83.《他の令嬢》
シャロンがクローディア・ホーキンズ伯爵令嬢と出会ったのは去年、彼女が王立学園を卒業したすぐ後の頃だった。
フェリシア・ラファティ侯爵令嬢に紹介された彼女は、シャロンより六つも年上で今年十八歳になる。
背中まであるストレートの黒髪はさらさらで、まったく結わないものだからいつも美しく風になびく。黒い瞳を抱いた猫目は気の強さを見せながらも気品があり、陶器のような白い肌にうっすらと微笑む桜色の唇と、歩けば誰もが振り向く美女である。
…性格は少々、独特だが。
「フフ…そう怯えないで良いのですよ、ノーラ。」
閉じた扇子を手にやんわりと腕組みをして、クローディアは目の前で震える男爵令嬢に微笑みかけた。
ノーラと呼ばれた彼女はまだ十二歳で、薄茶色のウェーブがかった髪を編み込んでハーフアップにし、そばかすのある頬には軽く白粉をはたき、ちょこんとした鼻に丸眼鏡を乗せている。見開いた目の中にある瞳は朱色で、顔色はひどく悪い。
「無理…無理ですクローディア様!あ、貴女様にお会いするのだって畏れ多いのに、筆頭公爵家のご令嬢に会うだなんて!!あぁああたしのうちは男爵家ですよ!?」
「知っていますけれど、何か問題でも?」
「家格が違い過ぎるというか!」
「あら、まぁ……貴女、殿下とは随分親しくなさっているではありませんか。よく連絡をとっていますよね、直接お会いしていますよね?」
「ひぃい!!」
クローディアはただニコニコしているだけなのに、ノーラは悲鳴を上げて後ずさった。既に壁際まで追い詰めていたので、ほんの数センチの差ではあったけれど。
ピィピィ鳴く小鳥のようで可愛らしいこと、とクローディアはますます口角を上げる。
「親しくなんて、そんな!殿下には単にこき使われ…ごほんごほん!」
「フェリシア様もわたくしの可愛いシミオンも、学園にいて動けないのです。わたくし達が殿下のお力にならねばいけませんよ。」
「そりゃ、わかってますよ?あの日の恩を忘れたとは言いませんけどぉ…」
「まぁ、わかって頂けて嬉しいわ。こちらが招待状です。」
「へっ?」
クローディアの背後から音もなく現れた従者が、ノーラ・コールリッジ宛の上質な封筒を差し出してくる。反射的に受け取ってしまったそれを、ノーラは「しまった!」という顔で見下ろした。伯爵家の誘いの手紙を受け取ったら、返答は「喜んで」しか許されない。
「ではね?」
「ままま待ってください!せめて、なんで…何でなんですかっ!?」
踵を返したクローディアに掴みかかろうとして、ノーラは慌てて自分の手を引っ込めた。伯爵家の令嬢の服を引っ掴んで止めるなど、そこで鋭い目を向けてくる従者に何をされても文句は言えない。
優雅に振り向いたクローディアの猫目は楽しそうに緩んでいる。
「わたくし達、王子殿下達の狩猟に同行するのですよ。放置してもよい方々はさておき、シャロン様とは事前に顔合わせをしておいた方が良いでしょう?」
「何それまったく聞いてないんですが…決定事項なんですか!?狩猟って……」
「要は、殿下達とのお見合いです。」
「はぃいい!?」
とんでもない事を言い出されてノーラは大声を出し、慌てて口を押さえた。クローディアは涼しげな顔をしているが、従者の男は顔をしかめている。
お見合い――狩猟――放置して良い方々――幻の令嬢シャロン・アーチャー。
ノーラの頭は大慌てで回転した。
「クローディア様…もしかしてアーチャー家のご令嬢って、あたし達と同じ立場なんですか?」
「違います。」
「じゃあまさか……殿下が狙ってるから協力しろってこと…?」
バサッ。
「………違います。きっと。」
クローディアは吹き出すのを堪え、扇子を広げて口元を隠した。きっと、と付け足してしまったのは、五年前に王子殿下からフェリシアに出された指示を知っているからだ。
王子との見合いの場に行けるというのに、ノーラはひどく嫌そうな顔をしている。そんな子だからこそ《協力者》として認められているのだと、クローディアは内心深く頷いた。
「勘弁してください…そんなところに行ったらあたし、《放置してよい方々》とやらになじられるじゃないですかぁ……。」
「フフ…殿下に招待されるのですから、堂々としていればいいのです。」
「クローディア様はそれで平気でしょうけど……はぁ。殿下に、当日は絶対に話しかけないでくださいねって言っておこうかな。」
こめかみに手をあて、ノーラは疲れたように首を振った。反対の手で持ったままの封筒を裏返せば、黒い封蝋には牡丹に寝そべる猫の模様がスタンプされている。
「このお茶会はその…シャロン・アーチャー様だけですか?」
「いいえ?もちろん、色んな方をお呼びしています。」
「えーっ!じ、じゃあそこでもあたし色々言われるじゃないですか!!」
「シャロン様と貴女だけを呼ぶ方が目立ちますし、シャロン様はわたくし達が殿下の協力者だとは知らないのです。殿下からお許しは出ていませんから。」
頭を抱えてしまったノーラに、クローディアはにっこりと微笑みかける。
「修羅場の話、後から聞かせてくださいね?」
「そんな…」
ノーラはふらふらと壁伝いに歩き、窓の鍵をかちゃりと開けた。ガコン、と窓を開ければ爽やかな空気が舞い込んで髪を揺らす。大きく息を吸った。
――あたしはエサって事ですかああああああ!!!
叫ぼうとしたノーラの口は、クローディアの従者の白手袋がしっかりと覆った。もがもがと喚きながら引きずり戻される彼女を眺めながら、クローディアはやはり楽しそうに微笑んでいたのだった。
「…それにしても、クローディア様って本当に変わってますよね。」
そう呟くノーラの部屋にあるのは、豪商の娘でありながら簡素な物を好む彼女の趣向通り、さして高級品でもないテーブルだ。
クローディアが平然と腰かけている椅子も、クッションこそあるけれど、どこぞのお姫様のように輝いている女性が座るべき物ではない。しかもクッションの隅っこにはノーラのへたっぴな刺繍が入っている。
「そうでしょうか?」
「普通、伯爵家のご令嬢が男爵家の、それもあたしの部屋なんかでくつろぎませんよ。」
男爵家の侍女が淹れた紅茶は、商いの伝手で仕入れた珍しいものだ。
クローディアは何を飲んでも上品に微笑んでいるので、美味しかったのか本当は口に合わなかったのかサッパリわからない。
「応接室は嫌がるし。」
「ですが、アレは貴女もお父様に言えないのでしょう?」
「……はい。」
そうだった、とノーラは遠い目をした。
豪華に設えた応接室は父が置いた「貴重な壺」とやら――なぜか顔面が彫られている――に見張られているのだ。あそこは確かに落ち着かない。
「これ、どうして敢えてお持ちになったんですか?」
応接室の話題を無かった事にして、ノーラはテーブルに置いた封筒を示した。
手紙として出せばいいものを、わざわざ本人が来て直接話しながら渡すのは不可解だ。
「なんとなく、そうした方が良い気がしたのです。」
「はぁ、そうですか。」
ぽかんとして返したノーラを、クローディアの従者は「不敬だ」と言わんばかりに睨みつけた。しかしこれくらいでは手を出されない事くらい、ノーラも学習済である。
「実際、シャロン様の専属侍女の方にたまたまお会いできました。フフ、郵便として届くより印象強いでしょう?」
「本当に偶然なんですか、それ…。」
顔をひきつらせたノーラは、伯爵家の力で行動予定でも調べたのではと思っているらしい。クローディアは優雅な手つきで紅茶のカップを傾け、微笑んだ。
「わたくしはただ、風の向くままに。」
◇
ごんごん。
「はぎゅっ!?」
頭の下に固い振動を感じ、ノーラはびくりと目を覚ました。
クローディアが帰った後、気疲れしたせいかテーブルに頬をつけて眠りこけていたらしい。侍女か誰かがテーブルを叩いて起こしてくれたようだ――
「起きたか。」
黒い髪、冷ややかな金の瞳に、整った目鼻立ち。見慣れた顔である。
ノーラは血の気が引いてガタガタと椅子ごと後ずさった。
「でででででんッ!!?」
「おい」
「すみませんでした!!」
危うく「殿下」と叫びそうになり、慌てて頭を下げて謝罪する。
口元の違和感に気付いて手をあてるとよだれがついていた。急いでポケットからハンカチを出して拭い、テーブルに垂れていた分もごしごしと拭く。アベル第二王子殿下は黙って目をそらしてくれていた。
「ど、どうしてここにいるんですか…!?」
「用があったから来た。」
「わかりますけども!!」
部屋の扉はこれでもかという程に開け放たれており、侍女が伺いも立てずに第二王子を寄こすのは初回ではない。彼は大抵急いでいるからだ。
しかし、お嬢様がよだれを垂らし遊ばしになっている可能性も少し考えてほしかったとノーラは思う。
一度深呼吸して、丸眼鏡をかちゃりとかけ直して咳払いした。
「こほん。…アンソニー様、どうぞご用件を…あ!狩猟の話ですか!?」
「なぜ知って…クローディアか。」
少しだけ首を傾げたアベルは、すぐ真実に思い当たったようだった。
この小首を傾げる動作だけで令嬢が何人も倒れるんだろうなとノーラは心中でため息をつく。何せ王家は顔がいい。ノーラの趣味ではないけれど。
「さっきいらっしゃいました。狩猟という名の見合い場は勘弁してください、身分違いだっていびられるじゃないですか。」
「彼女は本当に行動が早いね。昨日、誰を連れて行くか相談に乗ってもらったばかりだったんだけど。」
「聞いてますか?男爵令嬢を巻き込むのはやめましょ?」
「特別な事はしなくていい。」
「言いましたね、当日は絶対に話しかけないでくださいよ!?ただでさえ身分でヒソヒソされるだろうに、嫉妬まで加わったらシャレにならないんですから!」
ノーラが好んで読む数多くの恋愛小説において、嫉妬に狂った女は大層恐ろしい事をしでかすのだ。
自らの肩を抱いて震える彼女を、アベルは数歩離れたところから不思議な生物を見るような目で眺めている。大変に失礼だ。顔が良いからといって許されるものではない。
ノーラが求めているのはイケメンではなくゴリマッチョである。
「挨拶は全員にしないといけない。それは我慢してくれるかな。」
「全員なら、まぁ…。あたしの時は誰よりもすげなく、素っ気なくお願いしますね。」
「そんな事をしたら、兄はフォローのために君に優しくするだろうね。」
「ぐっ!じゃあ普通で…」
ノーラは第一王子であるウィルフレッドに会った事はないものの、かの人が穏やかで優しい王子であるという噂は聞いていた。冷たくしてもらう作戦はNGのようだ。がっくりと項垂れる。
「はぁ…。アーチャー家のご令嬢とはちゃんと顔合わせしときますから、安心してください。」
「顔合わせ?」
「えぇ、クローディア様の茶会で…聞いてませんか?」
「…聞いてはいないな。対応は任せるとは言った。」
「そうでしたか。」
結局シャロン・アーチャーがどういう位置付けの人物なのかわからないが、ノーラはただ相槌を打った。首を突っ込んで仕事が増えたら面倒なのだ。
テーブルに置きっぱなしだったカップを掴み、冷え切った紅茶を喉に流し込む。すぐに帰るだろうアベルに紅茶を出していないのもいつもの事だ。第二王子派の貴族が知ったら不敬だと赤ら顔で怒りそうだと、ノーラはちょっと笑いそうになった。
「それで本題だけど」
「んぐふッ!」
まだ本題じゃなかったんかい、と心中で突っ込みを入れたばっかりにノーラは噎せた。彼女の令嬢らしくない所など見飽きたアベルは驚きもせず、そのまま話を進める。
「裏街に妙な薬が流れていないか調べてほしい。盗品だ」




