10 トオル・アヤゴン
扉を開けたままだったので託児室にいた幼児や世話役の女性達には私達の話は丸聞こえだっただろう。彼らにいろいろとやばい話を聞かせて今更だが、私達は誰もいない一室に集まって改めて話す事にした。
「……えっと、お父さん」
私はテーブルを挟んた対面のソファにジャスミーヌと並んで座っているお父さんに話しかけた。
ヴィクトルの肉体は今年二十歳だ。精悍さと美しさを増したが何より印象が変わった。三年分年をとったからだけでなく人格が今生から前世になったせいだろう。
女性達を虐げても何とも思わなかった傲慢さや高慢さは全くない。優しさや怜悧さが顔に表れている。肉体が同じでも誰も「彼」をヴィクトルとは思わないだろう。
「トオルでいい。今はトオル・アヤゴンと名乗っているんだ。アヤゴンは、この子の母親の姓だよ」
お父さん、いや、トオルは隣に座るジャスミーヌを視線で示した。
仕事だったので前世の人格となる前のヴィクトル・ベルリオーズの事は、ちゃんと調べた。彼の今生の父、ベルリオーズ公爵の公式の子供はヴィクトル一人だけだったが自分の戸籍に入れていない愛人に生ませた子供達、ヴィクトルの兄弟姉妹が多数いる。ジャスミーヌは、その一人なのだ。
「『アイハラ』より『アヤゴン』のほうが、この国では珍しくないし、兄妹だのに姓が違うと詮索されるのも、わずらわしいからね」
罪を犯して家を取り潰された公爵令息の名をそのまま使うのは何かと支障があるし、何より「今の彼」はヴィクトル・ベルリオーズではなく相原融だ。
それでも、今の彼は私の知る「お父さん」ではない。今の私が彼が知る相原祥子ではないように。
前世の人格と記憶と今生の記憶、それらを合わせてヴィクトル・ベルリオーズの肉体で生きる男だ。今の彼を「お父さん」と呼ぶべきではないのだ。
「では、私の事はジョゼと呼んで。今の私はジョゼフィーヌ・リエールだから」
ブルノンヴィル辺境伯でなくなったので今は今生の母の姓を名乗っている。
……タスクにとっての前世で自分が殺した女が祖母で、その姓を名乗る事になるとは、彼には何とも皮肉な話だが。
「……トオル、オザンファン侯爵令息やシャルリエ伯爵令嬢と一緒にいたけど、お二人を放って私の所に来ていいの?」
「構わないよ。今の仕事はやめるから」
だから、多少無礼をしても構わないと言いたげなトオルを私は不思議に思った。彼がどういう経緯で彼らに仕える事になったかは知らないが、私の知るお父さんは、やめるにしても無礼を働くような人ではないのに。
「三年前、君が去った後、今生の父親の不正の証拠である裏帳簿を探していた。その際に、この子、この体の異母妹、ジャスミーヌに遭遇したんだ」
トオルは隣に座る前世の私そっくりな少女を視線で示した。
十二、三にしては大人びて見えるのは彼女も転生者だからなのか、ただ単に大人びているだけか。
長く真っ直ぐな漆黒の髪。暗褐色の瞳。小柄で華奢だのに、その年齢にしては胸が豊かだ。
「ヴィクトルの父親、ベルリオーズ公爵は美しければ姉妹だろうが娘だろうが欲望の餌食にする男だ。実母も亡くなって身の危険を感じた彼女は、父親を破滅させるために裏帳簿を探していたんだ」
そこでトオルと遭遇したのか。
「俺が今までのヴィクトルと違うと見抜いたミーヌは、家が取り潰された後、一緒に生きてほしいと頼んで来たんだ。女一人で生きていくのは大変だからね」
トオルなら放っておく事はできなかっただろう。まして、前世の愛する妻や娘に似た今生の妹なら尚更だ。
「で、ミーヌと一緒に国を出て行く事にしたんだけど、シャルリエ伯爵領に着いた時に、ミーヌが熱を出してね。しばらく留まることにしたんだ」
シャルリエ伯爵領と海を挟んでイースデイル王国がある。船で、そこに行くつもりだったのだろう。
「ミーヌが回復して船着き場に行こうとしたらアメリー嬢と遭遇したんだ。彼女は俺となる前のヴィクトルを知っていた」
貴族の主な仕事は社交なので、お茶会やら夜会で顔を合わせるし、何より、前世同様、今生の容姿も人目を惹く。トオルやヴィクトルが憶えていなくても向こうが憶えているという事はあるだろう。
「アメリー嬢はヴィクトルではない『俺』を気に入ったとか何とか言いだして、ヴィクトルの生存を王家にばらされたくなければ自分に仕えろと言ってきた。俺だけなら、ばらされても構わなかったのだけれどね」
トオルは前世の娘である私が「生きて」と言ったから生きているに過ぎない。今生の自分が仕出かした事で断罪され結果死刑になっても構わない。むしろ、それを望んだはずだ。
けれど、そうしなかったのは――。
「……私のせいね。私を一人にするのが心配だったからでしょう?」
ジャスミーヌが沈痛な顔になった。
幼く美しい少女だ。そんな彼女がたった一人で世間に放り出されて「無事」でいられるはずがない。前世の愛する妻や娘に酷似した今生の妹だ。トオルならば何としても守りたいと思うだろう。
「それで三年間、シャルリエ伯爵領に?」
私が尋ねるとトオルは頷いた。
「ああ。俺はアメリー嬢の護衛、ミーヌは侍女として働いた」
「やめるつもりだ」と言ったのは、最初から好きでアメリー・シャルリエ伯爵令嬢の下で働いていたからではないからだ。
「婚約者に会いに行くアメリー嬢に同行して……まさか君に再会するとは思いもしなかった」
「……そうね。私もよ」
できれば、今生では二度と会いたくなかった。
……息子の存在を知られたくなかった。
「俺が『誰』か分かるか?」
私の隣に座るタスクが唐突に言った。幼子とは思えない鋭い視線を真っ直ぐにトオルに向けている。
「……ああ。《バーサーカー》だろう」
同じ転生者だからか、トオルも一目で分かったのだ。
その幼い体の中に「誰」がいるのか。
「そうだ。お前にとっての前世で、お前を殺した男だ」
タスクが、なぜ突然こんな事を言いだすのか理解できない。それは私だけではないようでトオルも怪訝そうな顔で髪と瞳の色を除けば今生の自分に酷似した顔を見返している。
「俺を恨んでいるか?」
「いや。前世での事は恨んでない。いくら記憶があったって生まれ変わったんだ。もう前世の自分には戻れやしないのに前世での事を恨んで復讐するのは無意味だろう?」
「それを聞いて安心した。このガキの体では、お前が俺を殺そうとした時、返り討ちできないからな」
その心配をしていたのか。
確かに、いくら中身が《バーサーカー》といえど体は幼子だ。大人の男、しかも、かつての自分に匹敵する身体能力を持つ男が本気で自分を殺しにきたら、なす術もなく殺されていただろう。
「『俺』は、お前にとっての前世で、お前を殺した男だ。生物学上が親子だからといって俺に対して責任を負う必要はない。ジョゼだって望んでない。俺達母子の事は放っておいてくれて構わない」
タスクは、これを言いたかったのか。
「そんな事できる訳ない」
トオルならそう言うのは分かっていた。
いくら前世の自分を殺した男の生まれ変わりでも、今生の人格が仕出かした事で自分が望まない行為の結果出来た子でも、我が子に対して責任放棄できる人ではないのだ。
(……もう、これは逃げるしかないわね)
この人を、トオルを、これ以上苦しめたくない。
だったら、逃げるしかないのだ。