91.ウェイバリーの《偽物》
なんだか奇妙な状況だった。
「初めてのお客さんってやつなのかなぁ!おやつ食べる?飲み物何がいい?水とお湯と紅茶とコーヒーが選べるよ。」
ガブリエル・ウェイバリーと名乗った男性は私達を歓迎した。
足枷の鎖をカチャカチャ鳴らしながら器用に小走りし、こちらが遠慮するのも構わず隣の部屋から菓子類を乗せた盆を持ってくる。果ては上等そうな掛け布団(絵具で汚れているけれど)を引きずってきて、通路に敷いて寝そべった。まるで前世でやった女子会の光景だわ。あの時は檻なんてなかったけれど。
私は扉が開いたままの隣部屋をチラリと見やる。
薄暗いこの部屋と違って、昼間のような明るさが保たれている。見える範囲では衣服や絵具が散らかっていて、イーゼルらしき物の脚も確認できた。
「それで、君達は誰なんだい?」
ウェイバリーさんは寝そべったままクッキーを手に取り、欠片が布団にこぼれるのも構わず食べ始めた。にこやかな微笑みは幼子のように純粋で、私はチェスターと顔を見合わせて頷く。この人には素性を隠すより、正直に明かして協力しあった方がいいだろう。
相手が寝そべっているのを見下ろすのも気が引けたのか、チェスターは牢の中で片膝をついた。
「俺はオークス公爵家の長男で、チェスター。よろしくね。」
「へぇ!よろしく。君は?」
「アーチャー公爵家長女、シャロンといいます。」
「女の子なんだ。でもその格好も似合ってると思うよ。」
「あ、ありがとうございます…。」
突然褒められてびっくりしたけれど、お礼を言って軽く頭を下げる。ウェイバリーさんは「公爵家ね~」と言いながら布団に落ちたクッキーの欠片を集め、ぱくんと口に入れた。そして首を傾げる。
「それ、一番上の貴族だよね?何でこんな地下牢に?」
「えぇと、白い猫を追ってきたんです。ウェイバリーさん、見ませんでしたか?」
「ボクの事はギャビーと呼んでくれ、ギャビーと。それで…白猫というと、あいつだね。」
ギャビーさんは布団に腕をついて身を起こしたけれど、立つのは面倒だったのか、上半身だけ隣の部屋にごろりと投げ出した。
「おーい、おいで。」
部屋の中に声をかけ、それだけで何か反応があったのか、ギャビーさんはすぐ元の姿勢へと戻った。私達が見守る前で、隣の部屋から現れた白猫がトトト、と彼の背中に乗り上げ、軽やかなジャンプを披露してから、床に着地してお行儀よく座る。
よかった、オークションハウスの人には見つかっていなかったのね。私はほっと胸をなで下ろした。
「この猫です。ギャビーさんの飼い猫だったのですか?」
「飼ってると言うのかなぁ、言うかもしれないね。ご飯はボクの魔力?」
「魔力、ですか?」
「うん。」
ギャビーさんは白猫に手を伸ばした。
猫の額に触れた指がちゃぷんとその中に沈み込み、手を下ろすのに合わせて指先は猫の体内を通り、床に触れる。輪郭の乱れた白猫は不快そうにブルリと首を振り、パチパチと瞬きした。
「この子はただの水だよ。」
ギャビーさんの言葉がすぐには理解できなくて、私は白猫を凝視してしまう。今はもう普通の猫にしか見えなかった。
「これは……いわゆる《使い魔》、かな?」
チェスターが呟いて、スキルの一つだと説明してくれた。
魔法で生み出したものに動物の姿を取らせ、ある程度それが自立思考を持って行動できるというものだ。騎士団にも幾人か使い手がいて、チェスターも見せてもらった事があるらしい。
でもそれはあくまで水や火そのものの姿をしているのが通常であって、形どころか色まで再現されたものは珍しいのだとか。
ギャビーさんは肩をすくめた。
「ボクはあんまり魔法に詳しくないんだよね。学園の授業もろくに出なかったし。あぁ、今の状況って学園生活に似てるかもしれないね。逃げられないところとか。」
「ギャビーさん。この子ってもしかして、体の中に物を入れて運んだりできるのかな。」
チェスターがそんな事を聞くと、ギャビーさんは「よくわかったね」と笑った。
「お陰で時々、よくわからない拾い物してきてさ。明らかなゴミじゃなければ、どこから持ってきたのか案内させて持ち主に返すんだけど、時々トラブルになるんだよね。ボクがここにいるのも割とそのせいだし。」
「…そもそも、貴方はどういう成り行きでここに?」
「ボクがここに来たのはね~、」
ゆったりとした口調で、ギャビーさんは話し始めた。
――その日、猫が持ち帰ったのは液体が入った瓶だった。
それが薬瓶だという事はギャビーにもわかったし、フラヴィオ――古馴染みの画商――も早く返してこいと言うので、散歩のついでに案内させた。何せ猫が通る道なので塀の上を通るなどもしたし、ご婦人の悲鳴が聞こえたり、警備員に怒られたり、良い大人が猫の後をつけるなと呆れられたりしたが、ついていった。
やがて猫が屋根の上で休憩を始めたのでギャビーもそれに倣った。すると男二人の会話が漏れ聞こえてきたので、暇だった事もあり屋根の縁から眺めていた。二人は途中でギャビーの視線に気付いたのかこちらを見たので手を振ると、片方が「降りてこい」と怒鳴ってきた。
『なんだい?』
『お前、話を聞いていたんじゃないだろうな。』
これは聞いていたと言うと良くない事になりそうだと考え、ギャビーは笑顔で答えた。
『見てはいたよ。』
『そもそも何者だ?』
『おぉ、よくぞ聞いてくれた!そう、ボクこそは!』
ギャビーは正々堂々と名乗った。自分という存在に何ら恥ずかしい事はなかったからだ。
『一度見聞きしたものは何が何でも忘れない!真実の写実画家、ガブリエル・ウェイバリー!』
「――そしたらポカンと気絶させられちゃって、ここで目覚めたわけだね。」
組んだ腕の上に顎を乗せ、ギャビーさんは歌うように和やかな声で説明を終えた。…なぜ、よりによってそんな名乗りを上げてしまったのかしら。チェスターが苦笑いで問いかける。
「その話してた二人が誰かはわかる?」
「さあ?ボクが聞いた時は名前を呼び合わなかったから。それで、画材を寄こされて絵を描くように言われたわけだね。最初はこの枷?にも驚いたから、痛いのは嫌だし甘い物を食べないと絵は描けない!…って床を転げまわってみたら、お菓子をくれたよ。」
顔も知らない犯人の心境を少しだけ考えてしまった。
目の前の美人が床を転げる姿は割とあっさりイメージできてしまい、私は何とも言えない気持ちになる。芸術家は個性的と言うけれど、彼はその中でも飛び抜けている気がする。しかしこれくらい純粋でないと、あの切り抜いたような「あるがまま」の絵は描けないのかもしれない。
「貴方の食事は誰が運んでるのかな。何人か来る?」
「話してた二人のうちの片方だけ。そこを通って来てるはずだよ。」
ギャビーさんは、自分が入って来たのとは反対側の扉を指した。食事が運ばれてくる時以外はいつも施錠されているらしい。ギャビーさんが自由行動できるのは自分の部屋と、この牢がある部屋まで。牢もずっと鍵がかかっていたから、その片方に空いた穴が上階に通じてるなんて知らなかったのだとか。
「隙を突いて逃げるのは無理そうな相手だったの?」
食事運びが一人と聞いて、チェスターが聞く。ギャビーさんは肩をすくめた。
「騎士じゃないんだし、拳や魔法では戦えないよ。一枚描き上げて渡したくらいさ。」
「タイトルは《潮風》かな。今日のオークションに出品予定だった絵なんだけど。」
そう聞くチェスターの声には確信がこもっている。ギャビーさんは悪戯好きな子供のようににんまりと笑った。
「そ。あれは、見る人が見れば偽物だってわかるんだ。」
「……どういう意味ですか?」
私は思わず前のめりになって聞いた。
本人が描きあげたと言っているのに偽物とは、これいかに。チェスターも怪訝な顔で口を開いた。
「サインと…キャンバス側面にメッセージがあるって話だったけど。最近の作品には入れてるんでしょ?」
「彼にはそう言って嘘を吐いたけど、ボクはね、これまでそんなもの残した事ないよ。だからこそあの絵のキャンバスには書いておいた。二人は《潮風》を見たのかい?」
私達が首を横に振ると、ギャビーさんは特に気にした風もなく「そっか」と返した。
「ティンダル領の海岸にあった女神像がモチーフなんだ。《潮風》には、海に向かって立つ女神像が描かれている――そう。まさに、ボクが描くはずのない虚像だ。実際の女神像は海を背にしているんだからね。それに太陽の女神の髪の長さが三センチは違うし月の女神の左小指第二関節にあったひび割れも描かなかった上に、はは、土台の加工も二段から一段に変えてある!これだけ嘘を描いたのは初めてだよ。」
――それは…気付く人、いるのかしら。
けらけらと笑うギャビーさんを見ながら、私は心の中でだけ腕組みをして首をひねった。ティンダル領というと王都から馬車で三日くらいはかかる。今回は画集ではなくキャンバスに描いた現物だけ売りに出されるわけで、たまたまその女神像をよく知っている人が直接絵を見ない限り、バレないのでは。
「だからあれは間違いなく偽物さ。ボクが描いた、ボクの絵ではありえない物。そもそもボクが行方不明なのに新作が出るなんて、フラヴィオが許すはずない。彼は絶対に《潮風》を見に来るし、徹底的に調べるよ。」
確かに、サディアスが言っていた通り馴染みの画商としか取引しないなら、新作が出るなんて聞いたら驚いて見に来るわよね。今日もオークション会場のどこかにいたのかもしれない。
「メッセージは《慧眼の持ち主に感謝を》。……あの絵を剥がすとね、ボクを連れ去った二人の顔と、この足枷が描いてある。人を襲うなんて慣れない事して手を怪我したら嫌だし、ボクはそうやってみたんだ。」
「すごい発想…」
ある種堂々とした告発を素直に感心しながら、しかし私は思うのだった。
「でも、その…ギャビーさんの絵を剥がそうとする人、いるのかしら……。」
どうしたって彼の絵は見事なのだ。《潮風》はまだ見ていないけれど、オークションハウス側が認めるほどの出来栄えではあるのだから、それを剥ごうとする人は中々いないと思う。
ギャビーさんはキョトンとしている。
「なぜ?剥がして良いものじゃなきゃ、むしろ剥がして無くすべきものじゃなきゃ、ボクはありもしない女神像なんて描かないよ。」
彼にとっては価値がないらしい。私達は騎士を待つにしても、《潮風》の方は画商のフラヴィオさんが会場に来て、競り落とすなり偽物と言い切ってくれる事を祈るしかないかもしれない。あるいは、騎士団の調査でオークションは中断されるだろうか。
そこまで考えて、ふと先程のチェスターの言葉を思い出す。
「チェスター。貴方、ギャビーさんの絵を出品予定だったって言ったわよね?」
「うん。あれは今日出品されない事になった。」
「え!どうしてだい!?売れないとボクがここから出られないじゃないか。」
「はは、出るのは俺達と一緒に出ようよ。じきに騎士が見つけるだろうし…ギャビーさんが戦えるなら、いったん俺が上に行って呼んできてもよかったんだけど。」
チェスターが穴を指して言うので、私は目を瞬く。
てっきり戻るのは無理だと思っていたけれど、彼はそれができるらしい。ギャビーさんが戦えるなら、という事は、突き落とされた私を心配してくれているのかしら。
「大丈夫よ、チェスター。少しの間くらい自衛できるわ。」
牢の中ではあるけど水の魔法は使えるし、中に入ってきたらそれこそ体術の出番だ。それにギャビーさんの扱いを見ていると、そこまで暴力的な犯人ではないかもしれない、という気持ちも――…
ゴッ、ゴッ、ゴッ。
粗雑な足音がいくつか重なりながら近付いてくる。ハッと顔を上げた私達の前で扉の鍵がカチリと鳴り、乱暴に開かれた。
「おう、ぶっ殺していい奴ってのは…お前達の事か?」
先頭にいたスキンヘッドの男がニヤリと笑い、私は速やかに心の中で前言撤回した。