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8.チェスター・オークスの絶望 ◆

 


 前みたいに笑ってほしかった。



 ――それだけ、だった。




 四つ下の妹はジェニーという名前を授かって、俺と同じ赤茶色の髪をしていた。瞳は父親譲りの灰色で、少しつり目気味なのも可愛かった。

 ふにふにしている頬も、俺の何分の一なの?ってくらい小さな手も、とにかく可愛い。可愛くないところなんて一つもない、完璧な存在だって事しかわからない。


『ジェニー、お兄様だよ~』

『お父様もいるぞ~』

 男二人でデレデレしても、ジェニーはキャッキャと楽しげに笑ってくれた。母上はちょっと呆れてたけど。


 何かが崩れ始めたのは俺が十歳――アベル様の従者に決まった時だった。

 ジェニーがケホケホと咳をするようになった。

 数日、数週間、一ヶ月…ずっと治らない。


『わたしは大丈夫ですわ』


 まだ幼いのにそんな風に言って、あの子は無理して笑っていた。

 両親は深刻な顔で医者を数人連れてきたけど、どんな薬を処方されても治る気配がない。


 妹は少しずつ、でも確実に弱っていった。

 走れなくなり、歩けなくなり、立てなくなった。

 喉を痛め、呼吸音はゼイゼイと荒れていて。


 俺は王子の従者としての立場も利用してあちこち調べ回った。

 似た症状の者は?治った事例は?何も見つからない。


 もうすぐ俺はアベル様について学園に入らなければならない。傍にいてやれなくなる。

 その前に、その前に何か少しでも手がかりを――



 両親が死んだ。



 突然だった。

 馬車ごと崖から落ちたそうだ。護衛も全滅。

 何者かの襲撃を受けたらしいけど、そいつは見つからなくて。


『父上と母上を殺した奴、まだ捕まんないの?』

 定期報告に来たベインズを睨みつけた。

 彼の目にクマができている事も、少しやつれただろう事もすぐに気が付いたけど。その程度の苦労は当たり前だと思った。


『…申し訳ありません。手は尽くしているのですが』

『どこがだよ。まさか俺が知らないとでも思ってる?…捜査の規模を縮小したんだろ。誰に金握らされたわけ?』

 父上をよく思わない連中がいる事は知っていた。

 どんな組織にも、金で動くクズがいるって事も。


『言えよ!そいつらが差し向けたに決まってるだろ!!』

『……申し訳ありません』

 彼はただ謝った。

 今の俺が冷静じゃない事をよくわかっている。

 むかついた。

 何もできない自分が、どこまでも無力で。


『…くそッ!』


 テーブルに叩きつけた拳が痛んでも、胸の痛みを誤魔化してはくれなかった。



 そして俺は過ちを犯す。



『…ジェニーをお願いします。叔父上』

『あぁ。気を付けて行ってきなさい』


 あの男を信じて、ジェニーの事を任せてしまったのだ。




【妹の命が惜しければ第一王子ウィルフレッドを殺せ】




『は……?』


 妹の病は魔法によるものだと。

 だからお前が従者に選ばれた時に始まっただろうと、男は言った。


『悪い話じゃないだろ?第一王子が死ねばあんたの主が王になれる。あの強さだ、魔力がないなんて些細な問題だよなぁ。』


 フードをかぶった男を、俺はすぐに締め上げようとしたけれど。自分の身に何かあれば、他の誰かにこの事を話せば、その時点でジェニーは殺されると言う。


『今も他の奴に見張らせてるぜ?生徒にも仲間が何人かいる。』


 俺は――…アベル様にだけは、何とかして伝えようと思った。

 きっと何か策を思いついてくれる、どうにかしてくれる。

 ウィルフレッド様を殺して王になるなんて、彼が望んでいるはずが無いのだから。


 でも、見られていたら?


 アベル様に話す間に、考えてくれる間に、動く前に、ジェニーが殺されて――あるいは、連れ去られてしまったら。

 俺は人殺しにならなくても、ウィルフレッド様は死なずに済んでも、ジェニーは助からないんじゃないか?


 そんなの、意味がない。


 俺という人間にとって、それはどうしようもなく、どうしようもなく、事実だった。

 ジェニーが助からないと意味がない。

 心臓を握られたような恐怖。

 口を開いても声が出なかった。伸ばしかけた手が止まった。


 アベル様に話しかけようとした瞬間に、他の生徒が割り込んでくる事が何度かあって。

 教師に呼び止められる事もあった。

 誰だ?関係あるのか?ないのか?全員あいつらの仲間なのか?

 わからない。


 わからない、安全に話せる場所なんてあるのか?

 どうしたらいい?俺一人じゃどうにもできない。


 誰か俺達を、妹を助けてくれ。



【これ以上待たせるなら命は無い】



 その通告と一緒に、ジェニーの髪が届けられた。

 無惨に切り裂かれた、赤茶色の髪の束が。


『お兄様みたいに長くするの!おそろいよ。』


 そう、笑っていたのに。


 何かが壊れていく気がした。

 俺の中で膨らんでいた何かが、もうどうしようもなくなって。

 パリンと割れて、中身が溢れ出していくように――止まらない。



『ウィルフレッド様。』


 俺は最低だ。

 だって笑いながら彼を呼び出せる。


『シャロンちゃんが呼んでますよ。急ぎで、相談に乗ってほしい事があるって。』


 あの子の名前を使った。

 ウィルフレッド様が昔から心を許している相手。《大事な友達》。



 ごめんね、王子様。




 俺は貴方達より、妹が大事だ。




『がッ、ぁ……』


 初めて殺す気で刺した人間の身体は、固かった。

 俺は今冷たい目をしてるんだろうなと、他人事のように思いながら青い瞳を見返した。予想より遥かに容易い仕事だった。

 あまりに無防備な背中だったから、「そんなに俺を信頼してくれていたのか」と一瞬だけ思った。


 そしてすぐに否定する。

 俺が信じられてるんじゃない、貴方が不用心なだけだ。

 この人のそういうところは昔から――嫌いだった。


『どう、して……君が…』

『アベル様が望んだ事じゃない。それだけは言っておきますよ』


 体に足をかけて剣を抜いた。

 わざと雑に扱った。俺を、恨むように。

 倒れ伏した身体からドクドクと赤い血が流れ出していく。


 恐ろしかった。

 手が震えた。重くて、苦しくて、それでもジェニーは助かるはずなのに、安堵はない。

 処刑は嫌だと思った。処刑は当然だと思った。


 俺は妹を見殺しにしたくなくて、アベル様の兄を殺したんだ。


 ウィルフレッド様は僅かに顔を上げて、誰もいないのに前へと手を伸ばした。

 貴方を助けてくれる人なんて、ここには誰もいないのに。


『…ア、ベル……』


 止めを刺さなくてはならない。

 俺は手の震えをごまかすように、両手で柄を握りしめる。


『この、国を…守っ――』




 この音を感触を姿を声を俺は、一生忘れられないだろうと思った。




 夜の闇に紛れて、返り血もそのままに馬を走らせる。

 とにかく妹を、ジェニーを逃がさないといけない。

 逃げて逃げて逃げて、安心して預けられる場所を見つけて、そしたら俺は戻ってこよう。


 アベル様に殺されるために。



 家に着いた時、真っ黒に染まった雲からは雷鳴が聞こえていた。


『よく戻ったな、チェスター。』

 俺がウィルフレッド様を殺したと、既に報告を受けていたんだろう。

 叔父は満足気に笑っていた。


『これで何の障害もなくアベル様が王になれる。私の地位も安泰だ』

『どういう、事だよ…』

 俺の声は掠れている。何でだと、どうしてだと、心が崩れていく。

 叔父の背後、ベッドの上に仰向けに倒れているジェニーの服は乱れ、肌のあちこちに痣ができていて――そして、ピクリとも動いていなかった。


『お前がグズグズしていたせいで、もう虫の息だったからな。』

 悪びれた様子もなく、叔父だった男が下卑た笑みを浮かべる。

 貴方はいつから、そんな顔をするようになったんだ。いつから、そんな人間だったんだ。いつから。


『最後に()()()()楽しんでおこうと思っただけだ。しかし、「お前のために兄上が人を殺すぞ」と言ってやったら酷く暴れてね。』

 今まで大事に使ってやったのにと、叔父は苛立たしげに唾を床へ吐き捨てる。

 言葉の意味を理解した途端、俺はその場に膝をついていた。堪える余裕もなく胃から逆流したものが溢れ出る。

 部屋にいたらしいフードの男が高笑いしながら俺の背中を蹴り、床に転がして踏みつけた。叔父の話はまだ続いている。


『そういえば最初の頃は、「お兄様たすけて、お兄様~」ってうるさかったんだ。「お兄様にこの姿を見せつけてやろうか」と言ってからは、随分大人しくなったよ。』


 俺は何をしていたんだ?ジェニーが苦しんでいる事も知らずに。

 床に頬をつけたまま拳を握ると、首筋に冷たい何かが押し当てられた。プツリと皮膚が切れる感覚がする。


『おっと、死にたくなきゃ動くなよ?お前の売り先も決まってるんだ。とある美青年コレクターでね、だんだん顔や体を削っていくのがお好みらしい。ッハハハハハ!!』


 俺は、もういいと思った。


『…ん…げん』

『何か言ったか?』

『あー、魔法に頼るなら無駄だぞ。我々の最適は《風》だ。子供が出した水なんぞ、散らせばそれで――』


『水よ』


 俺にできるありったけの力で。

 ここで魔力が尽きて、一生使えなくなってもいいから、頼む。



『この悪魔どもを()()()()!!!』






 いつの間にか、外は大雨になっていた。


 ウィルフレッド様の返り血が乾いてまだらに黒くなった服から目を離し、俺は衣服を整えたジェニーに布団をかけた。

 乱れた髪を撫でて、泣き腫らした瞼に、紫色の痣になった頬に、そっと触れる。


 俺は、なんのために。


 足音が聞こえてきた。

 早く、正確にここへ向かっている。

 俺の足跡でも辿ったのか、それとも、いや、もうなんだっていい。彼が来てくれたなら。


 足音は開きっぱなしだった扉の前で止まった。

 珍しく乱れている呼吸音と、水滴が垂れる音。

 聡明な我が主ならきっと、一目見て何が起きたかはわかったのだろう。


『チェスター、答えろ』


 ゆっくりと振り返った。

 剣を手にしたアベル様が、外套から水を滴らせて歩いてくる。

 獰猛な獣みたいな金の瞳は、まるで燃えているようだった。


『ウィルを殺したのはお前か。』


『――はい。』


 答えた瞬間、剣が胸を深く貫いた。



『お前を許せない。』



 当たり前だ。

 許さないでくれ、それでいい。


『だが――…気付けなかった、俺の落ち度だ。』


 あぁ……ばかだなぁ。

 柄にもなく涙が溢れ出てきた。胸を刺されてるから、仕方ない。

 ずぶずぶと引き抜かれていく刃に、意識を持っていかれそうになる。

 待ってくれ、まだ。もう少しだけ。


『すまない。チェスター』


 なんて顔してるんだよ、ほんとに。

 ぼろぼろと涙をこぼしながら、俺は笑みを浮かべていた。

 全然、なんにも、笑ってる場合じゃないのにね。笑っていい立場でもないのに。


『ごめん…』


 掠れた声は、ちゃんと聞こえているのかわからない。


『ごめん、な…アベル様……』


 同情しなくていい、俺を許さないでくれ。

 自分を責めないでくれ、それから――


 身体が床に落ちる。

 衝撃でゴポッと血を吐いて、霞む視界でまだ、アベル様が俺を見下ろしているのを確認する。

 世界の全てが白んでいく。


『ウィル、様が……貴方、に』


 視界がぐるりと回って、何も見えなくなる。

 俺はちゃんと声を出せているだろうか。


『国を、守っ…て、と……』


 もうどこにも力が入らない。

 死んでいくというのに、俺はどこかほっとしていた。


 父上と母上のところへ。ジェニーのところへ。


 俺は仇を討って、そして、ちゃんとアベル様に殺される事ができた。


 なんにも幸せじゃないけど、今となっては、それだけが。

 それだけが、救いだったから。



 ありがとう、アベル様。

 俺を殺してくれて。



『……わかった。』



 本当は、もっと一緒にいたかった。

 だって破天荒で、言葉足らずで、誤解を生んだって知らん顔で進む貴方の事は、それを理解してる誰かが支えてやらなきゃいけないから。


 大人になるにつれてきっと、ウィルフレッド様だって貴方がしてきた事の意味を理解する。

 俺はそれを卒業までに見れるだろうって期待してたんですよ。脇役がとやかく言う事じゃないから、自分で気付いてもらおうってね。


 それに心を見透かすような、寄り添うような、あの女の子に出会えた事も。

 貴方がたにとって幸福な出会いだったと思う。

 俺が壊してしまったけれど。



 もし時を戻せるのなら俺は、家族を救いたい。



 そうしたら何に怯える事もなく、貴方がたの成長を楽しく見守れていたはずだから。

 双子の王子様の兄弟喧嘩も、眼鏡君の反抗心も、お嬢様方の笑顔も何もかも。


 あぁ…それはなんて幸せで、




 なんて遠いんだろうね。






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