90.穴に落ちた先で
「あッぶな!」
焦ったような声がして、続いて振動が伝わってくる。
意識が浮上してくると頬に冷たさを感じて、自分は今横向きに倒れているのだと理解した。少しあちこちが痛む身体を動かさないまま、なぜだろうか、ここはどこだろうかとぼんやり考える。
「シャロンちゃん!」
名前を呼ばれて、シャロンは目を開けた。
ガシャンと金属音がする。聞き覚えのある声は、シャロンが身じろぎすると「大丈夫?」と聞いてくるものの、近付いてくる気配はない。
「う…っ、ここは…?」
「起きたんだね、怪我無い?っていうか、どういう状況?」
もそりと身を起こすと、まず後ろ手に縛られている事に気が付いた。ローブは着ているけれどフードは脱げているし、仮面はないし、おまけに鉄格子で区切られた空間――要は牢の中だった。
鉄格子の外、通路の向かい側の牢には埃で汚れたローブを着たチェスターが立っていて、開かないらしい檻の扉に手をかけたままシャロンを心配そうに見ていた。
その胸に「四十二番」の札があるのを見て、シャロンはぱちぱちと瞬きする。
「えっと……どういう状況なのかしら?」
「えぇー、それ俺に聞くの?」
苦笑するチェスターの牢も、シャロンがいる方の牢も、あまり使われていないようだ。
広さは四メートル四方程度で、埃っぽくて、ベッドも何もない。ただ、チェスターの牢の床にはシャロンがつけていたはずの仮面が落ちていて、また壁には腰ぐらいの高さに穴が空いていた。
上向きに続いているらしいその穴をシャロンが見ている事に気付き、チェスターは「そうそう」と話し出す。
「俺はここから降りてきたの。白猫ちゃんに誘われてね。」
「白猫…そうだ、私あの子を捕まえようとして。」
「あ、やっぱりそうだったの?――でも、そっちの牢に移された上にその格好じゃ、全部猫のせいってわけでもなさそうだね。」
チェスターは真剣な顔で言うと、鉄格子の隙間から手を伸ばした。
そこに三十五番の札が握られているのを見て、シャロンがはっと自分の胸元を確認する。つけていたはずのそれは無くなっていた。
「私の…?」
「そ。猫が落としたんだ。しかし牢は予想外だったな~。脱出用の隠し通路かと思ったのに。」
牢は二人が入っている二か所だけで、間には幅が二メートルほどの通路がある。
部屋の扉は通路の両端にあり、蝋燭の明かりが薄暗く部屋を照らしている。扉の下部に細く走る三本線は通気口のようで光が漏れているが、ただ、多少声は潜めているとはいえこれだけ話していて誰もこないのだから、見張りがいるにしても距離はあるのだろう。
「シャロンちゃん、なんかマズイものでも見たの?縛られてるけど。」
「そんな事は…あぁでも、立ち入り禁止のところには入ったわ。白猫を追って、応接室の…鏡の裏に穴があって。誰かに突き落とされたような…。」
「……突き落とされた?」
冷えた声でチェスターが繰り返した。
シャロンはその時の事をはっきりと思い出し、身震いした。間違いなく誰かに後ろから身体を掴まれ、穴に向かって押し込められたのだ。牢を移して縄で縛ったのもその人物だろう。
「転がり落ちて、たぶんその時に気絶したのね。何か見たかと言われれば、白猫とその穴くらいかしら。」
「そう…。ごめんね、この檻を壊せるくらいの魔法が使えればよかったんだけど。」
手を縛られたまま床に座り込むシャロンのローブは埃で汚れていて、見る者の憐憫を誘う。
チェスターは申し訳なさに眉尻を下げた。王立図書館の庭園で会った時、「行かなくていい」ではなく「行っちゃ駄目だ」と伝えるべきだった。
「光で焼き切るのも火で溶かすのも、相当な威力がいるからね。こういう時に思うよねぇ、一家に一人サディアス君って。」
「ふふっ、なぁに、それ。」
「楽しそうじゃない?」
シャロンが笑ってくれた事に安堵して、チェスターは努めて明るい笑顔を作った。
泣き出したりしない時点で流石ではあるが、本当は怖いに決まっている。
「ま、安心して大丈夫。実はもうじき騎士団が来るんだ。」
「えっ?」
「俺が呼んだの。その俺が消えたわけだし、あの廊下に入る所は警備員が見てる。ここが見つからないって事はないと思うよ。何ならこの穴に向かって叫んだっていいし。」
金属の檻を壊す事はできないが、チェスターは風の魔法を使って穴の中を遡れる。
ただ、いつ誰が来るかわからない以上、ここにシャロンを置き去りにするつもりはない。
「チェスターが来たのは、あの薬瓶のためだったの?」
「まぁね……、どうしたの?」
後ろ手に縛られたままローブをめくり、何か背中側でもぞもぞしているらしいシャロンに問いかける。男装した公爵令嬢は、チェスターを見返してきっぱりと答えた。
「ナイフで縄を切っているわ。」
「……ナイフ?」
「えぇ、ズボンの内側…ベルトの裏のところに一つ仕込んであって。手首しか縛られていないし……っと、なんとかなったみたい。」
ぱらり、縄を落として両手を上げて見せるシャロンは確かにナイフを一本持っている。
どこか見覚えのあるそれを、チェスターはぽかんとして見つめた。
「シャロンちゃんって、俺の想像を飛び越えていくね…。」
「自分の投げナイフは持ってこなかったのだけれど、これをお守りにしていてよかったわ。」
「お守りなんだ…待って、自分の投げナイフ?いや、うん。黙るね?」
「?黙ることはないけれど…。」
一応敵地の牢屋という事になるのだから、今更ながら黙るべきなのだろうか。
そう考えながら、シャロンはナイフを元通りにしまって檻の入口に近付いた。外側に錠がかけられて扉を固定している。
――鍵開け…ピッキングができればよかったかも。反省だわ。
ここを出られたら勉強しておく事にしようと決めて、シャロンはローブについた埃を軽く掃った。
状況はそこまで悪くない。騎士も到着するし、第二部が終了すればメリルとダンはシャロンが消えた事に気付くだろう。騎士がチェスターの不在を探す方が先かもしれない。
「捕まえられただけという事は、殺すつもりはない…のかしら。」
「そりゃそうだよ!シャロンちゃんを捕まえた時はまだ知らなかったんだろうけど、これから騎士が来る事はもうわかってるはずだしね。そんなとこで殺しなんてできないでしょ☆」
明るく言いつつ、万一を考えてこそチェスターは上に戻らなかった。
目を離した隙にシャロンを突き落とした犯人が戻ってきて、騎士が捜査に来るという事実にヤケになって彼女を殺しでもしたら――後悔してもしきれない。
隠し通路を発見されただけでシャロンを監禁したという事は、きっとこの部屋から通じるどこかには、人に知られたくない物があるはずだ。
「そうね、落ち着いて待って…。」
相槌を打ちながら、シャロンは錆臭い無機質な部屋をきょろきょろと見回す。
ここには明らかに足りないものがあった。
「あの猫はどこへ行ったのかしら?」
言われてみれば確かにと、チェスターも部屋を見回した。白猫はチェスターより先にこの部屋へ落ちたはずだが、途中で引っかかった様子もなければ、部屋についてから一度も見かけていない。
他へ通じているであろう扉のドアノブは、押し下げればいいだけのレバー式ではなく、しっかり掴んで回す必要がある。猫には開けられない。
そもそもシャロンが落ちてからチェスターが来るまでの間に、どうやって上へ戻ったのか。
あるいは、シャロンの時は薄暗かったから、実は猫は落ちていなかったのかもしれない。
「チェスターより先に落ちたのは確かなの?」
「……その瞬間は見てないね。ただ俺は光で照らしてたから、鏡の裏に入っただけとはいえ、見逃してないと思うけど…それじゃ説明つかないもんね。あの子はここに来てないのかも」
シャロンの番号札も、落ちる前にそうと気付かず取れていただけかもしれない。二人は首を捻ったものの、それ以上は気にしても仕方なさそうだった。
「無事だといいのだけれど…。」
「発見次第ってやつ?」
「えぇ。きっと誰かがお世話をしている猫だと思うのよね。すごくきれいだったから。」
「確かに、野良ではないんだろうね。」
バン!!
突然片方の扉から何かを叩きつけるような音が聞こえて、二人は目を見開いた。
チェスターが唇に人差し指をあててシャロンに目配せする。シャロンは床に落ちたままの縄を拾って座り、手を後ろに回して隠した。チェスターは音を立てないように壁の穴へ身を隠す。
「あ゛~~、テンション上がんないよぉ!!」
我儘を言う少年のような、けれど間違いなく大人の男性の声だった。
バンバン、と鳴る扉は恐らく声の主によって叩かれているのだろう。シャロンが壁際まで後ずさって身体を固くしていると、ガチャリと無造作に扉が開いた。鍵はかかっていなかったようだ。
「大体ボクはこういう場所は嫌いだって言ってるのに……。」
てくてくと入ってきたのは恐ろしく美しい男だった。
膝下まであるエメラルドグリーンの長髪はところどころにピンクのメッシュがはしり、一つの太い三つ編みにされているものの、適当に縛ったのかぴょこぴょこと跳ねが出ている。
歳は二十代半ばほどだろうか、その中性的な顔立ちは整い過ぎていて、物語に出てくる精霊と見間違えてしまいそうな、人間離れした造形美だった。
それなのに着ているのは様々な色で薄汚れたポンチョで、なぜか油くさく、白いシャツの袖も薄茶色のズボンもヨレヨレに着古されている。
深みのある青緑の瞳が、はたとシャロンを見た。長い睫毛がぱちりと瞬く。
「……えー!?人がいるじゃん!!こんにちは!こんばんは?」
ガシャンと鉄格子を掴んだ男は、興味津々といった様子でシャロンに笑いかけた。
あまりに予想外の反応で、シャロンが「ひぇ」と呟く。
「君どうしたのこんなとこで。この檻に誰か入ってるの見るのは初めてだなぁ。というか、檻に入った人間自体、初めて見たかもしれない。何かやっちゃったの?盗んだとか?」
「いえ、その…気付いたら閉じ込められていて。」
「冤罪ってやつかな?可哀想に。まだ小さいのに大変なんだねぇ。」
男は顎に手をやり、悲しげなため息を吐いた。
どうやら悪い人ではないのかもしれないと考え、シャロンはちらりと視線を落とし、唖然とする。
「…その足枷は、どうしたんですか。」
男は素足だった。
その足首には枷が嵌められ、両足の間を鎖が繋いでいる。男は事もなげに返した。
「あぁ、ボクもここから出られないんだよ。うろうろはできるけどね!でも物足りないなぁ~。ここには太陽も月も星もなければ女神もいない。それじゃ、あまりにつまらない。」
本物か怪しい《新作》。独特な香り。女神。汚れた服。
まさかとは思いながら、シャロンは目の前の男を見上げて聞いた。
「失礼ですが、お名前は?」
「お、よくぞ聞いてくれました。そう、ボクこそが!」
男は嬉しそうに笑い、片手を胸にあててもう片方の手で宙を薙ぐ。
「一度見たものは絶対に忘れない!奇跡の写実画家、ガブリエル・ウェイバリー!!ギャビーって呼んでね!」
「……つまり、どういう事?」
するりと壁の穴から着地して、チェスターが苦笑した。




