番外編5 俺は生きる(トオル視点)
確かに俺は前世の妻を、莉々を愛してはいた。
美しく聡明な彼女を人として好ましく思っていた。
仕事として、秘密結社《アネシドラ》に潜入する足掛かりとして彼女を利用した。
それへの罪悪感と彼女のトラウマに対する憐憫。
それが彼女への想いの大部分だ。
彼女が俺に真っ直ぐな愛を示す度に胸が痛んだ。彼女が俺を愛するほど俺は彼女を愛してはいなかったからだ。
莉々と結婚し、娘が生まれた。
妻によく似た美しく賢い娘、祥子。
罪悪感も憐憫もなく素直に愛おしいと思った。
最初、莉々は娘の名前を薔薇の子で「薔子」にするつもりだった。
薔薇のように美しいだけではない、鋭い棘を隠し持つ、したたかさもあわせ持つ女性になるようにという願いを込めて。
けれど、「薔子」は人名用漢字として使えなかった。
だから、代案で俺が「吉祥の祥子でどうだ?」と言い、莉々は了承したのだ。
それがたまたま《アネシドラ》を創立した《エンプレス》、莉々の祖母であり祥子の曾祖母と同じ「祥子」になってしまったが。
祥子が《アネシドラ》で薔薇をコードネームとしたのは、自分の名になっていたかもしれない名前を意味するものだからだろう。
二年後、莉々はまた娘、香純を産んだが、祥子ほど可愛いとは思えなかった。
莉々としても自分の母親に酷似した香純は自分のトラウマを刺激するので愛せず嫌悪感しか抱いていないようだった。
祥子は妹に対して愛も嫌悪も抱けないほど興味がない様子だった。
《バーサーカー》、祐に殺される際、気になったのは、とにかく祥子だけだった。香純の事などまるで頭になかった。
前世で俺が死んだ時、莉々が願った通り、祥子は、すでに薔薇のごとき美しさとしたたかさをあわせ持つ娘になっていた。
これから、さらに美しくなっていくだろう祥子を見る事ができなくなる。
それを残念に思う気持ち以上に今死ねる事に安堵した。
タスクが「前世で、お前を殺した俺を恨んでないのか?」と訊かれた時、「前世での事だから復讐は無意味だ」と俺は答えた。
けれど、本当は、祥子の前では決して言えない本心は――。
前世であの時俺を殺してくれた《バーサーカー》に莉々同様、感謝している。
父親として祥子を愛していた。
けれど、大人びているとはいえまだ幼い娘を男として見ている時があったのだ。その度に、その気持ちを握り潰してきた。
その気持ちを決して認めなかった。
認める訳にはいかなかった。
認められるはずがない。
祥子は俺を父として敬愛しているのだから。
俺のこの気持ちを決して知られる訳にはいかない。
祥子の中で俺は敬愛する父親として死んでいく事ができる。
それでよかったのに――。
何の運命の悪戯か、俺と祥子は今生で最悪な邂逅を果たした。
前世と違って平凡な容姿だけれど、それは「彼女」を貶めはしない。
「彼女」というだけで価値があるからだ。
前世でも今生でも過酷な人生を歩んでいるのに、それを糧に強くなっていく。美しくなっていく。
唯一無二の愛しい女。
この気持ちを前世では決して認めなかったけれど、体が他人の今なら認められる。
たとえ、彼女の心は得られなくても。
今生で肉体が他人になっても彼女にとっての俺は「父親」だ。
彼女が俺を受け入れてくれる事は決してあり得ない。
それでも、彼女との間に息子を儲けたのだから、それで満足する。
前世で親子だったというだけではない、今生でも強い繋がりができたからだ。
彼女にとっては最悪な邂逅の結果であっても。
その息子が前世で俺を殺した男でも。
祥子は女性達を弄んできたのも、自分にした事も、俺の今生の人格がした事で俺は何も悪くないと言った。
けれど、違うのだ。
今生の人格がした事全て、きっと前世の人格の影響だ。
黒髪に暗褐色の瞳の女性達を弄んだのも……ヴィクトルがジョゼに恋した事自体。
ヴィクトルがジョゼに恋したから、俺もまたジョゼに恋したのではない。
逆だ。
前世で認めなかっただけで、俺はすでに祥子を女として見ていた。
俺のこの気持ちが、ヴィクトルに影響したのだ。
だから、ヴィクトルの被害者ではなく俺の被害者なのだ。
デボラもジョゼも、その他のヴィクトルが弄んできた女性達全てが。
俺の穢れた身勝手な恋情の被害者だ。
その償いをしなければならない。
衝動的に死を選ぼうとした。
死んで終わりにするつもりだった。
けれど、死など一瞬の苦痛に過ぎない。
一度死んだ身だ。誰よりも、それを熟知している。
人間は、きっと死ぬよりも生きているほうが苦痛なのだ。
だから、俺は生きる。
前世は妻であり今生は妹であるミーヌを、今生の息子であるタスクを、唯一無二の存在であるジョゼを守って生きていく。
いつか罰が下されるその日まで――。
完結です!
読んでくださり、ありがとうございました!