97.悪い事も覚えましょう ◆
アベルの死体は見つからなかった。
『ま、そうだよね。』
崩壊した玉座の間から瓦礫が撤去されても、大量の血痕だけが残っていた。
戦いで傷ついた城の修復作業が進んでも、私達の傷が癒えても、新しい王が誕生しても。
『俺なんかの剣であの人が死ぬわけない。』
彼は生きていると、チェスターは信じていた。
『戻っては来ないんだろうけどね。姿を消すためにやったんだろうし』
『……探しに行くの?』
聞くと、チェスターは微笑んだ。
『私も行く!』
『駄目だよ』
聞き分けのない子供をあやすように優しく、甘く、彼は私を見つめる。そこには確かな愛情と決意があって、胸がぎゅっと締め付けられた。嫌だ。置いていかないで。
『アベル様を止めるって目的は果たしたんだから、君はもう俺といるべきじゃない。』
『どうしてそんな事言うの…』
『俺は王子殺しの大罪人だ。本当なら名乗り出て極刑を受けないといけないのに、我が身可愛さにまだ隠れるつもりでいる卑怯者。』
違う。我が身可愛さなんかじゃない。だって、アベルを探すのは殺されるためでしょ。彼はわざと貴方を殺さなかったのに、それをわかっていて、どうして。
言いたい事は沢山あるのに、ただただ涙ばかりが零れ落ちた。チェスターは困ったように笑って、涙の跡に、瞼に、額に、口付ける。
『カレン、君が好きだよ。』
『私だって、』
貴方が大好きだと、そう言おうとした唇が塞がれる。きつく抱きしめられて、私は縋るようにチェスターの背中に腕を回した。止まらない涙が、交じり合う吐息が、この胸の奥が熱い。
最後に軽く音を立てて、彼は唇を離した。
『俺との事はただの思い出にして、どうか幸せに生きて。』
ひどい人だと思った。
私の幸せは、チェスターと一緒にいる事なのに。わかっているくせに。
『今まで俺といてくれて、本当にありがとう。――さよなら』
自分勝手な笑顔だけ残して、彼は行ってしまった。
光の魔法を使われたら私には後を追う事ができない。…ずるい。
『……わかったよ』
部屋に一人残された私は、涙を拭った。つらくて悲しくて仕方ない。けれど、チェスターが、大好きな人がそれを望んだのだ。別々の人生を歩もうと。
ずっと俯いてはいられない。いつかまたどこかで会えた時、笑って話ができるように。
『…さよなら、チェスター。』
大切な気持ちは胸の中にしまって、私はそっと別れを告げた。
◇ ◇ ◇
事前に頼んだ通り、ダンは私が戦闘になった事はメリルに内緒にしてくれていた。
猫を追ってうっかり隠し通路に入り、檻に閉じ込められてしまった私を、探しに来たチェスターがギャビーさん諸共助けてくれた。それだけだ。
突き落とされたり縛られたり、殺されかけたり人を蹴ったりはしていない。
アベルも口裏を合わせてくれるという事だったので、騎士さんが話してしまう事もない。
もちろん騎士団内での報告には事実が載るので、あのロランという執事の罪状はきちんと作られるのだけれど。
「しかし、ウェイバリー様にお会いできたのは良かったですね。シャロン様」
ひとしきり小言を言い終えたメリルが微笑む。
「あの画集を描かれた方ですから、繊細で素敵なお人なのでしょうと想像致しますが。実際はいかがでしたか?」
「ふふ、意外とお茶目な方だったわ。」
彼の絵は緻密で美しい。
まさか寝転がってクッキーを齧り、ポロポロ落ちた食べかすをかき集め、それを口に放り込むような人だとは思わないだろう。
「各地の女神様を描かれていたでしょう?地域の伝承も聞いて覚えていらっしゃるそうだから、あの方と女神様の伝説について話したらとても時間が足りなさそう。」
「まぁ…それは興味深いですね。」
「そうかぁ?」
ダンが白けた声を出す。
私は《潮風》に描いたという女神像ひとつ取っても聞きたい事が沢山あるのだけれど、ダンは興味がないみたい。
女神伝説の専門家の方とギャビーさんが対談したらどうなるかしら、なんて想像してしまう。色んな意味で一筋縄ではいかなさそうだけれど。
「王家の始祖は女神様と一緒に戦った騎士様だから、国の歴史研究にも関わる事なの。」
「大昔の話したって何にもなんねぇだろ。」
「口を慎みなさい、ダン。チェスター様の前ですよ」
メリルが目つきを鋭くして注意したけれど、ダンはしれっとそっぽを向く。チェスターはからりと笑って手を振った。
「いいよいいよ、畏まんなくて。ギャビーさんの話ね、面白そうだよねぇ。あの人が旅をしてたってだけで、女神伝説以上にエピソードがありそうじゃない?」
「確かに、色々起きていそうだわ。」
道端で寝転がるギャビーさんを想像して、思わずくすりと笑ってしまった。
各領地も自警団や騎士がいるけれど、旅は危険な事も沢山あるはず。あの危機感のなさでどうやって乗り越えてきたのかも気になるところだ。
「と言っても、しばらくは事情聴取だの何だので騎士団預かりだろうし、話す機会は中々ないかもね。」
「そうね…残念だけれど。」
いつかまた話せたら嬉しい。
ジェニーと約束した旅のために、彼の話を聞いておきたいし、それに――
『ここには太陽も月も星もなければ女神もいない。それじゃ、あまりにつまらない。』
そう言った彼の目に、今の星々はどう映っているのだろう。
軽いノックの後、部屋の扉が開く。
誰が来たのかはすぐにわかった。フードを深くかぶったその人の視線は、入室と同時に立ち上がった私へと移る。目が合った瞬間、私は自然と名前を呼んでいた。
「アベル」
少し疲れた様子の第二王子殿下は、こちらに歩きながら軽く横を向いてフードを脱いだ。
血をきちんと洗い流していないせいか、ざらりと乾いた黒髪はパサついている。ローブの前はしっかりと閉じられているから、メリル達はその下が血だらけとはわからないだろう。
チェスターが立ち上がって彼の傍に控える。
「状況は大体わかった。君は帰っていいよ」
「そうなの?てっきり私にも聴取があると思っていたのだけれど…」
途中からはチェスターと合流していたとはいえ、話が合致するかも含めて確認したいはず。そう思って聞くと、チェスターが答えてくれた。
「今日はもう時間が遅いからね。十二歳の女の子に無理させらんないし、シャロンちゃんなら連絡がつかなくなる心配もないし。明日にでも騎士が話を聞きに行くと思うから、ゆっくり休んで。」
「わかったわ。」
「お気遣いに感謝致します。」
メリルがチェスターとアベルに丁寧な礼をする。
アベルは私へ視線を移すと手を差し出した。この手に握ったままでいるハンカチの事だろう。
「ちゃんと洗ってから返すわ。」
当たり前の事を言ったのに、アベルは一度瞬きしてから首を軽く傾ける。不思議そうな顔をされることではないと思うのだけれど。だって、
「汚してしまったもの。」
「…まぁ、好きにするといい。」
何なら捨てても構わないと、前にも聞いたようなセリフを言いながら、アベルは手を下ろした。
血だと知れたら心配されそうなので、メリルからはハンカチの汚れが見えないようにしている。今一度彼女の位置をちらりと確認したら、なぜか優しい笑顔で私を見つめていた。
まるで、子供がつくバレバレの嘘を見守るような…何かしら……な、何がどこまでバレているというの…!?
動揺を押し隠す私に、チェスターがひらりと手を振った。
「じゃ、気を付けて帰るんだよシャロンちゃん。何か気になることがあればいつでも言ってね☆」
「…!えぇ、ありがとう。チェスター」
ジェニーが快方に向かっている今、どこまでゲーム通りのシナリオなのかわからないけれど。
入学前にもうひとつ――彼のご両親が亡くなる事は、止めなければ。
「アベルも、またね。狩猟の日も楽しみにしているわ」
それまでに会う機会があるか、ないのか、わからないけれど。
私が「狩猟」と言った瞬間、アベルはなぜか少しだけ眉を顰めた。何かあったかしらと瞳を見つめて先を促すと、アベルはじっと見返してきた。
「狩猟の日だけど…君、まさか…」
「?」
「……いや、いい。愚問だった」
アベルはふと力を抜いてそう言った。
何かしら。私、何か勘違いしている…?
治癒の魔法のこと、アベルが「ウィルに相談してみる」と言った後で狩猟のお誘いがあったから、この機に練習させてもらえるのかも…と思っていたのだけれど。
でもそれは皆のいるここでは聞けないわね。
アベル達と別れて、私はエクトル・オークションズを後にした。
屋敷へ帰るとすぐ食事と湯浴みで、それが済むとすぐ部屋へ放り込まれてしまった。
扉が閉じられる前になんとか、ダンに話があるとメリルに伝えると、数分後にはダンが大あくびをしながら入ってきた。
「なんだよ、お嬢。今日じゃなきゃ駄目か?」
「悪い事をしたくて。」
前に彼が言った言葉を使うと、ダンはぱくんと口を閉じる。
「貴方前に、客間の扉を開錠したでしょう。」
「…あー、お嬢がレオといた部屋か?」
私が頷くと、ダンは「気付いてたのか」と意地悪く笑った。
カレンを探すためにレオを客間に引っ張りこんで相談した時のことだ。あのとき私は鍵をかけたのに、ダンは勝手に入ってきた。
「どうやったのか私にも教えてほしいの。」
「鍵開けできるようになろうってか?」
「えぇ。今日、檻の鍵を自分で開けられたらどんなによかったかと思って、帰ったら絶対に貴方から習おうと決めていたの。」
「そりゃ光栄だな。いいぜ、悪い事教えてやるよ」
ダンは必要な物をいくつか挙げて、買ってくるから金は用意するようにと言う。私は店や品物の価格帯を聞いてから了承して、ふとダンの顔をじっと見つめた。
ニヤリと楽しげに歪んだ口、つり上がった三白眼に眉間に寄りがちな皺。悪っぽく見えてしまうのは変わらないのに、あの日下町で出会った時とはまったく別人のよう。
「……貴方は、私を止めないのね。」
聞くと、ダンは首を傾げた。
「あぁ?止めても内緒でやんだろーが。」
「…そうかもしれないわ。」
「それに、ただチマチマ針糸いじってクスクス笑ってる奴より、お嬢みたいなお転婆の方が仕え甲斐があるぜ?」
大げさに抑揚をつけて話すダンがおかしくて、私はつられて笑ってしまう。
「あら、ダン?貴方、私に仕えてくれていたの?」
「仕えてんだろ、誠心誠意?」
「ふふっ、そうね。いつもありがとう。」
御者さんだと思って話しかけた時は、まさか我が家の使用人になるとは想像もしていなかったけれど。
新たに鍵開けの先生になったダンを見送って、私は部屋の扉を閉めた。
「…そうだわ、ハンカチを。」
血を見せる訳にはいかないから、自分で洗うと言い張ったのだった。
その時もメリルがにんまりしていたのがちょっと気になったものの、なんとなく理由は聞かずにいる。
少し汚れてしまったハンカチは、アベルが気遣ってくれた証だった。
自分があんなに疲れている時でも優しいのに、彼は優しいという自覚がない。
「宣言。水よ、この手の上に。」
ふわりと浮かぶ水の球を窓辺へ移動させながら、私はその中にハンカチを浸した。
――どうか、綺麗になりますように。
いつかのように額縁へ座った私の手から、水がきらきらと庭へ滴り落ちていく。ハンカチの角を二つ指でつまんで、ぱたりと翻した。




