93.地下通路の先へ ◆
あと十分ほどで本日最後の出品が行われるだろう、という頃合いになっても、エクトル・ジュリオ伯爵はオークションハウスに戻っていなかった。
「申し訳ありません騎士様、使いも出しましたしそろそろ、もうじきお戻りになると思うのですが…。」
柔和な笑みを浮かべて言うのは、四十代半ばほどの執事だ。
薄茶色の頭髪と短い口髭、眉は下がりきっている上にやや猫背で、気弱そうな印象を受ける。ロランと名乗った彼は司会者のメラニーと共に伯爵のオークションハウス運営を支えているという。
珍しく伯爵自身が出品者とやり取りしたかと思えば、それは騎士団が捜査中の薬かもしれないと言われ、今は額の汗を拭うのに忙しい。
メラニーは司会として第二部に出ているため、騎士達に対応するのは彼一人だった。
「構いませんとも、きちんと戻るのであればね。」
溌剌とした笑顔で返した女騎士には、まだ二十歳にも満たないだろう若々しさがある。
ベリーショートの茶髪にすらりと長い体躯、赤紫の大きな瞳。堂々とした立ち姿は自信の表れだ。同世代らしき若い騎士ばかりとはいえ、小隊を任されるくらいの実力はあるらしい。
彼女は広間の中央で、警備員の話を聞いた騎士が戻ってくるのを微笑みを浮かべて眺めていた。彼らは手でバツを作り、あるいは首を横に振って彼女のもとへ歩いてくる。
「こっちは駄目だ、ヴェロニカ。広間に客が出てきたのは知ってるが、どこいったかわかんねぇってよ。目ぇ離したら消えてたんだと。」
「そうか、それはそれは…随分とお粗末な警備員だ。人を変える事をお勧めしますよ、ロラン殿。」
「も、申し訳ありません……。」
善意しかなさそうな明るい笑顔を向けられ、ロランが縮こまる。
ヴェロニカと呼ばれた女騎士は、玄関ホールへと続く扉へ目を移した。騎士が一組の男女を連れて戻ってきたのだ。
「小隊長、彼女がチェスター・オークスと話したそうです。」
騎士が相手とあって、使用人らしき女性は仮面を外し、フードを脱いで一礼した。
切羽詰まったような表情と急いた動作から相手の緊張が読み取れる。一歩後ろにいる目つきの悪い青年は仮面もフードもつけたままだが、女性はそれに気付いていない様子だ。
「アーチャー公爵家、シャロン様専属侍女のメリルと申します。」
「――これは、これは。」
自己紹介を返そうとしていたヴェロニカは、予想外の家名に少々驚いた。
女性の言う通りであれば、この会場には今、特務大臣アーチャー公爵の長女が来ているという事になる。加えて、自分達を呼んだはずのオークス公爵家長男、チェスターの不在。
ロランの喉がひくりと鳴る音が聞こえた。万が一彼らに何かあれば、エクトル・オークションズは終わりだろう。
「四番隊第六小隊長、ヴェロニカ・パーセルです。彼とはどのような話を?」
「お嬢様は、最後に出品されるであろう絵画を見に来られました。チェスター様によれば、それは今回出品取りやめになったとのこと。休憩が終わる前に、その旨をお嬢様に伝えるとおっしゃって戻られたのですが……いらっしゃらない、のでしょうか。」
「なるほど、お話はわかりました。ご協力ありがとうございます。」
探るような視線を向けてくる侍女に、ヴェロニカはにこりと笑いかけた。
話したのが休憩時間が終わる前だとすれば、既に四十分以上経過している。心配はもっともだが、せっかく来たからには絵画がなくとも最後まで見て行こう、とその令嬢が思っても不思議はない。
「チェスター様が、いらっしゃらないのですよね?」
「おい、やめとけ。」
それまで黙っていた青年がボソリと呟いた。
侍女は彼を強い目で睨みつけたが、青年は取り合わず強引に前に出てヴェロニカに一礼する。
「他の者の不安を煽らないよう、我々は馬車の待機所まで下がらせて頂きます。」
「そうか、ではお嬢様が出ていらしたら、心配されていた事を伝えて騎士に送らせましょう。」
「よろしくお願い致します。」
淡々とした敬語で話した青年は、まだ何か言いたげな侍女の手首を掴んで踵を返す。玄関ホールへ出た彼らの姿を閉じていく扉が隠す、その最後。
じろりとこちらを見やった青年に、ヴェロニカは微笑みを返した。
「……さてさて、ロラン殿?」
ヴェロニカが振り返ると、ロランはおろおろと視線を彷徨わせた。
指示を仰ぐべき伯爵も相談相手もいない中で、必死に考えを巡らせているようだ。
「やはりこの広間からどこかへ行ったようだから、調べさせて頂きますよ。」
「は、はい…その、まさかとは思うのですが。」
「うん?」
青ざめた顔のロランに、ヴェロニカは首を傾げてみせる。意を決したように顔を上げた執事は、オークション会場左側にある廊下を指差した。
「緊急時用の、地下通路があります。ひょっとしたら、迷い込まれてしまったのかも……」
「よし、案内してもらおうか!」
にこやかに返したヴェロニカと厳しい表情の騎士達を連れ、ロランは額にハンカチを押し当てながら歩き出した。
彼らの手が常に剣の柄に触れている事が気になって仕方がないものの、小隊長であるヴェロニカの笑顔を見る限りは、無礼討ちの心配はせずに済みそうだった。
「その通路を知っているのは貴方と伯爵だけかな?」
「えぇ、そのはずです。……旦那様を疑いたくはありませんが、出品された物の盗品疑惑のある今となっては、地下でよからぬ事が行われてやしないかと、震えるばかりです…。」
「ただの通路ではないという事か。」
「……この屋敷が建てられた当初は…その、客人を捕えるためにも活用されていたようで。」
ロランが歯切れ悪く言う。
通路の先は牢になっていて、鍵さえかけなければ脱出通路にできるため、火事などの際にも使えるだろうと塞がずにとっておいたという事らしい。
「この鏡の裏にございます。」
騎士が全身鏡を動かし、通路の入口が姿を現した。
階段ではなく穴であるのは、ロランが語った通りの使い方を想定されていたからだろう。埃の溜まり具合を見るにあまり使われていない様子ではあったが、ごく最近ここを滑り落ちた者がいるらしく、埃が拭われた部分が明らかに道筋を作っていた。
「おーい!騎士団だ、誰かいるのかー!」
騎士の一人が呼びかけ、少し待ったが返事はなかった。
ヴェロニカの横でロランがへなへなと床に崩れ落ちる。
「ま、まさかこの先で頭を打って……あるいは、旦那様の手の者に、もう……」
「よし、二人は残ってここを見ていてくれ。ロラン殿、出口があるだろう?そちらへ案内してもらえるかな。」
ヴェロニカがにこやかに声をかけると、騎士がロランを強引に立たせた。彼の膝が震えてよろめいていても構わず進めるよう、背中側のベルトをがっちりと握っている。
支えているのか拘束しているのかわからない有様だが、ロランには案内する以外の選択肢はない。
「…角を左へ行って頂き、裏口へ……あぁ、恐ろしい。」
だんだん足の震えがおさまったのか、ロランは騎士に頼らず急ぎ足でヴェロニカ達を案内する。
哀れな公爵家の子供達は地下で殺されているのだろう。旦那様の悪事の証拠と共に。そう思うと自虐的な笑みがこぼれた。
「旦那様は、ならず者を雇って何かさせる事があり…内容までは存じませんが、わ、私は止めたのです。あのような者達と付き合うのはおやめくださいと……しかし聞き入れてくださらず…《潮風》だって、一体どこから手に入れられたのだか、説明してくださらずに……もしやあれもまともな品ではなく…」
主を止めきれなかったと悔やむロランの言葉を聞きながら一行は進んだ。
オークションハウスの裏手にはあまり手入れされていない庭があり、草木に隠れるようにして地下への入口が存在していた。騎士が光の魔法で照らすと、扉は確かめるまでもなく開いており、取手に絡んでいただろう鎖と錠が地面に落ちている。
薄暗い地下へと続く階段の奥から、足音が近付いてきた。
◇ ◇ ◇
一瞬だった。
アベルが壊した扉から出てすぐ、三人の男達が前からやって来た。
彼らはシャロン達を見て「殺すのってこいつらか?何で出てきてんだ」と、言い終えた時には一人目が昏倒し、残り二人は壁や床に血を飛ばしながら倒れて動かなくなった。悲鳴を上げる暇もなく。
剣についた血を振り飛ばして鞘に納めてから、アベルは振り向きざまに手を伸べた。
『行くよ』
それはついて来るよう促す手振りのためだったけれど、振り返った先のシャロンはローブの胸元を握り締めたまま、びくりと肩を揺らした。
アベルが彼女から自分の手に視線を移せば、返り血がついている。この手で掴まれるとでも思ったのかもしれない。
怯えられる事には慣れている。半端に上げた手を下ろして背を向けた。
『待って!』
慌てた声と共に手を握られ、アベルは反射的に振り返る。
シャロンの両手が自分の手を包み込み、そのせいで血に汚れていた。理解が及ばず目を瞠ったアベルとシャロンの視線が合う。
『ち、ちが…』
『……血が怖いなら離しなよ。』
怪訝な顔で軽く手を引いても、シャロンはそれを引き留めた。
緩く首を横に振る彼女の手が震えているのは明らかに怯えからだ。アベルは眉根を寄せ、昏倒させた男をちらりと見る。手応え通りならまだしばらくは起きられないはずだ。視線を戻して言葉を待つ。
『ちがう、の…』
『何が。』
『私……頭が、ついていかなくて。すごいって圧倒されていたら、振り向いたものだから、そこに驚いただけで…あ、貴方が怖かったわけじゃ、ないの!』
必死に言い募るシャロンを見下ろして、アベルは二度瞬いた。
引きつった笑顔でもなく、あからさまに媚を売るでもなく、何をそんな懸命に言い訳をするのかわからなかった。
『手、震えてるけど。』
『だ…だって目の前で人が、貴方がどうなるかわからなくて、怖かったわ!』
一瞬だったけれど!と言いながらぎゅうと手を握るシャロンの目尻に涙が溜まるのを見て、今度こそアベルは呆気に取られた。
さすがにあの程度の雑魚を相手にそんな心配をされた事はなかったのだ。騎士団の連中が知ったら「逆に失礼だ」などと笑い出すだろう。
わけがわからずまじまじと見ていると、涙ぐんでいたシャロンは急にハッとして手の力を抜いた。
『あっ……で、殿下。その。』
失礼致しました、と消え入りそうな声で言って、手を離したシャロンは数歩下がって礼の姿勢を取り、さらに深く頭を下げた。
『守ってくださって、ありがとうございます。』
『……別に、敬語じゃなくていいよ。』
その方が真意を汲みやすいと考えて、アベルは許可を出した。
シャロンが驚いたように顔を上げる。
『呼び捨てでいいし。君はウィルに対してそうなんだから、同じでいい。』
『…ありがとう、ございます。でもどうして急に…』
『おーい。ねぇ、終わったのかい?』
呑気な声が上がって、二人はそちらを見た。
両目をしっかりと閉じて耳を塞いだ男――ギャビーことガブリエル・ウェイバリーが、耳にあてた手をもぞもぞ動かしながら喋っている。
『ボクは血だの怪我だの死体だのを見たくないんだ。お嬢さんは生きてる?もしそういうのがあるなら右手を、まったく血が流れてないなら左手を叩いてくれるかい。』
シャロンはきょとんとして、一度アベルと顔を見合わせてから、ギャビーの右腕をぽんと叩いた。途端に柳眉が顰められ嫌そうに口が捻じ曲がる。
『第二王子はヤバいって本当だったんだなぁ。勘弁しておくれよ、ボクは忘れられないんだから。ねぇ、呻いたりしてる?聞きたくないんだけど、そのあたり大丈夫なら右手を叩いてくれる?』
言われた通りに叩くと、ギャビーは顔を天井に向けたままカッと目を見開いて耳から手を離した。
『死んでるって事じゃないか!えげつないな君は!』
『一人は気絶してるだけだよ。』
『まぁ呻き声がないだけいいか。あ、お嬢さん、手を引いてくれるかい。踏んで転ぶなんて事になりたくないし……』
シャロンはギャビーの白いシャツの袖を掴むと、軽く引いて歩き出した。裸足で血を踏むのも嫌だろうからと、それも避けて歩けるよう指示も出しつつ一緒に進む。
三人を越えてようやく視線をきちんと前に向け、ギャビーは嘆息した。
『君は貴族だけど良い子だねぇ。前に会った子なんて我儘で暴力的で…肖像画の依頼だったけどテンション上がんなくてさぁ。』
ギャビーが歩く度に鎖がカリカリと床を鳴らす。足枷はそのままだが、間を繋ぐ鎖はアベルが断ち切ったので、歩幅は自由が利いていた。
『ま、その報酬もあって女神像巡りの旅に行けたんだけどね~。』
たらたらと話すギャビーの声を聞きながら、シャロンは前を歩くアベルの背を見つめていた。初めて会った日に抱いた疑問を今はまだ、聞けないと思いながら。




