96.殺しても死なない
報告に来たヴェロニカと共にアベルは出ていき、チェスターはメリル達が来るまでの護衛を言いつけられて部屋に残った。
扉は開けたままシャロンと二人、テーブル越しに向かい合っている。
「アベルが持っていった薬瓶、あれはチェスターが出品を止めた物よね?」
「そうだよ。別件で探していた物に似ててね。」
「すごい薬だというから私も気になっていたの。オークションでは説明が途中だったでしょう?もしかして、安全に傷や魔力を回復できる薬だったりしないかしらって…。」
魔力、という単語にチェスターの目が僅かに細められる。
オークションハウス側の認識は「精力剤」でしかなく、たとえ説明が続いていたとしてもそれを匂わせる言葉が続いただけだろう。
アベルや騎士団が探しているのが魔力増強剤だという事を、シャロンが知っているはずもない。チェスターは微笑みを浮かべて返した。
「どんな薬かは騎士団に持ち帰っての検査になるかなぁ。傷も魔力も回復するっていうのは、さすがに無いだろうけどね。そんなの開発されたら大ごとだよ、王家から表彰されるかも。」
「…そうよね…」
シャロンは考えこむように顎に手をあてている。合法の魔力回復薬は、効果を安定させる代わりに効力は薄い。安全に魔力を回復して傷まで治る薬、などというのは絵空事だ。
現実味のない話をやけに真剣に考えていたのだなと、チェスターは少し不思議に思った。
そしてそれを、彼女がアベルを心配していた事と結びつける。
「大丈夫だよ、シャロンちゃん。」
返り血を浴びた彼を見慣れた臣下達とシャロンは違う。
驚くのも無理はない。顔を上げたシャロンに、チェスターは明るく笑いかけた。
「アベル様は強いからね。殺したって死なないような、最強の王子様なんだから。」
しかし、
「死んじゃうわ」
ぽつりと小さく、シャロンはそう返した。
「アベルだって、死んでしまうのよ。チェスター」
その瞳に映る恐怖も、少し低まった声も真に迫っていて、虚を衝かれたチェスターは視線を彷徨わせた。
何か言おうとした口を閉じ、喉がごくりと鳴る。
「……な、にを…」
――何言ってるの、シャロンちゃん。
軽口が言えなかった。
アベルに仕える者達にとって、彼の強さは絶対だ。本当に負けるところなど想像もつかないし、いつまでも彼は絶対的強者で在り続けると確信している。死ぬはずがない。
けれどシャロンの言う通り、アベルだって人である以上は死ぬ事もあるのだろう。
彼女にとっては「殺しても死なない」は笑えない冗談だった、ただそれだけだ。
――…それだけ、なのか?
何かに備えるように強さを求めるシャロン。
アベルを過剰に心配していたシャロン。
病の正体を見抜いたシャロン。
「君は……何か知ってるの?」
ほんの一瞬だけ目を見開いた彼女は、すぐに視線をそらした。
その両手は膝の上でハンカチを握っている。
「いいえ…ただ、心配なだけ。そうなったら嫌だと、足掻いているだけだわ。」
「……そっか。」
正直な事に、彼女は決して視線を戻そうとはしなかった。
「…シャロンちゃん。」
廊下からはまだ足音が聞こえない。
チェスターは立ち上がり、名前を呼んでもなおこちらを見ない彼女の前に跪いた。見上げれば、突然の行動に驚いた様子の薄紫の瞳と目が合う。
「ジェニーを助けてくれた君だから、俺は君の《心配事》をちゃんと考えたいと思う。」
膝の上に置かれていた小さな手を取り、チェスターは騎士が忠誠を誓うように手の甲へ口付けた。
軽薄さのない紳士的な動作に、シャロンは照れる事なく彼を見つめている。
「それがどんな内容だろうと、俺は君と一緒にその《心配》に備えよう。」
「……信じられないような、事でも?」
「うん。」
躊躇いながら聞いたシャロンに、チェスターは力強く頷いてみせる。
そして柔らかく微笑んだ。
「君が嫌だって思う事はきっと、俺も嫌な事だから。心配性でも過保護でも何だっていいよ、そうならないためなら。」
どこまで知っているのかはわからない。何が起こるのかはわからない。
それでもきっと、この手を取る事は間違いじゃない。
「一人で頑張るより、俺も仲間に入れてくれないかな。」
「……わかったわ。チェスター」
シャロンは膝の上にハンカチを置き、チェスターの手を両手で包んだ。
祈りを捧げるように目を閉じ、微笑みを浮かべる余裕もないまま呟く。
「ありがとう。」
心からの感謝だった。
彼がここまで言ってくれるのなら、また一つ別れを告げる事ができる。廊下から聞こえてくる足音はメリルとダンのものだろう。今はまだ詳しい話はできないし、どこまで伝えるかもすぐには判断ができない。
それでもこれだけは終わりにすると、シャロンは決意して目を開いた。
――さようなら。チェスターがウィルを殺してしまう未来。
◇
「猛獣をけしかけて、第一王子殿下を狙う予定だったと?」
「そう言ってたんだから、そうなんじゃない?」
ヴェロニカの問いに、ギャビーはのほほんとした笑顔で答えた。
彼女と共に部屋に入ってきて壁に寄りかかったきり、一言も喋らないローブを着た少年の正体などどうでもいい。そのフードの中身を探るつもりもない。
隣からすぱんと頭を叩いてくる画商、フラヴィオの方が余程面倒だった。
「王子殿下の命を狙った計画だぞ!お前、もっとこう…緊張感を持てよ!」
「えぇ…?ボクが緊張したら何か変わるのかい?そうは思えないけどな。」
「そういう話をする雰囲気ってモンがあるだろ、この怖いもの知らず!」
不敬だと切られやしないかと、フラヴィオは大きな身体を縮めて震えている。近所の子供に「むきむき髭おじさん」なんてあだ名をつけられたくせに、小心者なのだ。友人のためにオークション会場に乗り込む気概は持っているけれど。
長い睫毛をゆったりと揺らして瞬きするギャビーは、傍目には「山賊フラヴィオに誘拐された儚い佳人」そのものだった。珍妙なコンビの姿にヴェロニカはくすりと笑う。
「しかし、ウェイバリー殿の――」
「ボクの事はギャビーと呼んでくれ、さっきも言った通り。」
「…ギャビー殿の、記憶力には恐れ入りました。あれだけの会話量を覚えておくなんて、並大抵の人間には真似できない。」
ジュリオ伯爵の執事ロランと、もう一人別の男とが密会していた現場。
そこで聞いた会話内容をギャビーは一言一句違わずに棒読みしてみせた。内容と人相から察するに相手はソーンダイク子爵で、猛獣の手配にロランが一役買っていたらしい。
「ボクは並大抵の人間じゃないって事だね。あぁ、《潮風》は絶対に削り落としてくれるかい?出られたからには、偽物を残したくないし。」
「えぇ。専門家に依頼して丁寧に削った上で、現れるだろう似顔絵…肖像画と言うべきですかね、そちらは証拠の一つとして保管させて頂こう。」
ヴェロニカの答えにギャビーは満足げに頷いた。テーブルの上では白猫が優雅な仕草で毛づくろいをしている。
壁に寄りかかっていた少年――アベルは、静かに部屋を後にした。
『アベル殿下!貴方が、貴方こそが上に立つべきだ!!』
騎士に捕えられ、罪の誤魔化しようもないと悟ったソーンダイク子爵の叫びが思い出される。
彼が猛獣をけしかける予定だったのはウィルフレッドの方で、本人に届かずとも一緒にいる令嬢に傷でも負わせられれば上々という考えだった。第一王子の力不足を印象付けられるからと。
『僕には継承権がない。そんな事もわからないのか。』
『しかし陛下は貴方を廃嫡しない!法務大臣殿も常々訴えておられるでしょう、王位継承に魔力の有無など問うべきではないと!未だ幼いながらにしてその強さ!貴方は生まれついての支配者だ!!』
『連れて行け。』
アベルの指示で騎士が子爵を無理矢理立たせ、歩かせる。
ぐりんと首を斜め後ろへ傾け、ギョロギョロと動く目玉には狂気の光が宿っていた。用心棒でもあった殺し屋が好奇心でアベルに剣を向けても、すぐ本気に変わっても、子爵は止めなかった。
殺し屋が返り討ちにされた時と同じニタリとした笑みを浮かべ、今、アベルを見つめている。
『ご安心を、殿下…全てはなるべくしてなるのです。途中で何が起ころうと、王になる人間は変わらない。』
余計な口をきくなと騎士に詰められても、背中を突き飛ばされても、無理やり前を向かされようと、子爵は笑っていた。
『はは…ハハハ、そう、そうだとも』
ソーンダイク子爵の口角から涎が垂れ、両目の向く方向がぐるりとバラける。
これはもう何かヤッてるなと騎士の誰かが呟いた。部屋に残ったアベルの頬を返り血が伝い、ポタリと落ちる。
『第一王子さえ死ねば!誰が何と言おうと貴方が王だ!!ひゃは、はははははは!!』
耳障りな笑い声は鈍い音と共に消えた。
アベルが手を下すまでもなく、連行していた騎士によって意識を奪われたのだ。
――ウィルがいなくなれば、王位を継がざるを得ない。それは確かだ。
客の殆どを帰らせ、今や騎士が見張りに立つエクトル・オークションズの廊下を歩きながら、アベルは眉根を寄せた。
第二王子を玉座にと考える人間には、本人がそれを望まないと察している者、いない者がいる。
そして、察した上で王にしようとする者、本人の意にそぐわないなら黙っているという者。
前者の中でも、今回のように「第一王子を殺せば本人の意向は関係ない」と考えて動く者は、アベルにとって敵でしかなかった。
――させてたまるか。
狩猟の場でウィルフレッドの方に多く騎士を配したのは、同行する令嬢の人数差だけではない。
この機に動物原因の事故を装い、第一王子を狙う輩が出ると確信しての事だった。子爵家の使用人が勇気を出して告発したから事前にわかったものの、同じ事を考える人間が他にいないとも限らない。
アベルは令嬢の誰かが直接手を下す事すら想定していた。
女子供は標的が油断しやすい刺客であるし、まして婚約者の座を賭けてやってきた令嬢が手を汚すなど、本来はありえない。
ただ、脅されて人を殺す人間などこの世には掃いて捨てるほどいるのだから。
当日ウィルフレッドに付く騎士には充分に警戒するよう伝えている。
アベルが同道する事はできない以上、サディアスと騎士達に任せる他ない。
『殿下、貴方が襲われる可能性はないのでしょうか。』
薄く笑みを浮かべ、クローディアはそんな事を言っていた。「あったとして何だ」と聞き返せば、「愚問でしたね」と目を細めていたが。
どんな猛獣や刺客が来ようと、ただ相手をするだけだ。「それに」と考えて、扉の前で立ち止まったアベルはドアノブに手をかける。
――最悪相討ちで死んでも、俺がいなくなる分には構わな…
「アベル」
部屋に入った瞬間、シャロンが顔を綻ばせて名前を呼ぶ。
アベルは反射的に目をそらした。




