりして夜を過ごしていたんだ。


「アフターマンのシミ!

  アフターマンのシミ!」


 それが自分の口から出た言葉だってことに気付くのには、ちょっと時間が必要だった。だって、どこにもアフターマンのシミなんてないんだぜ? 幸いにもカーテンの内側にいたから声が遮断されて母親には届かなかったみたいだけど、もし母親の耳に入っていたんなら、いつも通り畳屋がやって来て、交換する畳がどこにも見当たらないことに激怒して、この窓ガラスを畳に入れ替えてしまったかもしれないんだぜ? もしそうなってたら、眠気を払うガラスがなくなって、まんまと寝ちまうところだったぜ。良かった良かった。それにしても、ああ、冷たい。本当に目が覚めるぜ! おっと、ほどほどにしないと、もう少しでぼくから温度がなくなっちゃう。でも眠いからもうちょっとだけ、もうちょっと、ちょっと、ちょ、おっとここまで、これ以上は危ない。これ以上は、ぼくがぼくでなくなっちまう。いやぁ、しかしよく冷えてるな。夜は本当に冷たいんだな。おうおう、夜、夜、夜。どこを見渡しても夜しかねぇ! もし外に出たら寒すぎて眠られやしないだろうな。蛾たちもほら、道路に並んだ街灯の周りが昼間みたいに明るいから、その温もりを求めて群がってやんの。バカだよなぁ、よっぽど眠たくて仕方がないんだろうな。でも近寄りすぎると熱くて死んじまう。まるでぼくとそっくり、いや正反対か? どっちでもいいや。お? 遠吠えだ。野良犬か? 飼い犬か? 泥棒でも見つけたのかずっと吠えてやがる。そんな吠えてるとご主人様に怒られるぜ? それでも気にせず吠えてるってことは、さてはお前は野良犬だな? そうだろ? 違うか? ワンワーン! お、吠え返してきた。ワンワンワーン! ワンワ、うわっ冷たッ! ったく、段々この窓が邪魔になってきたぜ。バッキバキにぶち壊して外に出てやろうかな。そうしたほうが眠気がなくなるだろうし。って、そんなことしたら母親に殺されちまう。仕方ないからこのまま夜を見物だ。

 そうやってぼくは、月明かりが見せるかすかな輪郭だけを頼りにして、疾走するオートバイや空風をまとったビニール、それを追って滑走する獣の群体、夜盗、孤立無援の暗い鳥の姿を眺めていた。でもそれらは暗闇に紛れた不確かなものだから、あくまでぼくの推測で並べ立てたものでしかない。推測はどれほど見目よく整理されていようが、原材料の分からない奇怪な料理みたいに素直に呑み込むには異物感が気になって、その口当たりを知らんぷりしたまま鵜呑みになんてできないし、たとえ無理やり呑み下したって、すんなり胃の腑に落ちるわけないんだ。だからぼくは飴玉のようにそれらを舌の上で持て余す。噛むことも語ることもせず、だからといって吐き出すこともせず、それを舐めることに終始する。何を口にしているのか分かってないんだから、味なんてほとんど意味をなさない。特徴的な五味を切り取って、あれやこれや、ああだこうだと想像で転がしているうちに溶けてなくなって、忘れてしまって、結局何を口に入れていたのかも分からないまま一晩が過ぎたんだ。

 ぼくは肺にため込んでいた息を吐き出し、窓ガラスに白い曇りをかける。空いた口に生まれたあくびを噛みながら背後のカーテンをまくり上げ、銃で撃たれたかのように倒れている妹たちをゆっくりと抱き起こす。起き上がった妹たちは、本物の銃弾がめりこんだかのように頭が痛いと訴え、ぼくにそれを取り除いてほしいと涙ながらに懇願した。ぼくはあくびを噛みながら銃弾を抜き取るピンセットのように妹たちの頭をひとつずつ丁寧になでてやったが、あとに残る痛みまではどうすることもできない。

「あとに残る痛みまではどうすることもできない」

 思ったままにそう言うと、妹たちは嗚咽まじりにお礼を口にし、辺りを見回して弟の姿がないことに気付く。

「コーヒーを飲みまくって病院に運ばれたよ」

「バカね。バカなのね」

 妹たちはあきれ顔で辛辣な感想をもらしたが、その目は小さく涙を浮かべていた。それが今にもこぼれ落ちそうに揺れていたから、ぼくはあくびを噛みながら妹たちの手を引いて電話機のもとに行き、ピッポッパッと病院に電話をかける。数秒の呼び出し音が続き、数回の医療的中継をはさんだ後に弟が電話先に出て「大量のカフェをインしてしまったから、ちょっと入院が必要なんだ」と告げた。

「ちょっと入院だって」

「ちょっとっていつ」

「ちょっとは明日ぐらいだよ」

「明日っていつ」

「明日は。明日ってのはさ、眠った次の日のことだよ」

「やだ」

「嫌なのはぼくも一緒さ」

「やだ」

「嫌なのはあいつも一緒さ」

 そう言うと、妹たちの顔が打って変わって明るくなった。

「じゃあ、わたしたちは一緒なのね」

「そう、ぼくたちは一緒さ」

「一緒ね!」

「一緒さ!」

 なーんて実のない会話をしていると、和んだ空気に水を差すようにして台所から不機嫌な足音が聞こえて来る。その荒々しさはこれからどんな厄介事を連れてくるんだろう。ぼくや入院中の弟、痛む頭を押さえる妹たちは、どんなことが起きても備えられるように身を固くしていると、やって来た母親はまずぼくに、そしてぼくの手に握られた受話器、最後に受話器の下で縮こまっている妹たちに順々に視線を向けてから、

「今日からこの人が一緒に暮らすから」

 遅れて台所から現れたあんたを紹介したんだ。

 第一印象を教えてやろうか。キュウリだよ。野菜売り場に最後まで売れ残った見すぼらしいキュウリ。見るからに栄養のない、得られるものなんて何もない、売れ残って当然の、そもそもどうして出荷前の選定でふるい落とされなかったのか疑問に思ってしまうくらいのキュウリ。そんなぼくたちの心中を汲み取ったんだろうな。あんたはここでも売れ残ることを恐れてあえて陽気にふるまったんだろ? くたびれた顔を笑顔にゆがめ、それを遠慮なくこちらに近付けて「よろしゅうな!」と言って屈託なく笑いかけてきたんだ。

 まったく、子どもにおもねる大人っていうのは気味が悪いったらないよ。もっと胸を張れよ。少なくともぼくたちよりも長く生きているんだから堂々としてろよ。つっても仮にそうされたって、ぼくやまだ入院中の弟、痛みに悶える妹たちがあんたを歓迎することなんてなかっただろうし、何より脈絡もなく現れた他人を受け入れられる心の準備なんてできてないから、どんなに熱烈な対応をされても狼狽えるだけだろうけどね。

 にしてもさ、そんな受諾でも拒絶でもない有耶無耶な態度を取ったのがマズかったんだよな。その時点でもっと激しく、のっぺりとしたその眉間に唾を吐きかけてやるくらいの抵抗を示していればよかったって今でも後悔するよ、ペッペッ! って、今からでは遅すぎるか。でも本当にそうしてやればよかったよ。そうしていれば、ぼくたちの心を掴めたと勘違いしたあんたが、装っていた卑屈の皮をぺりぺりと剥がし、下からあらわにした厚顔を引っ下げて家をうろつき出すこともなかったんだ。

 あんたはぼくたちが大人しくしているのをいいことに、ゆったりと居間を一周してからテレビのリモコンを手に取り、その所有権を高らかに主張した。そしてどっかりとソファーに腰をかけ、果てのないザッピングの末に突然立ち上がると数十分間トイレを占拠、長く大きい用を足し終えると今度は台所で意味もなく冷蔵庫を開け閉めし、さすがに飽きてきたんだろ、やることがなくなるとお父さんの部屋の窓際に行ってごろんと横になったんだ。

 まるで実家のように気楽に過ごしているあんたのことを、ぼくたちは唖然と眺めていた。それを遠慮と思い込んだのか、

「どや、一緒に!」

 昼寝に誘ってきやがった。

 ぼくやまだまだ入院中の弟、痛みを堪える妹たちは、返事をすることなくその場を離れ、居間の片隅に寄り集まって、

「なんなんだあいつは!」

「なんでわたしたちの方が気をつかっているのよ!」

「お仕置きだ!」

「お仕置きが必要よ!」

「そうだな、どうにかして懲らしめてやらないとな」

「懲らしめる? そんなんじゃ足りないよ!」

「早くこの家から追い出さないと!」

「二度とこの家の敷居を跨げないくらい股を割いてやりたいわ!」

「ミチミチにしてやらなくちゃ気が済まないわ!」

「よし、じゃあミチミチにしてやろう!」

 って、あんたを追い出す算段の相談をはじめたんだ。

 弟はあんたに周到な嫌がらせ、たとえば口にするすべての飲食物に膨大な量の唾を吐き入れたり、好き勝手動き回れないようくるぶしを徹底的に痛めつけたりすることを入院先の病院から提案し、妹たちが疼痛によろめきながらそれに賛同する。それからもいくつも案が出たよ。一個ずつ事細かに解説してやりたいが、それをあんたに教えるわけないだろ。これから自分がどんな目に遭うか精々楽しみにしてろよ。ぼくたちも本当に楽しみだよ。あんたが一体どんな顔を見せてくれるのか。その情けない顔がどんなふうに歪むのか。楽しみだ、本当に楽しみだってワクワクしながら、「よし、誰がどの嫌がらせを担当するかジャンケンで決めるか!」って、ぼくたちが一斉に手を振りかざしたところで、

「何しとん?」

 突然背後から声をかけられた。

 聞いただけでも耳障りな声音だったから即座にあんただと分かったよ。だからぼくたちは振り向かないまま「何もしていませんよ」って余所余所しく返答し、「それでは、急いでいるので」そう言い残して居間から移動しようとしたんだけど、「わいも混ぜてや」しつこく後をついてくるもんだから足を速めて台所へと駆け込み、コンロ下の収納棚にすばやく身を潜めたんだ。息を殺し、気配も死なせ、まるで漬物石のように身動きを停止させる。もしも今のぼくたちを本当に漬物石として利用すれば、それはもう見事に水抜きされた美味しい漬物が出来上がることだろうね。誰か実際に使ってみない? なんて思い付いた冗談も一切口に出さないほど完璧に停止していると、わずかに遅れてきた足音がしばらく台所を行き来し、「どこやぁ、どこに隠れたんやぁ」炊飯器のフタや電子レンジの扉をしきりに開けているようだったが、「おかしいのぉ」やがて諦めたのか「おらんのぉ」冷蔵庫の開閉を最後に一切の物音が途絶えた。

「行ったね」

「だね」

「そのままどっか行っちゃえ」

「だね」

 薄暗い棚のなかでいくつか言葉を交わしていると、うまく撒くことができて気が緩んでしまったんだろうな、せっかく忘れていた眠気があくびとなって一挙に湧き出した。ぼくはそれを口内にとどめたまま小さく咀嚼して潰していく。触感はない。味なんてもちろんないが、噛むごとに確実に消えてなくなっていく感覚だけはある。だからぼくは徹底的に噛みしめる。弟もぼくの真似をしようとしたみたいだが、喉に物が詰まったかのような咳をしてしまった、という連絡を病院から受ける。心配した妹たちが病院まで駆け寄ろうとしたが頭の痛みで断念し、ぼくはあくびを噛みながら苦しそうな妹たちの手を握り、「咳が治まるまで背中をなでてやってください」と伝える。病院は快諾したが、この状態では弟も妹たちもしばらくは動けそうになかったから、ぼくはあくびを噛み続けながら当分の間ここに隠れることに決めたんだ。

 運が良いことに辺りには調味料があふれていて、空腹を満たすことはできなくても舌を潤すには事欠かない。ぼくはあくびを噛みながら醤油ボトルの注ぎ口を指で拭い、自らのくちびるに塗り付けてそれを舐める。弟もぼくの真似をしてオキシドールをくちびるに付けたが咽せてしまったという連絡を受ける。ぼくはあくびを噛みながら「やさしく背中をなでてやってください」と伝え、痛みでぐったりしている妹たちの舌に砂糖をぱらぱらとまぶしてやった。それで少し痛みから気がそれたのか、妹たちはか細い声でさらに砂糖を求めた。

「少しだけだぞ」

 ぼくはあくびを噛みながら妹たちに追加の数粒を与え、ぼく自身もくちびるを経由させて醤油を舌に移す。醤油は空腹で粒立った味蕾のせめぎ合う谷間を伝い流れ、側縁から合流する唾液の希釈を受けながら、過去の淡くなった食事の思い出を喉元に寄越した。均等に切り分けられた刺し身の最後の一切れを取り合う弟や妹たちが立ち現れ、いつまでも正体の分からない肉への不満が不意に脳裏をよぎる。黒い小瓶を手に取ったお父さんが冷ややっこに垂らす一滴に弾むようにして打たれる舌鼓、焼きすぎて固くなった餅への母親の苦笑い。舐めれば舐めるほど思い出は濃度を増し、空腹を紛らわせるどころか胃袋を刺激してより飢えを助長させる。それだけじゃない。咀嚼してなくしていたはずの眠気が唾液とともに再びあふれ出し、体は空腹でどんどん軽くなる一方なのに、頭は眠気で重くなるというチグハグな状態に陥っていく。ぼくはどうにか飢えを凌ぐためあくびを噛みながら醤油を舐め、思い出に浸る頭のこめかみをガスの元栓に押し付けて眠気を追い払う。そうやってどうにか自己の形状を保ちながらあくびを噛み殺していると、どこからか聞こえる

「寝ればしまいや」

 とても懐かしい声。

 でもとても苛立つ声。

 ぼくは自分の感情がよく分からなくて、ぶっきら棒な口調で答えた。

「そう簡単にはいかないよ」

「そうかいな、けどもあいつはもう病院で寝とうぞ」

 その声は、容態が落ち着いた弟がよく寝ているという一報も続けて伝えた。

「そう。それでもまだぼくたちは、」

「ぼくたちィ? 横ぉ見てみいや」

 声の言う通りに隣に目をやる。

 そこには痛みの和らいだ妹たちが甘い夢に耽っている寝顔があった。

「ぼくはまたひとりになってしまったのか」

「ひとりィ? よぉく自分、見てみィ」

 その言葉の意味はよく分からないまま、湧き出してきた大きなあくびを前歯で小さく砕きながら吐き出す。そのついでにくちびるに残った醤油を舐めたが味はもう大分薄い。ほとんど空になったボトルを手に取り、この減った分量が腹に溜まっているのだと思いながら左右に揺する。底に残った微量の醤油が小さく波打ち、内壁に当たって跳ね返る。小さな泡が立つ。それがいくつも連なり、重なり、膨らんで弾けて消える。消えてもなお残ったのは飲み込んだ激情のような熱の塊。それが食道をせり上がり、猛烈な嘔吐感として中心から噴出する。

 内部から押し出されるようにして収納棚から飛び出、流し台の蛇口をひねって真横から貪るようにして水を飲む。目の覚めるような水のほとんどが頬に当たって首筋へと流れたが、そんなこと気にしてなんていられない。くちびるが捉えることのできた水をひねり出した舌で口内へと誘導し、喉への流れを作り出す。導かれた滑らかで鋭い冷気が喉奥に当たり、そこから下へと落ちていくその最中、幾粒かの水滴が気道へ跳ねて、シンクへと激しく咳き込んだ。掃除なんてされたことのない薄曇ったシンクに顔面が映る。歪んでいるのでその表情は定かじゃない。推測しようにも材料がない。推測ができなければそれは、そんなものは、存在していない。

 放水を続ける水道水が耳元でシンクを打ち叩く。その音が鼓動のように聞こえ、胸元に手をやったが間違いなく同じリズムを刻んでいた。息を整えながら身体を上げ、水を止めようと蛇口に触れたが、本当に止めてしまっていいものか迷う。その間にも気持ち悪さは増すばかりで、ほおを叩き、腹をつねり、それ以上の手の打ちようを思いつかなかった身体は、身に降りかかったこの問題の解決策を求めてアフターマンの部屋へ向かっていた。

「寝ればしまいや」

 その声は実際に聞こえたものなのか、醤油が聞かせた思い出の一声だったのか、推し量る余暇もないほどの速度で部屋に着いて早々に吐く。膨らんだ胃が引き絞った雑巾のように収縮し、吐血の失望感と憂いを伴いながらくちびるから離れ、足元に黒いシミを作り上げる。胃酸と混じり合った醤油の饐えた臭いが部屋に充満する。そのあまりの酸味に目がピリピリと痛み出す。目をすぼめて露出する粘膜を減らして黒ずみを見下ろす。それはまるで影のよう、それはまるで影のようで、存在していない。


「アフターマンのシミ!

  アフターマンのシミ!」


 ぼくや弟、妹たちが繰り返しそう口にした。その声を耳にした母親が畳屋を呼び出し、汚れた畳はあっという間に新しいものに取り替えられた。帰り支度をする畳屋を呼び止める。回収した畳はどうするのか尋ねた。洗剤に浸けてシミ抜きをし、一晩乾かしてから再利用するといった。それでも取れないシミはどうするのかと続けて尋ねる。眠剤に浸けて一晩寝かせてから再利用するといった。それでも取れないときはと重ねて尋ねる。それでも取れないときは、と畳屋は小脇に畳を担ぎ上げ、

「燃やしてしまうよ」

 そう言い残して帰っていく。震えるくちびるを舐め、動きの鈍くなった眼球を転がして窓に向ける。窓先を横切る電線が幾重にも振れて見える。どれが本物でどれが偽物かという話ではない。そのどれもが不快なのだ。そのどれもが不愉快なのだという話なのだ。ずっと電線に止まっていた暗い鳥だけがただ一羽の幽惜としてこちらを睨んでいる。負けじと睨み返していると、母親が食事の完成を告げる。暗い鳥から目をそらさずに食卓に向かい「いただきます」と忘れずにいう。今日もよく分からない肉を雑に食う。


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