98.あの日の二人は、今 ◆
夜の闇に包まれ、城内は静かだった。
人通りの多い昼間のうちに紛れ込んだ私は、部屋の一つに身を隠して息を潜めている。
本当なら王立学園へ通い始める年頃らしいが、まともな保護者のいない身ではそんな選択肢はない。
――そろそろか。
闇の魔法で姿を消し、移動を始める。標的の部屋は事前に潜り込んだ人間から伝え聞いていた。
失敗すれば死。露見すれば死。
足は躊躇いなく進む。
死のうが生きようがどちらでもよいと、本気でそう思っていた。
任務が成功しても、失敗しても。ただ命じられたから、逆らえば殺されるから動いているだけだった。
建物の端から窓の数を数え、聞いていた通りバルコニーがある事を確認する。
できるだけ音を立てずに降り立ち、中の様子を窺った。何も動く気配はない。細いピンを取り出して鍵を開け、侵入した。
風の弱い夜、ふわりと揺れたカーテンの向こう。
不釣り合いに大きなベッドの中で、黒髪の少年が眠っている。
まだ、六歳と聞いていた。
今宵の任務はこの子供を攫う事だ。誰も彼も私が成功させるとは思っていないようで、失敗が前提だった。彼が狙われたという事実が必要らしいので、誰を狙ったかわかるようにこの部屋への侵入まではこなせる人間が、その後自分が処刑されるだろうとわかっていても動ける人間が、行うべき任務だった。
組織は大物を手に入れたばかりらしく、一人切ったところで痛くないのだろう。
眠り薬の支給はない。
起きてしまったら脅して言う事を聞かせるか、気絶させて運ぶしかない。どの道あらかじめ口を塞ぐ方が良いだろうと、私は猿轡を噛ませるために少年の口を開けさせようとした。
指先が小さな唇に触れる、寸前。
『こんばんは』
ゆるりと開かれた目の中にある金色が、私を射抜いて怯ませた。咄嗟にその口を塞ごうと再度手を動かしたものの、指先すら触れる事はなかった。
いつの間にか片腕が布団から出て、私の首に短剣をピタリとあてていたのだ。
『ふふ』
子供らしくない落ち着いた笑みを浮かべて、アベル第二王子は身を起こした。
首に押し当てられる刃が、妙な真似はするなと言外に伝えている。その指示のままに一歩下がれば、背中に冷や汗が流れるのを感じた。
まだ幼い子供だというのに、この刃に逆らえば命を落とすという確信があった。
『その髪に瞳、体格も手口も何もかも…面白いくらいに情報通りだね。』
密告者がいた、それだけの事のようだ。わかっていて騎士を配さず一人でいたとは、信じ難いけれど。
部屋も廊下も静かで、誰かが駆けつけてくる気配はない。彼は誰か大人から情報を得て餌の役を担っただろうに、その大人はどこで何をしているのか。
わからないけれど、首を刃に晒したまま、私は目を閉じた。
王族の部屋に不法侵入したのだから、このまま殺される。ないしは拷問で組織の情報を吐かされる。どちらか一つを選べるなら、今この少年に切られた方が良いと思った。
意味のある人生ではなかった。何も。
やり甲斐もない作業で、生き甲斐のない日々で
殴られないために黙って、殺されないために働いて。
きっと子供の細腕では一撃で死ねないだろう。
でも、それで良い。
――ごみ溜めで生きていた私が、王子の手にかかって死ぬ。それはきっと、「いいこと」だ。
『何してるの。目を開けなよ』
命じられたままに目を開くと、刃は無かった。
短剣を鞘に納めた第二王子は手早く靴を履いて立ち上がる。
『このまま僕を攫うといい。』
『…何を』
『根城に案内しろと言ってるんだ。』
薄く笑みを浮かべて、私より背の低い王子が歩き出す。風で柔らかく膨らんだカーテンが、バルコニーへ出た彼を一瞬、覆い隠した。
私の足は自然と後を追い、白いバルコニーに佇んでこちらを振り返る姿を、月明かりに照らされた星を、冷ややかに燃える金の瞳を、見た。
『僕が壊してやる』
神々しいという言葉の意味を、正しく理解した瞬間だった。
自分の半分しか生きていないこの子は――否、この方は、尊い存在なのだと。初めて心臓がドクリと鳴った。高揚というものだった。
目の前の存在は、私が「是」と答える事を確信している。その視線を浴びてほとんど無意識に跪き、頭を垂れていた。
『――仰せの、ままに。』
私は知らなかった。
内情を探りに潜入した者が既に捕われ、命じられるままに情報をすり替えていた事も。この任務は本来、第一王子を狙ったものだという事も。
命乞いも媚びを売ることも無駄な抵抗もしなかった自分が、この方の目にどう映っていたのかも。
気付けば城を出ていて。
名を聞かれても答えるべき名前などなく、アベル様は私を「君」とだけ呼んだ。
これまで何をして生きて来たのか、聞かれたのでただ答えながら馬を走らせた。事が終わった暁には、私は騎士から枷を嵌められるのだろう。
『何だ、呆気ないな。』
見張りの男が持っていた剣を容易く奪って、アベル様は次々と私を縛るものを蹂躙していった。
親代わりだから何をしてもいいと宣った者も、顔を合わせる度に暴行してきた者も、魔法の練習台にしてきた者も、服を脱いで添い寝しろと命じてくる者も、気まぐれに食事を床に落として「食え」と言う者も、誰も彼も。
あまりに圧倒的で、不思議な光景だった。
逆らえば殺されるはずの大人達が、私より小さなこの方に全く敵わない。魔法すら使わずただただ暴風のように、アベル様は全てを壊した。
牢部屋を開けると、まだ売られていない子供達が数人、こちらを見上げた。
騒ぎに怯えていたのか、それとも剣を持ち、返り血を浴びたアベル様を恐れたのか。全員固まって目を見開いていた。
ヒビの入った眼鏡をかけ、頬を腫らした商家の娘。一人縛られ床に転がされたままの、伯爵家の跡取り息子。侯爵家の娘などは震えながら失禁していた。
『第二王子のアベルだ。』
平静な挨拶だった。子供達がますます驚いた顔でアベル様を眺める。
『じきに騎士が来る。もうしばらくはここで待て』
子供達には戸惑いが大きかったように思うが、幾人かがおずおず頷くとアベル様は踵を返した。
私はまだもう一つ、特別室と呼ばれる牢がある事を伝えていた。絶対に逃がさないようにと、根城の最奥に作られた部屋。
私は既に、誰かと出くわすと攻撃を仕掛けるようになっていた。私に暗器の扱いを仕込んだ男も、反抗された事に驚いたのかあっさりと死んだ。
アベル様を攻撃しようとするなら、排除した方がいい。頭はシンプルに回った。
たとえここを出た後処刑されても、この方のために動けたという事実は私の魂を救うだろう。
『この部屋?』
『はい。』
牢番が持っていた鍵で重厚な扉を開けると、反射的に頬がぴくりと攣るような異臭が鼻をついた。
知っている匂いだ。人間が焼けた匂い。
『けほっ、……ぅ…』
部屋で蹲っていた少年が顔を上げた。
真っ直ぐ伸びた紺色の髪に、困惑した様子の水色の瞳。煙が染みたのかポロポロと涙を流している。
アベル様が一歩足を踏み入れると、不思議と嫌な匂いが遠ざかった。
『なるほど』
床には少年と近い大きさの焦げた物体があり、ぶすぶすと煙を上げている。
アベル様は少年に近付き、手を差し伸べた。
『話すのは初めてだね。僕はアベル。君は?』
『……っ、あ…』
少年は怯えた表情でアベル様の手と顔とを交互に見ていたが、やがて震えながら手を伸ばした。
『わた、しは…サディア、ス』
煙のせいか、その声は掠れていた。
『サディアス・ニクソンと、申します。』
◇ ◇ ◇
黒く塗り潰されたように、窓の外は暗い。
机に広げた本とノートを閉じ、サディアスは立ち上がった。少し眼鏡を浮かせて眉間を揉み、目を開く。ほぼ同時に窓からノックの音がした。
振り返れば、闇に溶け込むような黒髪の女性が窓の外からこちらを見つめている。
「宣言。」
彼女の方へ歩きながら、小声で唱えた。
「風、壁となり遮れ。」
これで、廊下に声が漏れる事はない。
カタリと窓の鍵を開けてやれば、女性――第二王子アベルの護衛騎士、リビー・エッカートは音もなく部屋に足を踏み入れた。隠密には相応しくない金色のヘアピンが、室内灯を反射してきらりと光る。
腰には彼女の獲物である細身の剣を二振り提げている。廊下から来ずに敢えて窓から入ったのは、城内の者に接触を悟られないためだ。
「こんばんは、リビー。」
「遅くにすまない。平気だったか?」
「えぇ。」
サディアスはちらりと部屋の扉の内鍵がかかっている事を確認し、リビーに椅子を勧めた。
自分も向かいに腰かけ、テーブルに肘を置いて手を組んだ。リビーは鼻から下を隠す黒い布を指で軽く直しながら、少しばかり不満げな声で言った。
「此度の狩猟、私もウィルフレッド様の護衛に入る事になった。」
「……何ですって?」
「我が君は、その必要があると仰せだ。私だけは姿を隠して様子を見ろと」
「…なるほど、敵の油断を誘うのですね。」
サディアスの言葉にリビーが頷く。騎士は王子と令嬢の護衛のために同行する。
姿を消す必要がないからこそ、「見えている者で全員」だと思わせようというのだ。何もなければ良し、何かあれば動けるように。
「騎士連中には内密だが、お前には伝えておくようにとの事だ。」
「そうでしたか…ありがとうございます。」
「サディアス。お前はどう思う?襲撃があると思うか。」
「…何かは起きるでしょう。命を奪うとまでいかずとも、ウィルフレッド様を表舞台から消したいという輩は多いですから。」
――私の父を始めとして。
一言だけは心に留めて、サディアスは眼鏡をくいと押し上げる。
第二王子派の多くが望むのは、戦争による他国の領土強奪、それによる国力の強化だ。軍事国家としてのツイーディア王国を形作るために、次期国王にはウィルフレッドのような穏やかさではなく、アベルが持つ苛烈な強さが欲しい。
そんな者達だから、行動も過激になりがちだった。
ニクソン公爵は立場上あからさまな排斥には乗り出さないが、常々王位継承の条件について改変を求めている。
「本人でなくとも、令嬢の一人でも傷つけば責任問題ですからね。もちろん騎士団が負う責でしょうが、その場にいる王子殿下の立場も悪くなる。」
「アベル様が狙われる可能性はないのか?」
「無きにしも非ず、ですね。……猛獣をけしかける程度なら、相手にもなりませんが。」
「それはわかっているが、護衛の偏りが気にかかる。」
長い睫毛を伏せて、リビーは物憂げなため息を吐いた。
アベルはウィルフレッドの護衛は固めるくせに、自分の護衛はろくにつけようとしない。
――アベル様はお強い、それは間違えようもない事実だが、「何かあるかもしれない」のなら……御身も気にかけてほしかった。
「……何もなければ良いが。」
呟いたリビーの胸元で、ペンダントにはまった小さな朱色が光を反射した。




