1-7.クロとの別れ
明音は小佐田さんに描いてもらった地図を頼りにしながら、人の足で踏み固められた獣道を黙々と進んでいく。
山に入るときはスカートよりもパンツやボトムスの方がよいとはよく言うが、それでも足には無数の種が引っ付いてきていて気持ち悪い。これはどうにかならないものなのだろうか。
木々から零れてくる僅かな光とスマホのライトを頼りに井戸への道を歩いているが、もし真夜中にここを通らなければならないと言われたら回れ右して引き返すことだろう。
それほどまでにこの道は不気味で、今にも茂みから何かが飛び出してきそうな道だった。
「……から、……され。いま……、立ち去れ……」
どこかに魔物が潜んでいないかと気を張りながらしばらく進んでいると、かすかに言葉のようなものが頭の中に入ってくる。
最初は何と言っているのか分からないぐらいかすかな声だったが、それは井戸に近づくにつれて次第に大きくなっていき、ここから立ち去るようにと語りかけてくる。
これは魔物と何らかの関係があるといっていいだろう。そう思いながら先に進んでいくと、そこには井戸の隣で座り込んでいる一人の少女がいて、明音は思わず声をかけてしまった。
「……ここで何をしているの?」
「あれ、お姉ちゃんこそこんなところでどうしたん? お家はこっち側やなかで」
その人影はこの島に来てからずっとお世話になっている海音のもので、なぜこんな時間にここにいるのかも気になったが、それよりも明音には1つ聞かなければならないことがあった。
「海音ちゃん。それって……」
「……あー、クロのこと? よくこのお墓の前におるから世話してあげとるんよね。お姉ちゃんも触ってみる? 肌がすべすべで触り心地がええよ」
明音はその生物を前に平然としている彼女を見て、どのような声をかければよいのか分からなくなってしまう。
お腹を出しながら気持ちよさそうに撫でられているそいつは、どこからどう見ても魔物そのものだった。
「……海音ちゃん。そいつに何か酷いこととかされたりしなかった。怪我したりしてない?」
「急にどなんしたん、そんな怖い顔して。別にどこも怪我しとらんよ、強いて言うならちょっとこけて擦りむいたぐらいやけど見る?」
そう言って、海音はほんの少しだけ血がにじんでいる膝小僧を指す。
特に怪我はないようなのでひとまず安心だが、この魔物をどうするべきかと明音は頭を悩ませる。
もし魔物が人間に危害を及ぼすようであれば一人の魔法少女として討伐しなければならないのだが、この魔物はとても大人しく、脅威があるようには思えない。
まだ何もしていない魔物に対し、今後人間に危害を加えるかもしれないからという一方的な理由で討伐するのは魔法少女として正しい行いなのか、明音には判断がつかなかった。
「……それ、噛んだりしないのよね」
「ん-、まぁ噛むっちゃ噛むっちゃけど別に痛くはなかよ。クロは大人しいけん、驚かせたりせんかったら大丈夫よ」
もし本当に危害を加えないのであれば魔法科学連合に連絡を取ってこの魔物を保護することはできるが、その判断をするためにもまずこの魔物についてよく知らなければならない。
明音は海音に促されるまま、その魔物を優しく触ってみる。
その生物から感じられる負の感情は紛れもなく魔物のもので、犬や猫などの野生動物と見た目が似ていて見間違えているわけでもない。
海音には悪いがこの生物は魔法科学連合が預かる形で本部へと連れて行き、所定の場所で保護してもらおうかと考えていたのだが、その願いは叶わぬ形となってしまった。
「……お姉ちゃん、なんか地面揺れとらん?」
この島は携帯の電波が届かないのでどうやって魔法科学連合と連絡を取ろうかと考えていると、突然地面が小刻みに揺れ始める。
最初はただの地震かと思ったがその揺れはいつまで経っても収まらず、その揺れは次第に強さを増していき、周りの木々もみしみしと音を鳴らし始める。
とりあえず海音をどこか安全な場所に避難させておこうと周りを見渡してみると、ふと大量のお札が貼られた井戸の蓋がかたかたと音を立てているのが目に入った。
「……なんだ、そういうこと。海音ちゃんはこの子を連れて森の中に隠れてな。あとはあたしの仕事だから」
海音は急に話しかけられて何故そんなこと言われているのか分からない様子だったが、クロを連れて森の中へと隠れにいく。クロも同じ魔物ではあるが、この魔物はそれとは比べものになりそうにない。
明音は海音が茂みの中に隠れたことを確認し、先ほどから荒ぶり続けている井戸の蓋を勢いよく持ち上げた。
「おー、確かにこれは大物だね。これはあたしが来て正解だったわ。他の魔法少女に任せてたら大変なことになってそう」
明音が井戸の蓋を持ち上げた瞬間、封印から解かれた魔物が勢いよく溢れだし、形を形成し始める。
おそらく、何らかの理由で魔物が発生したのはいいものの、蓋に貼られたお札のせいで外に出ることができず、井戸の中で力を蓄え続けていたのだろう。
これは明音の目測でしかないが、おそらくCランクに匹敵する強さは持っているはずだ。もし何も知らずにこの蓋を開ける人がいたらこの島は誰も住めない島になっていたかもしれない。
久々に骨が折れる相手になりそうだと思いながら、明音は小佐田さんに教えてもらった腰のストレッチを試したりして、徐々に身体を温めていった。
「ウグォォォォ!!」
「ちょっと、いきなり攻撃してくるのはせこくない。もう少しで当たりそうだったんですけど」
腰のストレッチを終えて屈伸をしながら足を温めていると、待ちきれなくなったのか魔物が先に攻撃をしかけてきたので明音は足に魔力を流して大きく跳躍する。
魔法少女が変身している間は攻撃をしかけてはならないという暗黙の了解があるはずなのだが、それは特撮やテレビアニメの中にだけある話で、街で暴れまわっているような魔物がそんな倫理観を持っているはずがないのである。
「じゃ、次はあたしの番ね。せっかく戦ってあげるんだから少しは楽しませてよ」
だからこれはただの方便だ。明音は身体の中に流れている魔力を拳へと集中させ、相手の脳天に目掛けて一気に振り下ろす。
明音が使っている魔法は『フラワーズ』のダリアと似た身体強化系の魔法なのだが、魔力を身体にまとわせて武装するダリアの魔法に対し、明音は身体の内部に魔力を流して身体能力を底から向上させる魔法を使う。
魔力を均等に流し続けないと力にバラつきが出るので扱いづらく、敵からの打撃にめっぽう弱いので普通はまずこの魔法を使わないのだが、明音にとっては数多の戦場を共にしてきた一番身に染みている魔法だった。
「あれ、思った以上にやるんだなね。こんなの相手にするぐらいだったらもっと報酬もらっとけばよかった……」
ある程度加減はしつつも結構力を込めて殴ったつもりだったのだが、どうやらこの魔物相手には少々力が足りなかったらしく、攻撃をもろに食らいながらもまだ立ち上がろうとしてくる。
苦戦するほど強いわけではないが、思っていたよりもやるようで明音は考えを改めて楽に勝つのを諦める。
魔物は全般的に打撃に対してて伊勢を持っている物が多いが、この魔物には特別効きにくいようで、倒すには更に魔力を練り上げなければならない。
本当は使うと疲れるのであまりやりたくなかったのだが仕方がない。この魔物を倒すには真剣に戦う必要があるらしかった。
「やるか……。海音ちゃん、今日の晩ご飯ってなんだっけ」
「えっ? 確か鯖の味噌煮にするって言いよった気がするけど……」
「いいねー、日本酒が合いそう。なら頑張るしかないか。ささっと済ませるからちょっと待っててね」
そう言って明音は魔力の流れを加速させ、身体能力を最大限まで底上げする。
この技は身体への負担が大きく、心臓が激しく鼓動して辛いのであまり使いたくなかったのだが、この後に美味しいご飯が待っていることを考えたら仕方がない。
戦闘が長引けば長引くほど身体への負担が増えるだけなので、ここは本気で相手するしかないらしかった。
「ヴゥゥゥゥ…………」
その魔法を使った明音は本来好戦的であるはずの魔物を怯えさせるほどであり、魔物は小さく唸り声を上げながら一歩二歩と後ずさりをする。
Cランクの魔物といえば街一つ破壊できるほどの力を持っており、魔物の中でもかなり強い分類に入るはずなのだが、そんな魔物を後ずさりさせるほどには明音と魔物の間に確かな力量差が生じていた。
「ちょっと、逃げようとしないでくれない。あんたを逃したらあたしの責任にさせられるんだけど」
明音は逃げ出そうとしている魔物の行き先へと回り込み、ついでに一発拳を打ち込んでみる。
久しぶりの実戦ということもあって魔力制御が上手くいっていないような気もするが、まぁ威力としては申し分ないだろう。明音は戦闘の感覚を取り戻すかのように攻撃を繰り出していき、明音の猛攻に魔物は押される一方だった。
「よし、これぐらいでいいかな。じゃあ次でラストにするからね」
「…………!?」
攻撃を続けながら徐々に身体を温めていた明音は魔物の懐へと潜り込み、相手の腹部へと強烈な一撃を叩き込む。
魔物には核というものが存在し、それは人間でいう心臓のような役割を果たしている。もしその核を破壊することができれば、魔物は身体を保つことができずにそのまま消滅する。
明音が攻撃を続けていく中で、顔や足には簡単に攻撃が通っていたのに対し、腹部だけは攻撃が当たらないようにと念入りに攻撃を防いでいた。魔物の核がそこにあるのはまず間違いない。
魔物は懐に入り込んできた明音の攻撃を防ごうとするが、急にスピードが上がった明音の動きについていけず、明音の攻撃をもろに食らってしまう。
明音の予想は的中し、魔物の核を破壊された魔物は、まるで元から何もなかったかのように灰となって消えていった。
「ふー、これで任務完了っと。海音ちゃん、もう出てきても大丈……」
「お姉ちゃん! クロが、クロがいなくなったの!!」
明音は魔物が完全に灰となって消えていったことを確認し、自身にかけていた魔法を解いて乱れた息を整える。
最近は後輩の育成ばかりで身体がなまりつつあるなと思いながら海音の方へと歩いていると、そこには青ざめた顔をしながらこちらに助けてを求めている海音の姿があった。
「……それやったの、たぶんあたしだと思う。……ごめん」
今にも泣きだしそうになっている海音の顔を見て、明音はただひたすらに謝ることしかできない。
クロが人間に懐いていることにも驚いたが、それよりも衝撃的だったのは本来魔物には必ず1つ以上あるはずの核が存在しなかったことだ。
なので最初は魔物ではなくそれに似た生物なのではないかと思っていたのだが、クロを観察していくうちにそれは魔物に間違いがないということが分かり、明音は一つの仮説を立てるに至った。
もしかしたら魔物の本体は別にいて、クロはその魔物から分裂する形で生まれたのではないかと。
「けど、クロは何も悪いことしとらんよ。ずっとええ子やったよ」
「分かってる。けど、ごめん……」
その本体が井戸の中から出てきたさっきの魔物だったのだろう。だから魔物が消滅すると同時にクロも消滅した。
それを確かめるためにもクロを本土の研究施設へと移動させたかったのだが、それが分かるまでどれだけの時間がかかるかも分からない。その間に本体の魔物が暴れ始めてしまっては元も子もない。
魔法少女としてこの島に来ている以上、魔物による被害を限りなく少なくすることを最優先に考えるしかなかった。
「けど……、仕方のないことなんよね……。クロ、今までありがとう。また来るけんね」
しばらく二人の間に無言が続いた後、海音はお墓参りのために持ってきた花を井戸の中へと投げ入れてそっと手を合わせる。
その悲しそうな後姿を見ながら、明音はただ見守ってあげることしかできなかった。