95.血まみれの王子様 ◆
エクトル・オークションズの貴賓室に入るなり、アベルは着ていたローブを脱いだ。
無惨にも赤く染まった一級品のシャツとベストが露わになる。少し癖のある黒髪にも乾いた血が紛れているのが見えて、軽く拭いたくらいでは落ちないほど浴びたのだろうとわかった。
彼はローブをソファへ放り、その上から腰掛けて足を組む。少し気が立っている様子だが、家具を血で汚さない配慮をする程度の余裕はあるらしい。
「薬が見つかったそうだね。」
「えぇ、まぁ。」
苦笑いで返したのはチェスターだ。
アベルに促され向かいのソファに座ると、テーブルに一本の薬瓶を置く。
コト、という音と同時、透明に見えた液体の下の方から塵のようなものが舞い上がった。沈殿物が発生していたらしい。
「賭博場で見た物と比べて、どうです?」
テーブルの水差しからグラスへ水を注ぎ、アベルへと差し出してチェスターが聞く。
薬瓶を見つめていたアベルは目を閉じ、短いため息を吐いた。
「外見上、同じ物だ。正確なところは薬師に調べさせないと無理だろうけど……中身が僅かに減ってるようには思う。オークションハウスでも調べたという事かな。」
「みたいだね。でも大した物じゃないと思ったらしく、腕の良い者を探したりはしなかったとか……ま、《精力剤》という結果だったそうですよ。」
「魔力増強効果を知って盗んだわけではないと?」
アベルの問いにチェスターは頷き、経緯を説明した。
画家ガブリエル・ウェイバリーの《使い魔》が普通の猫と見紛うほどである事、薬瓶を盗ったのはその猫だと証言している事、ウェイバリーはジュリオ伯爵の執事ロランが何者かと話している現場に遭遇し、連れ去られてきた事。
「……猫一匹見逃したわけだ。」
「ギャビーさんは、現場検証には付き合うって。騎士の処遇はそれからですね。」
「わかってる。」
そうは言いつつも、アベルの目は冷ややかだった。賭博場で見張りを任されていた騎士の今後は、白猫の盗みの手腕にかかっているだろう。
賭博場に質として薬瓶を預けた男は、今回アリバイがあった――とうに、死んでいたのだ。
多額の借金を背負っていた上、自殺か事故か怪しい状況での事だった。それでも入手経路について、賭博場の管理者は生前の男から話を聞いていた。
それもまた怪しげな取引現場に遭遇し、落ちていた物を手に入れたのだと。だから賭博場では薬の効果をきちんと調べた。
結果、体力の回復だけではなく魔力の増強効果が認められた。
本来は死んだ男の借金など帳消しにできる額での取引だったが、男は薬の効果を知らずに持ち込んだため少額の金と引き換えの質入れとなった。
魔力の増強効果を持つ薬は、その殆どが違法だ。安定した効果ではないため暴走を起こしやすい上、幻覚、錯乱などの精神的な副作用を起こす確率が高い。
「最初から中身がわかっていれば、見つけた段階で僕が回収できたんだけど。」
「いや~、まさか倉庫に並べてあるのがそんな物だと思わないでしょ。瓶も普通だし。」
どこにでも売っていそうな薬瓶に、見ただけでは効果のわからない液体。
気つけ薬ですとでも言われた方が納得できる見た目だ。わざとそうしているのだろうとアベルは眉を顰めた。
「それで、ウェイバリーが聞いたという会話内容は?執事の密会相手はわかってるのかな。」
「その辺りはまだこれから。何せ、捕まってたとこを脱出してロランが自供して、伯爵が危ないーってなってたとこにちょーど、貴方が来たものですから。」
言いながら、チェスターは改めて正面に座るアベルの姿を見る。
ローブで隠せない場所――顔や手についた血は綺麗に拭ったようだが、漂う血の香りと衣服を見れば彼がどれほど凄惨な現場にいたかがわかる。
「子爵邸で何があったんです?」
元々、アベルが子爵邸に行ったのは使用人から騎士団に通報があったからだ。
コンラッド・ソーンダイク子爵は獰猛な生き物を集め、王子殿下の狩猟の場に放つつもりだと。アベルはグラスを手に取り、一口だけ飲んで息を吐いた。
「情報通り、肉食獣十数体を確認した。どうすれば人を襲うか、飢えさせたり毒や怪我を与えて試していたらしいね。そこにエクトル・ジュリオが来た。」
「伯爵も仲間だったと?」
「オークションで売れそうな動物がいるか見てほしいと言って誘ったようだけど、実際には殺すつもりだったみたいだ。」
鉄格子で半分に区切られた部屋の中、ジュリオ伯爵は片方へ突き飛ばされ、そちらにあった猛獣の檻が一斉に開け放たれた。
隠密特化の騎士数名を連れて潜入していたアベルは、そこで姿を現し場を制圧したのだ。
「えっ、じゃあその血って動物のなんです?」
「いや…騎士が風を使ったせいか、動物は割とすぐ大人しくなってね。これは子爵が連れていた殺し屋の物だよ。」
「あらま……シャワーが先でもよかったのに。」
「そんなもの後回しだ。薬瓶の確認が先でしょ」
戦闘の後、アベルは屋敷の外に待機させていた騎士も呼んで事後処理を始め、そこでようやく、オークションハウスからの使いとヴェロニカが寄越した騎士の話が通った。
気絶して目覚めないジュリオ伯爵と騎士を連れ、アベルはオークションハウスへと向かったのだ。
「せめて着替え――はないか。髪だけでも洗い流します?水なら出しますけど」
「いい。パーセルに僕が呼んでいると伝えてくれるかな。伯爵を叩き起こして執事やウェイバリーとは別で聴取を。」
「わかりました。じゃあその間に、あー……」
「何。」
困り顔で笑みを浮かべる従者に、第二王子がじろりと続きを促す。
やらなければならない事は沢山ある。必要以上に時間をかけるつもりもなかったし、戦闘後に子爵の自分勝手な喚きも聞いたせいで、あまり機嫌がよくないのは自覚していた。
「会わせようと思ってた人がいるんだけど…貴方が予想以上に血まみれで来たから、どうしようかなって。」
「これで怯むなら僕に会おうとするなと言っておけ。」
「相手次第って事ね……わかった、聞いてみる。」
チェスターは立ち上がって部屋の扉を少し開け、廊下に顔を出した。
アベルは短く息を吐いてグラスを取り、くいと傾ける。チェスターが小声で話すのが聞こえてきた。
「シャロンちゃん、どうする?アベル様血まみれだけど。」
「んッ、ぐ!」
予想外の名前に驚き、気管に水が入る。
「えぇっ!?そんな!!」
廊下から悲鳴のような声がし、アベルがグラスをテーブルに戻したと同時、慌てた様子のシャロンが部屋に飛び込んできた。当たり前だ。チェスターの言い方が悪い。
なぜ彼女は男装しているのかと嫌な予感がしたがそれどころではない。
けほ、と前かがみで咳き込んだアベルは無意識に胸元へ手をやっており、それはくしくも返り血がべったりとついた場所の中心だった。
シャロンが真っ青になって駆け寄ってくる。
「アベル!大丈夫なの、いえ大丈夫じゃないわ、こ、こんな、どどどうしましょう!」
「待て、ちがッ…」
アベルは否定しようとしたが、苦しげな顔で首を横に振ったところで強がりにしか見えなかった。
シャロンは今にも泣き出しそうな顔でアベルの肩を支えると、少しでも楽な姿勢にと彼を横に寝かせようとする。
「こんなに血が出てるのに何を呑気にしていたの!」
「待てと、ッおい!」
「え?あの、シャロンちゃん?」
チェスターは部屋の入口に立ったままきょとんとしているが、シャロンはそれどころではない。
なぜか抵抗してくるアベルを無理矢理押し倒し、治癒の魔法を施すべくシャツのボタンに手をかける。アベルがその手を掴んできて、シャロンはますます混乱した。
「離して!ちゃんと傷が見えないと、治せな…」
「違う!馬鹿、待て!全部返り血だ!!」
「へ?」
ぱちりと瞬いたシャロンが手を止める。
押し倒した身体を改めて見てみれば、確かにシャツもベストも赤いけれど裂けていないし、血は乾き始めている。
元々一つ開いていたシャツのボタンをさらに二つほど外す事に成功していたが、中に見える肌はシャツから染みた血で汚れてはいても、傷などなかった。
ようやく止まったかと、アベルがため息と共に力を抜く。
呆然としてシャツを掴んだままのシャロンの手を軽く握って押しやれば、彼女はゆっくり後退してぺたんと床に座り込んだ。
「……びっくりしたわ。」
「こっちの台詞だよ。」
アベルはボタンを留め直しながら身を起こし、立ち上がる。
「ほら。」
シャロンに手を差し出すと、彼女は僅かに震えながら、まだ不安そうな瞳で確かめるようにアベルの手を握った。
弱々しい姿がかつて見たものと重なる。
『いなくならないで、アベル……』
あの日、馬車の上で泣いたシャロンはそう言った。
怪我をしたと勘違いした上で今の姿を見れば、彼女がパニックになるのも無理はない。アベルの手を頼りに立ち上がってソファへ座ると、シャロンの震えはおさまったようだった。
「……チェスター、お前が悪い。」
最初から相手を言わなかった事も、彼女への伝え方もだ。
アベルが敷いていたローブをずらして自分も座ると、チェスターはこちらへ戻りながら「ごめんね」と顔の前で手を合わせた。シャロンは窺うようにアベルとチェスターを交互に見る。
「ほ、ほんとに怪我はないのね…?」
「ない。それより君、こんなところで何してるの。」
「それはその、最初は絵を見に来たのだけれど…」
シャロンが話す間に、アベルはポケットの中で無事だったハンカチを取り出してチェスターに放った。ちらりとシャロンの手を目で示してみせる。アベルのシャツを掴んだせいで血がついたのだ。
チェスターがにこりと頷き、ハンカチを水の魔法で濡らしてシャロンに渡す。彼女は恐縮していたが、差し出されたものを突き返すわけにもと、おずおず受け取って手を拭いた。
「…出口で騎士の方達と合流できたの。チェスターが来てくれて本当に助かったわ。私だけでは守れたかどうか。」
「ギャビーさん、だいぶ無抵抗だったもんねぇ。」
「えぇ、驚くほど。…そう、それに私は最初縛られていたのだけれど、貴方にもらったナイフを使って縄を切ったのよ!」
「あ、あー…あれアベル様のか!道理で見覚えあると思っ……いやいや、女の子へのプレゼントがナイフって!」
ハンカチを握ったまま誇らしげに目を輝かせるシャロンと、「正気か」と言わんばかりのチェスター。二人の視線を受けて、アベルは静かにこめかみを押さえた。
◇ ◇ ◇
地下通路から脱出したアベル、シャロン、ギャビーの三人は、広間で執事ロランと話していたヴェロニカ・パーセルと合流した。
しかしソーンダイク子爵に会いに行ったはずのエクトル・ジュリオ伯爵は戻らない。子爵は使いに「彼はもう帰ったはず」と伝えたという。
『勘付いて逃げたのだろうか?』
腕組みをして呟くヴェロニカに、ロランはちらちらとギャビーを盗み見ながら「そうかもしれません」とか細い声で答える。アベルはそんな執事の姿を眺め、騎士に命じた。
『《潮風》を持ってこい。表層を剥ぐ』
『はっ。』
『……?し、失礼ながら第二王子殿下、剥ぐとは一体…』
『言ってなかったけど、ボクはあれの下に君達の絵を描いたんだ。だからじゃないかな?』
小首を傾げ、頬に人差し指をあてて笑うギャビーにロランの顔が蒼白になった。
彼が監禁の犯人だという推測は正しかったと察したアベルは、玄関ホールで合流した使用人にしっかりと手を繋がれたシャロンを振り返る。
『君はもう帰っていい。明日にでも聴取で騎士を向かわせるよ』
『…わかったわ。』
これで手を拭えと渡されたハンカチを胸元に握ったまま、シャロンが頷いた。隣に立つオレンジ色の髪の侍女は深く礼を取ったままでいる。シャロンがアベルに救われた事が明らかだからだろう。
手を差し出したアベルに、シャロンは首を横に振った。
『洗って返すわ。だから、アベル』
騎士達の目は自供を始めたロランへ移っている。
シャロンの言葉を聞いているのはアベルと、横にいる侍女だけだった。
『私達また、会えるかしら。』
アベルは訝しげに眉を顰めたが、目の前の少女はウィルが生涯共に在りたいと認めた人なのだ。
地下で自分を心配するような言動をしていた事も含めて、未来の義弟を多少気にしているのだろうと考えた。
――君達が結婚する頃、僕がまだいるとは限らないのにね。
『…そのうち、会えるんじゃないの。』
冷えた笑みを浮かべて返したというのに。
『ありがとう』
花がほころぶように優しく、彼女は微笑んだ。




