94.そして彼は外に出た
荒々しく階段を下りてくる足音に、私はハッとしてチェスターと顔を見合わせた。
救援にしては足音が一人分しかないし、数段飛ばすような降り方は騎士らしくない。さきほどの三人の仲間である可能性が高かった。
首を傾げるギャビーさんを踊り場の角に押し込むようにして、私もぴったり身を寄せる。既に宣言を唱え始めていたチェスターが、私達のほうへ手をかざした。
「この二人の姿を隠してくれ。……よし、絶対喋らないようにね。あんまもたないから」
一人だけ姿を現すつもりでいる彼を止めたかったけれど、このまま潜んでいざという時に不意打ちできるよう備えるべきだと考え直した。
いまいち危機感のない顔をしたギャビーさんの手を取り、わかりやすく彼自身の口を押さえさせる。
いよいよ近付いてきた足音を前に、私は静かにお守りのナイフの柄へ手を添えた。そして、
その人物が私達のいる踊り場に着いた時、強い風が吹いた。
「あァ?てめーはさっきの…」
「ダン!」
チェスターを見てしかめっ面をした彼の名前を呼んだ。
驚いたように視線をぐるりと彷徨わせたダンは、チェスターが軽く手を振って魔法を解くとようやく私を捉えたようだった。ニヤリと口の端を吊り上げ、駆け寄った私の頭を掴むように撫でる。
「よぉ。元気そうじゃねぇか。何してたんだ?」
「猫を追いかけていたのよ。あんまり危なくはなかったわ。」
「いや、シャロンちゃん。誤魔化すのは無理だよ。君にも事情を聞かなくちゃ…罪状に関わるとこだからさ。」
「ご、誤魔化そうなんてしていないわ。」
私はちらりと視線を彷徨わせて言った。決してメリルやランドルフに怒られそうとか、今後外出禁止なんて事にならないか不安だから黙っておこうとか、そういうわけではないのだ。
大げさに言わないように気を付けただけで。
「俺に嘘ついたってしょうがねぇだろ。今の内にメリルに何て言うか考えとけよ」
「うぅ…嘘じゃないのに……。」
「で、何だソイツ。」
ダンの目がギャビーさんに移る。きょとんとして私達を眺めていた彼は、ぱっと顔を輝かせた。まるで今から精霊の祝福でも行われそうな眩しさだわ。
「よくぞ聞いてくれた!そう、ボクこそは!」
「声でけ…」
「一度見れば全てを忘れない!ありのままを写し出す天才画家、ガブリエル・ウェイバリー!!」
やっぱり片手を胸にあて、片腕を広げるようにしてギャビーさんは名乗った。ダンの反応が薄い事も気にしてないみたいで、その笑顔は誇らしげだ。
上へ行きましょう、と手振りでチェスターに伝えて歩き出しながら、私はギャビーさんに聞く。
「そういえば、ギャビーさんは記憶力が良いのですか?名乗る時必ず「忘れない」とおっしゃいますけど…」
「良いとも。ボクは思い出そうとすれば何でもハッキリ思い出せるからね。見たものも聞いたものも、全て覚えているよ。各地にある女神像の美しさも、村の人が教えてくれた伝承も、」
ギャビーさんは鳥でも留めさせるように腕を水平に上げる。
階段を駆け上がってきた白猫が軽やかにその腕へと飛び乗った。
「道端で見つけた野良猫の姿も、全部ね。」
「……学園の授業はまともに出てない、魔法には詳しくない…だっけ。」
階段を上がる足は止めずに私達を振り返って、チェスターが牢で聞いたギャビーさんの言葉を繰り返す。口元は苦々しく笑っていた。
「もったいないな。貴方はきっと、魔法使いとして大成しただろうにね。」
その通りだと気付いて、私は思わずギャビーさんの横顔を見つめた。
魔法はどれだけ明確に想像できるかがとても重要なのだ。必須とされている宣言――発動のための言葉だって、口に出す事でイメージの補強をするため。ギャビーさんが本格的に魔法を身に付けていたら、すごく強力な魔法使いになっていただろう。
私達の視線を受けた彼は、ころころ笑って白猫を落とした。
猫はぴちゃんと着地して、階段を上がる私達に並走する。
「ふふ、そんなの言ったって仕方がないさ。君、画家として大成しただろうにって言われて、これから描き始めるかい?」
「う~ん…俺は……ある程度将来決まってるしね。そっちの方がやりたいかな。」
「そうとも、結局本人のなりたいようにしかなれないよ。ボクは描きたいものを描ければそれでいいんだ。」
鎖で繋がれた足枷を嵌めたまま、裸足で石の階段を上るギャビーさんは宗教画のようだった。
迷いのない青緑の瞳も、自分の美しさを飾ろうとしない服装も、白い肌を照らす蝋燭の明かりも、全てが彼を神秘的に魅せている。
全て覚えているという記憶力も、緻密に描き出す手も、殺されそうになっても流れに任せる性格も……本当に、不思議な人。
「あ、お迎え来てるっぽい。」
先頭にいたチェスターが呟いて、片腕を大きく振った。
私も踊り場から最後の階段を見上げると、仁王立ちした女性騎士の向こうに夜空が広がっている。ベリーショートがよく似合うその騎士は、どこか見覚えのある明るい笑顔で私達を迎えた。
「やぁ、無事なようで何よりだ。チェスター」
「ヴェロニカさんが来たんだ?お疲れ様です。」
「ああ。アーチャー家の…ご令嬢を保護してくれたんだな、流石だ。護衛の君もね。」
ヴェロニカさんというらしい女性騎士は労うようにチェスターの肩を叩くと、なぜかダンを見て意味深に微笑んだ。
何かしらと私も彼を見てみるけれど、不機嫌そうに腕を組んで黙りこくっている。
騎士達が入口を見張っていたという事は、先発としてダンが来た…?
でも、騎士団の方が公爵家の使用人にそんな事をさせるとは思えない。許可なく――言うならば不法侵入として――ダンが来てくれたのを、咎めるつもりはないという意思表示ね。
私の事はもう知れているようだし、男装を押し通す意味もない。私は淑女の礼を取ろうとして、ふとヴェロニカさんの後方にいる男性が蒼白な顔で自分を、そしてギャビーさんを凝視している事に気付いた。執事服を着た四十代くらいの男性だ。誰かしら。
「……お嬢様に、何か?」
私を後ろに押しのけ、ダンが低い声で言った。
男性の正体よりダンが丁寧な言葉を使った事が気になって仕方ない。年上を相手に失礼だけれど、精神的な成長を実感してしまう。
ついダンをじっと見つめたら、顔だけ振り返ったダンはものすごく嫌そうに眉を顰めて私のフードを引っ張り下ろした。
「紹介がまだだったな。こちらはエクトル・ジュリオ伯爵の執事、ロラン殿だ。」
「執事ね……伯爵本人は?」
「まだ戻ってない。」
「あらら。遅いね?」
ヴェロニカさんとチェスターがやりとりする間も、ロランさんはビクビクして身を縮めている。
私と目が合えばそらすし、ちらちらとギャビーさんを見ては呼吸を浅くしているようだった。ダンの質問に答える気があるのかないのか、口は開いたり閉じたりを繰り返している。
騎士達は明らかに「監禁されてました」という格好のギャビーさんに、怪我はないかと聞いていた。
「ふふ、どうしたんだロラン殿。もっと喜ぶといい」
ヴェロニカさんが明るい声でロランさんの肩を叩き、手で私を示した。
「まさか、伯爵の手の者に?何だったかな。彼女をあんなに心配していただろう?見ての通り無事だったんだ、喜ぶといい。それと、さっきから熱心に見ている彼は知り合いかな?」
「ヒッ……そ、それは…」
騎士の誰かが使っただろう、ほのかな光の魔法で周りは明るい。
気の毒なほど血の気の引いた顔のロランさんに、チャリチャリと鎖をつけたままのギャビーさんが歩み寄った。
「やぁ、今日は随分縮こまっているね。寒いのかい?」
「な…にを……」
「ボクが君に渡した絵、出品取りやめになったらしいね。沢山絵が売れないと出れないって話だったけど、見ての通りもう出られたから。君とはサヨナラでいいかな?」
「ちっ…違う!わた、私は伯爵に指示されていただけなんだ!!」
勢いよくヴェロニカさんを振り返ったロランさんを、騎士達が横から取り押さえる。
ダンが彼から距離を取るように私を更に後ろへ押しやった。
「おやおや、たまげたなぁ。」
ヴェロニカさんが眉尻を下げて嘆息した。書かれたセリフを棒読みするような単調さだ。
「伯爵のやっている事はよく知らないような口ぶりだったのに。さては、手の者とやらは貴方の手配だったかな?彼らは既に殺してあるつもりで、我々をここに導いたわけだ。」
「全部あいつの指示なんだ!私は悪くない!!」
「チェスター、君達は誰かに会っただろう?」
「うん。地下室に三人いるよ……これを使って、その人を殺そうとしてた。」
ギャビーさんを目で示しながら、チェスターは装飾の施されたナイフをヴェロニカさんに渡した。私が拾って、道中彼に預けていたものだ。
「それっ…それこそ、証拠だ!旦那様の私物ですよ、それは!!」
「私物ね……。」
ナイフを見つめて呟いたヴェロニカさんの目が、細められた。
勢いよくロランの胸倉を掴む。
「――伯爵を殺す気か?いや、既に指示しているな?」
ひくりと、ロランの頬が引きつった。
それを肯定と受け取ってか、ヴェロニカさんは突き飛ばすようにして手を離した。
「使いと共に行ったマクレイ達から連絡は。」
「まだない!遅いとは思ったが、まさかあいつら…」
「違う、違う!旦那様は逃げたんだ!私も知らない場所へ!知らない!!」
まだ保身が叶うと思っているのか、ロランは必死の形相で喚き散らしている。私は無意識にダンの服の袖を握っていた。
目の前で一体何が起きているのだろう。ギャビーさんを監禁していた犯人が捕まったと思ったら、人が殺されているかもしれないなんて。
「第七小隊に増援要請、急ぎソーンダイク邸へ!」
ヴェロニカさんの指示に騎士達が一斉に頷く。
そして彼らが無言の内に一瞬で役目を振り分け、駆け出そうとした時。「ちょっと待った」と声がかかった。
チェスターだ。顎に手をあて、なぜか少し驚いたような顔をしている。
「伯爵の訪問先って、コンラッド・ソーンダイク子爵?」
「あぁ。何か知っているのか」
「じゃあ……大丈夫かも。」
「どういう事だ?」
意図が掴めないというように、ヴェロニカさんが首を傾げた。
チェスターは一つ頷いて口を開く。
「その人、今日うちの王子様が突撃訪問予定なんだよね。」
まるで答え合わせのように、複数の蹄の音が響いてきた。




