80.きっとぼくはつよい
目が合った瞬間、血の気が引いた。
頭に冷たい水を浴びせられたよう――いえ、もっとひどい。まるで頭を真っ二つにされて、そこにあった血液が全て流れ出てしまったかのよう。
息はどうやってするものだったかしら。口がはくはくと緩く動くだけで一向に空気が入ってこない。目がそらせない。優しかったはずの綺麗な緑色が、今はただ私を突き刺している。
その視線がレオへとずれてようやく、ひゅぅ、と僅かに空気を吸い込んだ。
いきなり深呼吸はできなくて、浅い呼吸を繰り返しながら、目だけがレオの様子を確認するためにぎこちなく動く。
彼の手は震えながら、でも、木剣を握りしめていた。
「――お終いです。」
そう言って、レナルド先生は左目を閉じた。
私は力が抜けてしまってその場に座り込む。レオは木剣を支えにしたけど膝をついた。駆け寄ってきたメリルが私の肩を抱き、レナルド先生を睨みつける。
「こんな…ッ子供に向けるものではありません!」
「その通りです。しかし、向ける者もいますよ。話せますか?二人とも。」
レオは気合を入れるように大きく息を吐いて、しっかりと顔を上げた。
「なんとか。」
私は今になってドクドクと鳴り響く心臓の鼓動を感じながら、優しく包んでくれているメリルの腕をそっと押した。
びくりと震えた腕に心の中で謝って、さらにそうっと押し広げて、立ち上がる。
「――大丈夫、です。」
「いいでしょう。日常生活で今のような殺気を浴びる事など、まずないとは思いますが…だからこそ、いざという時に身体は固まる。敵意、害意、殺気…それら全てに共通する緊迫感に、少しは慣れておくべきです。怖気づいては何もできませんからね」
レオは真剣な顔で頷いた。きっと騎士団に入った後の事を考えているんだろう。
私は伯爵邸で起きた事を、カレンを襲った人達の事を、冬に起きるだろう事件を思って拳を握る。
そしてほんの少しだけ、アベルが私に剣を突きつけた時の事を、思い返した。
かなり手加減されていたのね、なんて、わかりきった事を。
「防具は今着ている服の上からで結構です。」
身体の震えがおさまってから、私達は胴体と手足に防具をつけた。
レオは革製の、私は加えて内側に綿をつめたような、ちょっと厚いけどその分防御力の高い防具だった。これならちょっと木剣があたったくらいでは怪我できないと思う。
頭は狙わないルールで、私達は向かい合う。
いつもより遥かに緊張感が漂っている。レオの顔に笑みはない。
私は始める前に聞いておこうと、レナルド先生を見た。
「レナルド先生。二人とも、とおっしゃったという事は、私も本気じゃなかったように見えたのですか?」
「貴女の場合、加減をしているつもりはなかったのでしょう。」
「……はい。」
「ちゃんと隙を狙っていましたね、レオにあてるつもりで。しかし、《あてる》と《攻撃》は違います。怪我をさせる可能性を排除した上で振れば、当然動きは鈍い。」
私は目を瞠った。
言うなれば私は、魔法の練習と同じ事をしていたのだ。魔法では的を使って、剣術ではレオという生きた人が相手なのだから、一緒くたにするものではないけれど。
「攻撃する」つもりでいた私は、実際には「木剣をあてる」つもりだった…という事ね。
「怪我の一つや二つで人は死にません。……当たり所がよければ。」
レナルド先生が小声でボソッと付け足すように言ったけれど、よく聞こえなかった。
メリルがじろりと彼を睨んでいる。殺気体験のせいですっかり好感度が下がってしまったみたい。
「殺す気でとは言いませんから、《もう少し本気で》。わかりましたか?」
「「はい!」」
私達はきっぱりと返事をして互いに目を戻し、レナルド先生が「始め。」と号令をかける。
私はこの日初めて、レオの気迫を正面から感じた。
◇
シャロンとレオの模擬戦を、クリスは庭の隅から眺めていた。
クリスはもう少し近くで観戦したがったが、専属侍女であるチェルシーがカタカタ震えながらクリスの肩に手を添えて止めている。
レナルドが殺気を出してみせた時などは蒼白な顔でクリスを抱きしめていた。直接向けられたわけではなくとも怖かったのだろう。
クリスも身が冷えるような思いをしたが、彼がこちらを向く事はないとわかっていたからか、泣き出したりはしなかった。
――ぼくはまだ、あそこにははいれない。
今までよりずっと激しい攻防を見つめながら、クリスはほんの僅かにため息を吐いた。
二人から視線を外して、壁際に立つレナルドを見る。
赤いストレートの短髪に、左目は明るい緑色の瞳。右目は黒い眼帯に覆われ、左手には黒い手袋をつけていた。
「チェルシー。ぼく、せんせいのところにいきたいな。」
「へぇっ!?あ、はい!先生の所でしたら、まぁ…。」
鍛錬の時間が終わるまでここでうずくまっているつもりだったのか、チェルシーはクリスの声にすらビクリと肩を揺らした。
きょろきょろと模擬戦をする二人とレナルドの距離を確認し、クリスの手をしっかりと握ってレナルドの斜め後ろあたりを目指した。
チェルシーはびくびくしながらレナルドを見るが、彼はシャロン達から視線を外さない。
レオは攻撃があたる瞬間に力を抜いて、全力で打ち込まないようにしている。シャロンには軽い衝撃しか伝わらず痛みはないはずだが、悔しさからかその表情は険しい。
彼女の攻撃も幾度かレオにあたっているところを見ると、模擬戦は意味があったのだろう。
「私に御用でしょうか、クリス様。」
前を見たまま、レナルドが聞いた。
銀色の視線が模擬戦ではなく自分に刺さっている事に気付いていたのだろう。
チェルシーは「ごめんなさい!」とわけもわからず謝りたくなったが、口を閉じたまま堪えた。お嬢様の家庭教師という立場で来てくれているが、実際には彼は騎士団の副団長であり、本来なら侍女の自分が気軽に話せる立場ではない。
メリルは毅然として突っかかっていたが、あれは彼女だからできる事だ。
チェルシーがちらりと視線を下げてみると、クリスはまったく物怖じしていないようだった。
「ぼくはね、つよいひとみたいになれるように、がんばってます。」
幼いが故の怖い者知らずなのか、はたまた、次期アーチャー公爵家当主ともなれば、幼くともその器が既にあるという事なのか。
チェルシーはそんな考えを巡らせたが、お菓子を前に愛らしく笑っていた事を思い出して、後者の可能性は無いなと切り捨てた。
「おうじさまとせんせいは、どちらがつよいのでしょうか?」
「王子様とは?」
「ぁ、えと…」
「第二王子殿下の事です。」
自分が言うべきかともごもご言いかけたチェルシーを、メリルが助けた。
彼女もまた模擬戦に目を向けたまま、レナルドの方を見ようとはしていない。
レナルドは一瞬、なぜクリスがそんな質問をするのか考えた。
市井に回っている「第二王子は剣術に秀でている」という噂か、姉から何かを聞いたのか、あるいは――よろしくない事だが、ここでレオと鉢合わせて、手合わせでもしたか。
レオがシャロンと手合わせしているのは、あくまで公爵夫妻の正式な許可あっての事だ。
第二王子と剣を合わせるとなると、本人が許しているだけでは済まされない。少なくとも騎士か従者立会のもと、正当な手順なら国王陛下、王妃陛下にも事前の申告が必要だろう。
実際にはアベルが騎士ですらないレオに傷をつけられる可能性などゼロに等しく、本人があの通り我を通すタイプであり、陛下方もだいぶ放任主義であるからして、お咎めはないと考えられるが。
副団長としてのレナルドは、万一にもそんな事実があったと知るわけにはいかない。厄介でしかないからだ。つまり藪蛇にならぬよう、「殿下が戦うところを見た事があるのですか?」などと聞いてはいけない。
そんな思考を数秒で終えて、レナルドは口を開いた。
「手合わせをした事がないので、わかりませんね。」
その答えにメリルだけは僅かに眉を動かしたが、この場の誰もそれには気付かなかった。
第二王子を気遣って答えをぼかしたようにも、自分のために答えをぼかしたようにも聞こえる、子供相手に相応しい回答だった。
レオの木剣がシャロンの腹部にあたり、僅かに鈍い音を立てる。
シャロンは「気にしないで!」と声を掛けながらすぐに体勢を整え、マズイという顔で目を見開いていたレオは、慌てて自分も距離を取った。
クリスはそれを、じっと見ている。
「ぼくは、おうじさまみたいにつよくなりたいです。」
「……姉君がそう在ろうとするからですか?」
本心では今話しかけないでもらいたいと思っているレナルドだが、公爵家の令息、それも自分の雇い主の息子を無視するわけにはいかない。
「あねうえはつよくなるそうなので、ぼくは、もっとつよくなって、あねうえよりつよいひとからも、あねうえをまもりたいからです。」
「公爵様のように、とはおっしゃらないのですか。」
「ちちうえがたたかうところを、まだみたことがないから、むりなのです。」
その言葉に違和感を覚え、レナルドは訝しげに眉を顰めた。それでも視線はクリスに向けない。
確かに、公爵自身が戦う姿などまず見ないだろう。
それは即ち第二王子が戦う姿は見た事がある、という結論になってしまう。やはり追及せずにいて正解だったと思いながら、レナルドは「そうですか」とだけ返した。
「いちばんつよいひとがたたかうところをみて、そのひとになったら、きっとぼくはつよいです。」
「……く、クリス様。シャロン様がんばっておられますね!ね?」
レナルドが沈黙した事を怒りと考えたのか、チェルシーが慌てて話題をそらそうとする。
クリスの発言は子供の夢物語で、努力をしてきた者に対して失礼で、荒唐無稽だった。
「そこまでにしましょう。」
だいぶ疲れて来た様子のシャロンとレオに声をかけ、レナルドはクリス達を置いて歩き出す。
その声に苛立ちが含まれていない事に、チェルシーはひどく安堵した。侍女として先輩であるメリルを見上げれば、彼女は既にタオルと水を持ってシャロンのもとへ駆けている。
チェルシーはクリスが駆け出さないよう側に控えているので、レオへのタオルと水は別の侍女が持って行ってくれた。
「はあっ、はあっ…はぁ、」
シャロンは大きく肩を揺らして息をしている。
汗の量も疲労度もこれまでと段違いだ。集中力も咄嗟の判断もスピードも力も、全て必死にやらなくてはいけなかった。
何度も剣は防具にあたり、シャロンの攻撃もあたり、刃のある剣でやっていればお互いに傷だらけだった事だろう。その場合、もちろん傷が多いのはシャロンの方だ。
もし、レオが鍛錬に付き合ってくれるようになった当初からこれをされていたら、全く勝負にならなかった。シャロンはついていけなかったし、レオはここまでちゃんと相手をしてくれなかっただろう。
防具無しでやれば、何も言わずともレオは手加減する。
まずはその状態で慣れさせる事で、シャロンの技術向上だけでなくレオにも段階を踏ませたのだ。シャロンにどれくらいの実力がついているか、身をもって理解させるために。
「「ありがとうございました。」」
へろへろになりながら、シャロンはレオと向き合って礼をした。
レオはまだ真っ直ぐ立っているが、緊張から解放されたシャロンはすっかり地面に座り込んでしまっていた。
やっている最中は気力でもっていたのだろう、脚はガクガクだった。メリルが甲斐甲斐しくタオルで汗を拭い、水の入ったコップを支えている。
シャロンの数メートル前まで来て、レナルドは片膝をついて視線を合わせた。
さきほど殺気を出してみせた男とは思えないほど、意識して作られた微笑みは柔らかい。
「よく頑張りました、シャロン様。」
「そんな…私は、全然、余裕もなくて……。」
「いや、ほんとすげーよ。他の…お嬢様じゃ、こうはいかねぇって。」
レオはまだ少し荒い息のまま大きく頷き、シャロンの横にどかっと座って彼女の肩を叩いた。
気安いスキンシップにメリルはじろりとレオを見やったが、レオは気付いていないのか「あちー」とタオルで自分の顔を拭いている。
「今後はこの形式で手合わせを行ってください。」
「えぇと、防具は…置いていってくださるということですか?」
シャロンは聞きながら申し訳なくなった。
レナルドが持ってきたという事は騎士団の備品か、あるいは私物なのではと思ったからだ。
「もちろんです。公爵から頂いた費用で作りましたので、それらはアーチャー家の所有物です。」
「そ、そうでしたか。」
それなら遠慮はいらないとシャロンはほっとしたが、レオは恐縮しきりだった。
お嬢様の鍛錬に付き合うからとはいえ、自分のサイズの防具を公爵家から贈られたのだ。しかも手入れなどはアーチャー家の使用人が行うので、レオは今まで通り身一つで来ればいいだけ。
深々と頭を下げるレオに、今度はシャロンが「私は何も」と恐縮する。
屋敷の廊下からその光景を見下ろしていたダンは、静かに踵を返して仕事に戻った。




