92.彼女は踏み出した ◆
頬に触れる冷たさ。
固すぎる寝心地にそれが床であると察して、少女は目を開いた。
まだ焦点の合わない薄紫の瞳は、自身を揺すり起こしただろう人物――少し癖のある黒髪の少年が、目元を隠す仮面を外すところをぼんやりと見つめる。
そこでようやく意識がはっきりしたのか、金の瞳を持つその少年に向けて「殿下」と呟いた。
『シャロン・アーチャー。君、こんな所で何してるの。』
不機嫌を隠しもせず、アベル第二王子殿下は吐き捨てるように言った。
アーチャー公爵家の令嬢、シャロンは床に腕をついて起き上がると、視線を走らせここが扉の開いた牢の中である事を確認しながら、両膝立ちになって二歩ほど後ずさった。王族であるアベルが片膝をついていたため、立ち上がれなかったのだ。
そしてスカートの裾を両膝の下へと直し、礼の姿勢を取る。
『申し訳ありません、まだ記憶が混乱しておりますが…お救い頂いた事は理解致しました。ありがとうございます。』
『君はエクトル・オークションズに来て、第一部に参加したよね。その後何をしていた?』
『オークション…』
俯いたまま繰り返したシャロンは、ようやく気を失う前の事を思い出す。
見つかれば即処分とされる猫を見つけてしまい、心配で後を追ったのだ。しかし暗い穴倉――恐らくは脱出用の隠し通路――に入り込んだ猫を捕まえるより先に、突き落とされた。
『……応接室の鏡の裏に隠し通路があり、覗き込んだところを…どなたかに突き落とされました。』
『顔を上げなよ。』
『はい。』
立ち上がったアベルの冷ややかな瞳を、シャロンは下から見上げる。
二人が顔を合わせるのはこれが二度目だった。初めて会った時も挨拶だけでアベルはすぐに帰ったため、シャロンとはろくに話した事がない。
悪意のもとに捕われたと知っても泣き出さず、手の震えをすぐに隠してみせるのはさすが公爵家の娘、といったところだろう。
ついて来るよう手で示して牢の外に出れば、彼女は一礼してから後に続いた。
『君はここから落ちてきたはずだけど、』
もう一つあった牢の中、壁にある穴を指してアベルが言う。
『応接室に忍び込み、隠し通路を覗いたのはどうしてかな。』
『……猫がいたのです。白い猫を見かけて、捕まえようと追ってしまいました。』
アベルがずっと声を潜めているので、シャロンもそれに倣っていた。
彼女は説明しながら俯きがちになり、反省の表れか声が小さくなる。貴族の令嬢が猫を追って立入禁止の場所に踏み込み、よそ様の隠し通路を無遠慮に覗くなど、褒められた行いではないからだ。
『そう。次は猫より自分の心配をするんだね。』
『…はい。』
柳眉が顰められ、金の瞳がじろじろと自分の姿を眺める事にシャロンは耐えた。
五年の付き合いがあるウィルフレッドは、シャロンが案外これと決めたら飛び出していくタイプだと知っている。しかしアベルはそうではないため、公爵令嬢らしからぬ行動や埃まみれの姿に呆れたのだろう。
猫のために動いた事は後悔していないが、王子殿下に眉を顰めて眺められては自分の姿を恥ずかしく思った。
頬を赤らめてローブについた埃をはらっていると、顎を人差し指でつと上げられる。
視線が合えば指はすぐに離れたけれど、探るような視線はまるで全てを見透かされるようで、シャロンは数秒、呼吸を忘れた。
『……怪我はないと思ったけど、熱でも?顔が赤い』
『あ…』
そう言われてようやく、じろじろ見られていたのは呆れや軽蔑ではなく、怪我がないか確認されていたのだと悟る。
シャロンは睫毛をぱちぱちと合わせ、緩く首を振った。
『いえ、熱はありません。大丈夫です』
『そう』
シャロンから目を離したアベルは、通路の両端にある扉を観察した。どちらも光が漏れている。隙間をよく見れば、片方だけ施錠されていない。
先ほど外した仮面をつけ直し、フードをかぶる。シャロンも牢の中で拾った自分の仮面をつけ、薄紫の長髪をフードで隠した。
『じゃあ、行こうか。』
◇ ◇ ◇
牢部屋に入ってきたのは、いかにも荒くれ者といった風体の、体格の良い男三人だった。
薄汚れた服に底のすり減った靴。スキンヘッドの男が手にしたナイフだけは華美な装飾が施されていて、輝く刃に蝋燭の明かりが反射した。
彼らはギャビーさんがお菓子まで用意して寝転んでいるのを見て少し面食らったようだけれど、黄ばんだ歯を見せつけるようにニンマリと笑った。
「牢屋でそんなくつろぐたぁ、随分呑気なニイチャンだな?」
「あーあ、どっちも綺麗な顔してんのに勿体ねぇ。」
「だよなぁ?殺すより売った方がよほど儲けそうだ。」
「おや……」
ギャビーさんは寝転んだまま、長い睫毛をぱちぱちとしてチェスターがいた牢を見る。
今、そこは空っぽだった。男達の登場に気を取られていた私には、彼が穴の中に潜んだのか、光の魔法で姿を消したのかはわからない。
「おら!!」
ガシャン、と鉄格子を蹴りつけられて、私は肩を震わせた。
いきなり大声と大きな音を出されたら誰だってびっくりすると思うのだけれど、男達はお腹を抱えて大笑いする。
「やめてやれよ、ちびっちゃうかもしれないだろ。後片付けがめんどくせぇ。」
「可愛いお坊ちゃんにはちょ~っと刺激が強かったかあ?ハハハハ!」
「いいから鍵開けて捕まえとけ。その間に俺はこっちを済ませとく」
スキンヘッドの男が、未だに寝そべってポカンとしたままのギャビーさんの身体を跨ぎ、その肩を床へ押さえつけた。なのにギャビーさんは「む、なんだい?」なんて危機感のない声をあげるものだから、また笑いが起きる。
もう一人はポケットから鍵束を取り出して私の牢に近付き、残る一人は鉄格子に寄りかかってニヤニヤと顎鬚を撫でさすっていた。
「こんだけ綺麗なツラしてんだ、本当なら先にちょっといい思いしたかったけどな。」
「てめぇはほんと趣味悪いな。そんな時間ねぇんだから、我慢しろ。」
「よし、開いたぞ。ほ~らおいで~」
牢の扉から一番遠い壁際へ身を寄せていた私は、ニヤニヤとこちらを見る男達を、ギャビーさんに跨る男を、狙っているものに気付いていた。
「放て!!」
力強い叫びと共に、天井近くで待機していた水の矢が男達の頭を強く打ちつける。
「あ……っ?」
牢の扉を開けた男の身体がぐらついた。
既に駆け出していた私は体重をかけて男を牢の中へ引っ張り倒し、自分は入れ替わりに通路へ出る。
ギャビーさんを狙っていた男は、チェスターが牢の中から腕を伸ばしてギリギリと締め上げていた。私はそれをちらと横目で確認し、よろめいた最後の一人に目を向ける。
「んの、ガキ…!」
足はもつれバランスも崩れ、水平感覚が失われている事はすぐにわかる。
チェスターはあえて頭を強く揺らしたのだ。相手の感覚が戻るまで待ってはならない――
一撃で終えなくては。
私の頭によぎったのは、かつて目の前で起きたこと。
アベルがダンの側頭部を蹴り抜き、気絶させた――あの、華麗な足技だった。
相手の動きを見ようと瞳孔が開く。
レオとの手合わせで慣らした感覚のままに脚へ魔力を。男は拳を振り上げているけれど、あまりに単調な動きだった。身を屈めて避け、すぐに跳び上がって身体を捻る。
「はあっ!!」
ゴッ、という音を響かせて蹴り抜いた男の身体はチェスターが締め上げていた男に激突し――チェスターは目を瞠って慌てて腕を外していた――二人まとめて床に倒れ込んだ。
すぐ横からカチャリと聞こえ、着地した姿勢のままそちらを見ると、いつの間に床から立ち上がっていたのか、ギャビーさんが私がいた牢の扉に錠前をかけ直している。
「いや、人を閉じ込めるなんて初体験だなぁ。」
「ギャビーさん!お怪我はありませんでしたか?あぁ、チェスターの牢も開けなくちゃ…」
私はギャビーさんの背中に刺し傷が見当たらない事を確認し、ついで自分が鍵束を男ごと牢の中に押し込んだ事に気付いて口に手をあてた。どうしましょう。
「ごめんなさいチェスター、今どうにかして…」
取るから、と続けようとして、私はチェスターを振り返る。
彼は呆然として私と床に伸びた男達とを交互に見ている。
「シャロンちゃん…何?今の足技。大人が吹っ飛んだけど。」
「あっ、えぇと、その、また後で!」
レオに怪力呼ばわりされた事を思い出す。
私は顔が赤くなるのを自覚しながら、床に膝をついて牢の中に手を伸ばした。
鉄格子の隙間から腕は通るけれど、鍵束は絶妙に手が届かない。
ぺたぺたと届くギリギリの床を触っていると、するりと入り込んだ白猫ちゃんが鍵束の上に寝そべり、ぱっちりと瞬きをしてから立ち上がった。
「あ…」
立った後には鍵束が残っていない。今の数秒のうちに体内へと浮かべたのだろう。
しなやかな動きで通路へ戻った猫は、あっさりと鍵束を手放した。カチャン、と音が鳴る。私は濡れたそれを拾い上げ、急いでチェスターの牢の扉を開けた。
「ありがとう、助けてくれて…」
「いーえ。むしろ任せきりにしてごめんね。ギャビーさんはもーちょっと自分で何とかしてほしかったな?…大人だろ。」
チェスターは牢を出ると、ギャビーさんとすれ違いざまほんの一瞬だけ、咎めるような眼差しで何か呟いた。
ギャビーさんは軽く肩をすくめ、私はスキンヘッドの男が取り落としたナイフを床から拾い上げる。これが男達にとって使い慣れた武器だとは思えないけれど、あえて使うよう指示されたのだろうか。
「大丈夫、気絶してる。今のうちにここから出よう。」
床に倒れていた男達を確認したチェスターが、私の肩を軽く叩いてドアノブに手をかける。
ギャビーさんの足枷の鍵は鍵束の中にはなくて、彼はチャリチャリと鎖を鳴らしながら私達に続いた。男三人の誰かから靴を拝借してはどうかとチェスターが提案したけれど、ギャビーさんは「臭そうだからやだ」と素足のままを選んだ。
男達が出てこないよう、扉を閉めたら内鍵をかける。これで向こう側からは力押しでもしないと開かないはずだ。
石床に足音を響かせ、私達は地下通路を進む。
「チェスター、さっきはどうやって宣言を?聞こえなかったと思うのだけれど…」
「あいつら、声が大きかったでしょ?タイミング合わせて小声でね。それより、シャロンちゃんが投げ技使えるとは聞いてたけど、まさか蹴り飛ばすとは思わなかった。」
頼もしかったよと笑顔で言ってくれるチェスターに、私も微笑みを返す。
「さっきは咄嗟にアベルの真似をしたの。」
「えぇー…君の前で何をしてるんだか。いや、そのお陰で助かった、のかな?」
「ふふ、そうね。それに、きっと貴方がいなければどうにもならなかったわ。」
騎士を呼びに行ってもらおうかと考えていたところだったけど、チェスターを送り出した後であの三人が入ってきていたら、私ではギャビーさんを守りきれなかったかもしれない。
身体が動いてくれた事に、安堵した。初めて実戦で「攻撃」をした。
ダンに出会った時や、レオが追っていたひったくりをその場に投げ倒した時とは違う。感触の残る右足はじんわりと熱を持っているように感じられる。
少し心臓の鼓動が早い。
状況のせいなのか、魔力による強化をちゃんと終わらせられていないのか、人の頭を蹴るなんて事をしたせいか、全てが原因なのか、わからない。
――でもあそこで手加減なんてできなかった。しなくてよかった。私は…
私は、自分にできる精一杯で攻撃したことを後悔していない。
もしもさっき打ち所が悪くて――亡くなっていたと、しても。
今回は大丈夫だったとチェスターが教えてくれた。
しかし手加減して勝つほどの余裕はないのだから、またこんな事があれば次こそ人を殺める事もあるかもしれない。
「………。」
二人に気付かれないように胸元で手を握り、微かに息を吐く。
私はきっと、これまで眺めるだけだった線を一歩越えたのだ。《彼ら》はとっくに越えただろう線を。貴族の娘には必要とされないところへ、自ら踏み出した。
全ては大事なものを守るためであって、後はただ、決してそこから踏み外さないように進むだけ。
私の覚悟を問うたお母様を、遠い夜空の星を思いながら、薄暗い階段を上った。




